展示室で一言語れる蘊蓄集
連れと浮世絵展に行くと、ガラスケースの前でふと会話が途切れる瞬間があります。逆に、そこでさらっと一言添えられると、なんとなく株が上がる瞬間でもあります。そんな「展示室で言える一言」を12個、事実確認をしたうえで集めました。全部覚える必要はありません。今度の展覧会には、気に入った一言をひとつだけ持って行ってください。
作品そのものを指して言えること
この絵、当時はそば一杯の値段でした
幕末の頃、浮世絵1枚はだいたい20文前後で売られていたと言われます。当時のかけそばが16文ほどですから、ほぼ同じ値段です。江戸中期の相場である1両=4000文を基準に、今の米価水準から1両をおおよそ10万円台前半とみる換算にあてはめると、1文はだいたい20〜25円。20文の浮世絵は400〜500円ほどになる計算です。今のワンコインランチか、コンビニのおにぎり2個分ほどの感覚です。美術館のキャプションに「〇億円で落札」と誇らしげに書いてある絵も、生まれたときはこの値段でした。正直、この値段でよく今まで残ったものだと思います。
浮世絵は10色摺るなら、版木もだいたい10枚
浮世絵は一つの色につき版木を一枚使うのが基本です。だから10色の絵なら版木もおよそ10枚、ぼかしや艶出しの版まで加わると20枚近くになることもあります。版木には伊豆特産の山桜が使われるのが定番でした。木目が細かく硬いのに刃が入りやすい、彫師にとって最高の版材とされた木です。彫師はこの山桜の板に版下絵を裏返しに貼り付け、色の数だけ主版・色版を彫り上げていきます。摺る枚数にも単位があり、摺師が1日に摺る分量は「一杯」と呼ばれ普通200枚ほど。よく売れた絵は十杯(2,000枚)、広重「東海道五十三次」のような大ヒット作になると五十杯(1万枚)以上摺られたと伝えられます。同じ紙に、色の数だけ版を替えて摺り重ねていく——1枚の絵の裏には、それだけの木と手間が積まれています。色数の多い絵を見つけたら、頭の中で摺りの回数を数えてみると面白いです。
浮世絵は、摺師の手ひとつで刷り上げています
版画と聞くと機械のプレスを連想しがちですが、浮世絵の摺りに機械は登場しません。摺師が使うのは馬楝(ばれん)という道具一つで、紙の裏から手のひらの力で版木にこすりつけて色を写しとります。1色摺るごとに、この動作の繰り返しです。色数の多い絵ほど、摺師の体力勝負になります。
この青は、はるばる海を渡ってきたブルーです
北斎や広重の澄んだ青、あれはベロ藍(プルシアンブルー)という顔料です。名前の「ベロ」は発明地ベルリンが訛ったものと言われ、もとはヨーロッパで生まれた合成顔料でした。天保年間(1830年代)に本格的に日本へ入ってきて、この青のおかげで「冨嶽三十六景」のような藍一色の風景画が量産できるようになったとも言われます。江戸情緒の象徴のような色が、実は舶来品だったというのは面白いところです。
この小さな判子で、だいたいの年代が分かります
絵の隅にある小さな丸や四角の印は、幕府の検閲を通った証の改印です。この形式は数年おきに変わっていて、たとえば天保14年(1843)頃は名主の印が一つ押されるだけの形式でしたが、嘉永6年(1853)頃からは干支や月を示す印が組み合わさる形式に変わっています。展示ラベルの制作年がやけにピンポイントなのは、たいていこの小さな判子を読み解いた結果です。
絵師や流派について言えること
ここからは、絵そのものより「誰が、どんな事情で描いたか」に寄った話です。作品解説よりゴシップに近いぶん、案外覚えやすいはずです。
役者の顔が全員同じに見えるのには、ちゃんと理由があります
初期の役者絵は、役者一人ひとりの素顔というより、絵師や一門が受け継いできた「顔の型」で描かれていました。似せる気がなかったというより、そもそも本人にそっくり似せることが目的ではなかったのです。この状況を大きく変えたのが写楽で、役者の癖のある顔立ちをそのまま誇張して描いたことが、当時はむしろ型破りとして受け取られました。
三枚続は、真ん中の一枚だけでも買えました
横に3枚並ぶ三枚続の役者絵は、1枚ごとに違う役者が描かれていることが多く、3枚まとめて買う決まりはありませんでした。贔屓の役者が描かれた1枚だけを持ち帰る客もいたようです。今、オークションや古書店で三枚続の真ん中や端だけがぽつんと出てくることがあります。もとからそういう買われ方をしていたケースがある、いわば当時の楽しみ方の名残です。
写楽は、10か月しか描いていません
東洲斎写楽は寛政6年(1794)5月から翌年にかけて、わずか10か月ほどの間に140点あまりの役者絵を残し、そのあとぱたりと姿を消しました。誰だったのか、なぜやめたのか、いまだにはっきりした結論は出ていません。展示室で写楽の絵を見つけたら、この1枚を含めても1年に満たない期間しか描いていない人だと思って眺めると、急に生々しく見えてきます。
北斎は90歳まで生きて、名前を30回変えました
北斎は数え90歳まで生きた長寿の絵師ですが、その間に雅号(画号)をおよそ30回も変えています。人気が出た名前を弟子に譲って収入にしていた、という説もあるくらいで、生涯現役どころか生涯改名という人でした。「北斎」自体も、そのたくさんの名前のうちの一つにすぎません。
歌川派は、名前に「国」か「芳」の字を継ぎます
江戸後期最大の一門だった歌川派には、名前の継ぎ方にゆるいルールがありました。歌川豊国の系統は国貞・国芳・国周のように「国」の字を、歌川国芳の弟子筋は芳幾・芳年・芳州のように「芳」の字を受け継いでいます。展示室で「国」や「芳」の字が付く絵師名を見つけたら、その師弟関係をたどってみると、江戸の相関図が透けて見えてきます。
浮世絵が陶磁器の包み紙だった、はほぼ都市伝説です
「ヨーロッパ人が陶磁器の緩衝材代わりに使われた浮世絵を見て衝撃を受けた」という話、聞いたことはありませんか。実際にきっかけになったとされるのは『北斎漫画』のような刷り物の本で、1枚摺りの錦絵そのものが包み紙として使われていたという記録は確認されていません。錦絵の紙はそこそこ厚みがあり大きさも中途半端で、そもそも物を包むのには向いていなかったとも言われます。よくできた話ほど、伝わるうちに細部が変わっていく。いい見本です。
つづけて読む
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