武者絵の名作を追う 第4回 「相馬の古内裏」——三枚続を一枚の絵にする
三枚続は本来、一枚ずつでも絵として成り立つように作ります。歌川国芳はその約束を破りました。左の一枚だけを見せられると、何が描いてあるのか分からなくなる——それがこの絵のいちばん異常なところです。
三枚続は、本来「三枚のセット」ではありません
大判三枚続は、大きな紙が一枚あるわけではありません。大判を三枚、横に並べて一つの場面にする形式です。ここで効いてくるのが、江戸の版画が一枚単位で流通していたという事情です。
売るときは一枚ずつ。改印も一枚ずつ。買った人が壁に貼るのも一枚ずつです。だから絵師は普通、三枚のそれぞれが単体でも絵として成り立つように描きます。千葉市美術館はこの絵の解説で、三枚続は一図ずつでも構図が独立するように作画するのが通常だが、この絵はその慣例に従っていない、という趣旨のことを明記しています。
実際、この三枚には全部、瓢箪の形をした朱色の枠に「一勇斎国芳画」と入った落款があります。左の一枚には改印も見えます。制度の側は、あくまで三枚を三枚として扱っている。国芳はその上で、三枚を一枚のつもりで描きました。
左の一枚だけを見せられても、絵になりません
これが証拠です。肋骨と背骨と腕の骨、あとは黒い闇と、下端をかすめる御簾。人物も建物も景色もありません。単体で店先に並んでいたら、何の絵なのか誰にも説明できないはずです。
面白いのは、三枚が均等に破綻しているわけではないところです。右の一枚——姫が立っている図——は、それだけでも十分に絵になります。破れた御簾の前に女が一人立っている、という場面として読める。中央も、うずくまる武者二人と巨大な頭蓋骨があるので、なんとか話が見えます。成り立たないのは左だけです。
つまり国芳は、三枚のうち二枚には逃げ道を残し、一枚だけを完全に犠牲にしました。犠牲にした一枚に何を置いたかというと、骸骨の胴体です。いちばん大きくて、いちばん怖い部分を、いちばん絵にならない置き方で置いている。度胸のいる配分だと思います。
継ぎ目は、闇に落としてあります
ここを見ると、国芳の手の内が分かります。骸骨という一つの体は確かに三枚にまたがっているのですが、紙と紙の境目には、白い骨をまたがせていません。継ぎ目が通る位置には黒い闇を持ってきている。
三枚続は、貼り合わせても紙の厚みぶんの段差が残りますし、摺りの具合で色が一枚ごとに微妙に違うこともあります。境目に大きな白い面を渡してしまうと、そのズレが目立つ。逆に、黒くつぶれた部分を境目に持ってくれば、多少ずれていても分からない。
大胆に見える絵ですが、こういう手当てはしてあるわけです。約束を破るところと、破らないところが選んであります。
妖術を使っている当人は、静かな顔をしています
場面は、平将門の遺児である滝夜叉姫が、下総国相馬の荒れた御所で妖術を使い、追ってきた大宅太郎光国たちに巨大な骸骨をけしかけるところです。
その術者の顔を見てください。目を見開いてもいないし、口を歪めてもいない。両手で巻物を広げて、そこに書かれた文字を読んでいるだけです。少し口が開いているのは、たぶん唱えているからでしょう。髪をほどいて肩に流しているぶん、むしろ日常の姿に近い。
怖がっているのは、人間のほうです。中央の紙で、太郎光国は片膝をついて刀を横に構え、眉を吊り上げて上を睨んでいます。その手前で家来の荒井丸は、ほとんど四つん這いになって身を縮めています。骸骨を出した側は静かで、出された側が必死という配分です。
武者絵は普通、武者の側に力を入れます。第3回の楠木正成のように、覚悟を決めた顔をどう描くかが見せ場になる。この絵はそこを逆にしました。主役は明らかに骸骨で、武者は骸骨の大きさを測るための物差しとして置かれています。
元の話では、骸骨は一体ではありません
この絵の下敷きは、山東京伝の読本『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』、文化3年(1806)の刊行です。
ところが、その本文で姫が呼び出すのは、数百体の骸骨です。それが東西に分かれて合戦してみせ、光国を驚かせようとする。国芳はその群れを、一体の巨人に置き換えました。『生誕200年記念 歌川国芳』(1996)がその点を指摘していて、千葉市美術館の解説も、読本では数百の骸骨が戦うところを大きな骸骨の出現に代表させた、という言い方をしています。
数百体を一体にする。増やすのではなく、減らしている。しかもその一体を、紙三枚に引き伸ばした。数を減らしてから、残った一つを画面いっぱいまで拡大する——この手つきは、奇想の浮世絵で見た国芳のほかの仕事とも通じています。
解剖書を見たのかどうかは、決まっていません
この骸骨は骨の作りが正確だ、だから国芳は西洋の解剖書を見たのだろう——という説明をよく見かけます。
出どころははっきりしていて、辻惟雄が昭和46年(1971)に書いた論考に、西洋伝来の解剖学に基づく骨格図を国芳が参考にしたという見方が出てきます。ただし鈴木重三は、解剖書だけでなく、当時の見世物との関連も考える必要があると付け加えている。美術館の解説も「参照したのではないかと言われています」という書き方をしていて、断定はしていません。
国芳がその本を持っていた、見た、という記録が出てきたわけではないのです。骨の描きぶりが正確だから逆算した、というのが実態です。肋骨の本数や関節の作りを医学の側から検証した文献も、私が探した範囲では見つかりませんでした。
ですので、ここは「そう言われている」で止めておきます。国芳が何かを見て描いたことはほぼ間違いないと思いますが、それが解体新書だったかどうかは、まだ誰も証明していません。
「がしゃどくろ」は、この絵より百二十年あとに生まれました
巨大な骸骨の妖怪といえば「がしゃどくろ」ですが、これは江戸の妖怪ではありません。
初めて紹介したのは斎藤守弘で、昭和41年(1966)の『別冊少女フレンド』11月号の妖怪特集です。それが昭和43年(1968)に秋田書店の怪奇本へ転載され、昭和47年(1972)には佐藤有文『日本妖怪図鑑』が図版とともに載せ、水木しげるが繰り返し取り上げたことで定着しました。江戸時代の文献に、この名前はありません。
そして、がしゃどくろの姿として使われた図版が、この「相馬の古内裏」でした。読本の本文にいた数百体の骸骨を、国芳が一体の巨人に描き直し、その一体が百二十年後に名前をもらって独立した——という流れになります。原作にない発明が、原作より有名になっただけでなく、絵からも独立して歩き出してしまった。
ちなみに、この絵の骸骨には名前がありません。題箋に書いてあるのは「瀧夜叉姫」「太郎光國」「荒井丸」の三人だけです。主役なのに無名のまま画面を占めているところも、この絵が長く効き続けた理由の一つだと思います。
次回は、同じ場面を絵師ごとに並べます
ここまでは一枚(正確には三枚)の中の話でした。第5回は、川中島の合戦という同じ場面を、絵師を変えて何枚も並べます。摺り比べが同じ版木の摺りの違いを見るものだとすれば、こちらは同じ話の見せ方の違いを見る、その縦版です。