五代目團十郎の将門——江戸の将門は、いつも何かに化けている
平将門(903〜940)の絵を探すなら武者絵の棚だろう、と思うと空振りします。江戸の紙の上で将門に会えるのは役者絵の棚で、しかもそこにいる将門は、たいてい将門の顔をしていません。巡礼だったり、歌人に化けた霊だったり。安永6年(1777)11月、中村座。五代目市川團十郎が演じた将門は、白と灰の装束で、隈も取っていませんでした。
将門の絵を集めると、全部が芝居の絵になる
シカゴ美術館・メトロポリタン美術館・米国議会図書館・国立国会図書館デジタルコレクションの公開画像から、記録に「将門」を含む江戸期の錦絵を拾い、一枚ずつ開いて、将門本人が写っているものだけを残しました。9点あります。
この9点のうち8点までが、舞台の絵でした。役者の名、芝居の場面名、紅の隈。残る1点も歌川国貞(三代豊国)が近江八景に人物を当てた見立の大首絵で、描き方は役者絵です。舞台と切り離して「平将門」一人を描いた錦絵は、4館の公開分に1点もありません。首塚も、雷も、討ち死にも、江戸の版元は摺っていないのです。
絵師も偏っています。安永4年から寛政元年までの15年に4点が集中し、玉川舟水の1点をのぞけば全員が勝川派。この4点は判型もそろって細判です。
安永6年11月、中村座——同じ月の團十郎が2枚ある
目を引くのは、この静かさです。将門は朝廷に対して「新皇」を名乗った謀反人です。その役の絵が、灰と白と黄土色でできている。顔にも何も塗っていません。太い眉と、上瞼の重い目と、への字の口。それだけです。
ところが同じ興行の、同じ役者の、同じ絵師による一枚がもう一つあります。
同じ月、同じ小屋、同じ役者、同じ絵師、同じ細判。落款まで、どちらも同じ「春章画」の三字です。違うのは役だけ。そして絵の温度は、こうも違いました。
紋を探すと、もっとはっきりします。巡礼姿の将門の袖にも、入れ子の四角が三つ。市川宗家の三升紋です。ただし小さい。目測で紙の幅の1割5分ほど。暫のほうは同じ紋が右袖いっぱいに広がって、紙の右端で切れています。横幅は4割を超える。同じ紋、同じ人、同じ月、大きさは三倍近い。
十一月の小屋には、暫が出る
この差は團十郎の気分ではなく、江戸の劇場の年間の決まりごとです。いまの『暫』の型ができたのは元禄10年(1697)、中村座で初代市川團十郎が演じた『参会名護屋』の一場だとされます。これを継いだ二代目が正徳4年(1714)の『万民大福帳』で勤めて以降、江戸では毎年11月の顔見世狂言に、市川家の役者が暫を出すことになりました(『精選版 日本国語大辞典』)。出す場所まで決まっていて、一番目狂言の三立目です。シカゴ美術館が暫の一枚を「三幕目」と記録しているのは、この決まりに合っています。五代目市川團十郎(1741〜1806)自身、明和7年(1770)の襲名のとき、初代から伝わる衣装で暫を勤めています。柿色に三升——のちに「団十郎茶」と呼ばれる色です。安永6年11月の中村座も、その一つです。
面白いのは、これが「役名の決まっていない演目」だったことです。江戸時代の『暫』は登場人物の名が興行ごとに変わり、いまの鎌倉権五郎景政に固定されるのは明治28年(1895)を待ちます。シカゴ美術館が役名に「おそらく」と付けているのは、館の詰めが甘いからではありません。もともと固定されていないものを、後から一つに決めようとしているからです。筋書きより体裁が先に立つ、そういう出し物でした。
だとすると、外題に将門の名があっても、絵の側の主役は自動的に決まります。11月の顔見世に来た客が持ち帰りたいのは、柿色で三升の一枚のほうです。
十二年後、将門は「平親王」になる
12年後、同じ役者が同じ人物を演じました。役名は「平親王将門」。新皇を称したときの称号がそのまま役名です。今度は絵が全力でした。灰色の空に降る雪、雪をかぶった枝、桃色の雲模様、黒と黄と赤の太い横縞。額から口もとまで赤い隈が走り、突き出した手は五本の指を扇のように開いています。脚絆の下の素足は、真っ黒に摺られていました。
ただし、これも「そのままの将門」ではなさそうです。縞の着物に脚絆、頭には編み目の入った輪が弓なりに掛かっていて、宮廷の装いというより旅の扮装に見えます。所蔵館の記録に変装の記載はなく、劇中のどの場面かも確認できませんでした。12年前は色を抜かれていた役が、今度は画面を全部使っている。そこだけは確かです。顔の老いを読む話は役者の顔は歳をとるのかのほうです。ここで変わったのは顔ではなく、役の扱いでした。
同じ役を二人が描いた——はずでした
もう少しさかのぼると、比べ甲斐のありそうな組が見つかります。安永4年(1775)正月、森田座『信太楪蓬莱曽我』。初代中村富十郎(1719〜1786)が「平将門の霊が大伴黒主に化けた姿」を演じ、それを玉川舟水と勝川春好が別々に描いた——記録の上ではそう読めます。
この二枚、別人です。片方は紅の隈を目の左右に一本ずつ取った険しい顔で、烏帽子に狩衣。もう片方は隈のない静かな顔で、真っ黒な袍に冠、その冠の左右には黄色い扇形の飾り(緌)が張り出しています。装束も、髪も、顔つきも、共通点がありません。
ところがシカゴ美術館の記録をよく読むと、春好の一枚は題名じゅうに疑問符が付いていました。化けた先は「大伴黒主(?)あるいは菅原道真(?)」、演目は「信太楪蓬莱曽我(?)あるいは菅原伝授手習鑑(?)」、小屋も上演月も(?)付きです。上演記録を引くと、森田座は安永4年の正月に『信太楪蓬莱曽我』を、5月に『菅原伝授手習鑑』を出しています。同じ小屋の同じ年の二本、そのどちらなのかを館は決めきれていない。疑問符が付いていないのは、役者の名だけです。同じ役を二人が描いた、という前提はここで崩れます。
崩れなかったものが一つだけありました。丸紋です。
中心から矢が放射状に広がり、外の端が矢筈に切れ込む——矢車です。初代中村富十郎の屋号は天王寺屋、定紋は「鷹の羽八ツ矢車」。二枚に入っているのは、同じこの紋でした。役も演目も月も決まらないのに、誰が着ているかだけは決まる。似ていない役者絵は、なぜ売れたのかで見た「紋で読む」仕組みが、二百五十年たった今も美術館の同定を支えているわけです。
討たせた側の顔
同じ興行から、もう一枚。役は朱雀天皇。将門を朝敵として討たせた側の帝です。白塗りの顔に、墨で真っ黒に塗った眉と口髭と顎髭。この興行から拾った四枚のうち、いちばん怖い顔をしているのが、朝廷の側の人物でした。
これは配役の問題でもあります。演じた二代目中島三甫右衛門(1724〜1782)の父、初代(〜1762)は『暫』の「ウケ」の名人でした。公家出身の陰謀家を演じる公家悪の役どころです。鬚鬘の考案者ともされます。二代目も実悪の立物で、『菅原伝授手習鑑』の藤原時平は当時天下一品と激賞されました。公家悪を家の芸にした家が、天皇を演じている。
隈取の色は約束事で読めます。紅隈は正義や勇気、藍隈は大悪人や怨霊。安永4年の将門の霊も、寛政元年の平親王将門も、取っているのは紅でした。朝敵として討たれた男が正義の色を塗られ、討たせた帝が公家悪の顔をしている。江戸の舞台で、将門は悪役ではありませんでした。
幕末まで、将門の顔は役者の顔だった
寛政元年から60年近くたっても、事情は変わりません。役名は相変わらず「平親王将門」で、描かれているのは四代目中村歌右衛門の顔です。嘉永5年(1852)には、三代豊国が歌舞伎十八番『鎌髭』の「相馬の将門」も摺っています。将門は江戸の間じゅう、舞台から降りてきません。
本人が絵の主役になるのは、明治になってから
安永4年から百八年たって、ようやくこうなります。役者の名がない。隈取がない。舞台の大道具もない。将門が、将門として画面に立っています。
明治の絵師が将門を舞台から連れ出したとき、討ち死にの場面は選びませんでした。芳年の将門は白馬の上で生きていて、相手を踏み越えて攻めています。九百年ぶん朝敵と呼ばれ、江戸の百年は巡礼や歌人に化けさせられ、ようやく自分の顔で描いてもらえた一枚で、この人は勝っている。層が一枚剥がれたときに出てきたのは、負ける前の姿でした。
巡礼の役名は、シカゴ美術館の英題に "the Pilgrim Junjo" とあるだけで、漢字表記は確認できませんでした。
点数は上記4館の公開画像で数えたもので、江戸期の全作品ではありません。制作年は所蔵館の推定を含み、紋が画面幅に占める割合は画像上の目測です。
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- 展示室で一言語れる蘊蓄集 — 柿色と三升が「団十郎茶」という色名になるまで
- 武者絵の名作を追う 第4回 「相馬の古内裏」 — 舞台を出た将門の娘、滝夜叉姫の一枚