展示室で一言語れる蘊蓄集
連れと浮世絵展に行くと、ガラスケースの前でふと会話が途切れる瞬間があります。逆に、そこでさらっと一言添えられると、なんとなく株が上がる瞬間でもあります。そんな「展示室で言える一言」を17個、事実確認をしたうえで集めました。全部覚える必要はありません。今度の展覧会には、気に入った一言をひとつだけ持って行ってください。
作品そのものを指して言えること
この絵、当時はそば一杯の値段でした
幕末の頃、浮世絵1枚はだいたい20文前後で売られていたと言われます。当時のかけそばが16文ほどですから、ほぼ同じ値段です。江戸中期の相場である1両=4000文を基準に、今の米価水準から1両をおおよそ10万円台前半とみる換算にあてはめると、1文はだいたい20〜25円。20文の浮世絵は400〜500円ほどになる計算です。今のワンコインランチか、コンビニのおにぎり2個分ほどの感覚です。美術館のキャプションに「〇億円で落札」と誇らしげに書いてある絵も、生まれたときはこの値段でした。正直、この値段でよく今まで残ったものだと思います。
浮世絵は10色摺るなら、版木もだいたい10枚
浮世絵は一つの色につき版木を一枚使うのが基本です。だから10色の絵なら版木もおよそ10枚、ぼかしや艶出しの版まで加わると20枚近くになることもあります。版木には伊豆特産の山桜が使われるのが定番でした。木目が細かく硬いのに刃が入りやすい、彫師にとって最高の版材とされた木です。彫師はこの山桜の板に版下絵を裏返しに貼り付け、色の数だけ主版・色版を彫り上げていきます。摺る枚数にも単位があり、摺師が1日に摺る分量は「一杯」と呼ばれ普通200枚ほど。よく売れた絵は十杯(2,000枚)、広重「東海道五十三次」のような大ヒット作になると五十杯(1万枚)以上摺られたと伝えられます。同じ紙に、色の数だけ版を替えて摺り重ねていく——1枚の絵の裏には、それだけの木と手間が積まれています。色数の多い絵を見つけたら、頭の中で摺りの回数を数えてみると面白いです。
浮世絵は、摺師の手ひとつで刷り上げています
版画と聞くと機械のプレスを連想しがちですが、浮世絵の摺りに機械は登場しません。摺師が使うのは馬連(ばれん)という道具一つで、紙の裏から手のひらの力で版木にこすりつけて色を写しとります。1色摺るごとに、この動作の繰り返しです。色数の多い絵ほど、摺師の体力勝負になります。
この青は、はるばる海を渡ってきたブルーです
北斎や広重の澄んだ青、あれはベロ藍(プルシアンブルー)という顔料です。名前の「ベロ」は発明地ベルリンが訛ったものと言われ、もとはヨーロッパで生まれた合成顔料でした。天保年間(1830年代)に本格的に日本へ入ってきて、この青のおかげで「冨嶽三十六景」のような藍一色の風景画が量産できるようになったとも言われます。江戸情緒の象徴のような色が、実は舶来品だったというのは面白いところです。
この小さな判子で、だいたいの年代が分かります
絵の隅にある小さな丸や四角の印は、幕府の検閲を通った証の改印です。この形式は数年おきに変わっていて、たとえば天保14年(1843)頃は名主の印が一つ押されるだけの形式でしたが、嘉永6年(1853)頃からは干支や月を示す印が組み合わさる形式に変わっています。展示ラベルの制作年がやけにピンポイントなのは、たいていこの小さな判子を読み解いた結果です。
団扇絵は、貼られた個体がほとんど残っていません
団扇に貼る前提で摺られた団扇絵は、四角い紙に団扇の輪郭だけを取って絵を摺り、買った人か団扇屋がその線で切って骨に貼るという商品でした。ところが実際に骨に貼られて使われた個体は、夏の消耗品ですからほとんど残っていません。破れれば捨てられ、日に当たれば褪せ、手で持てば汚れます。いま美術館にある団扇絵の多くは、団扇にしないまま鑑賞されていたものと、図柄の見本帖として綴じられていたものです。展示ケースの中の1枚は、売れ残ったからではなく、使われなかったからこそ今も残っている1枚だと思うと、見え方が少し変わります。
広重「川中島」の落款には、「写しました」と自分で書いてあります
歌川広重「信刕川中嶋合戦之図」の左下には「故人春亭一跡 広重摸写」とあります。亡くなった絵師・勝川春亭が遺した図柄を広重が写した、と売り物の絵に堂々と刷ってあるのです。現代の感覚だと盗作の告白のようにも読めますが、当時はこれで署名として成立していました。むしろ「あの春亭の図だ」と言えることが売りだったのだと思います。
→ 武者絵の名作を追う 第5回 川中島——七十年で、同じ場面がこう変わる
広重「庄野 白雨」、六人のうち顔が見えるのは一人もいません
「東海道五拾三次 庄野 白雨」には六人が描かれていますが、駕籠の中の客は素足が一本出ているだけ、残りの五人も笠や蓑、傘に隠れて誰の顔も見えません。急な夕立の場面を、雨と坂の斜線、そして誰の表情も見せないという引き算だけで成立させています。展示室でこの絵の前に立ったら、まず何人いるか数えてみてください。
火消の組名に「へ」「ら」「ひ」「ん」が無いのには、理由があります
江戸の町火消は「いろは四十八組」と呼ばれ、いろは47文字を頭にした組に分かれていました。ただし47文字そのままではありません。「へ」は屁を、「ら」は隠語を、「ひ」は火消しなのに火を連想させ、「ん」は語呂が悪いという理由で外され、代わりに「百」「千」「万」「本」の4組が置かれました。おもちゃ絵として売られた「纏(まとい)つくし」を見ると、この百組・万組・本組がちゃんと並んでいます。纏を描いた絵を見つけたら、組の名前を探してみてください。
「め組の喧嘩」は、本当にあった乱闘です
文化2年(1805)2月、芝神明宮の相撲場と芝居小屋で、町火消「め組」の鳶職と力士たちが大乱闘になりました。発端は木戸銭をめぐる小さな口論。め組の辰五郎たちはいったん力士の九竜山に引き下がりますが、同じ日のうちに芝居小屋で再び顔を合わせ、今度は本気の喧嘩になります。め組は火の見櫓の早鐘まで鳴らして仲間を呼び集めました。この一件はのちに何度も歌舞伎の演目になり、明治23年(1890)の新富座「神明恵和合取組」までつながっています。
絵師や流派について言えること
ここからは、絵そのものより「誰が、どんな事情で描いたか」に寄った話です。作品解説よりゴシップに近いぶん、案外覚えやすいはずです。
役者の顔が全員同じに見えるのには、ちゃんと理由があります
初期の役者絵は、役者一人ひとりの素顔というより、絵師や一門が受け継いできた「顔の型」で描かれていました。似せる気がなかったというより、そもそも本人にそっくり似せることが目的ではなかったのです。この状況を大きく変えたのが写楽で、役者の癖のある顔立ちをそのまま誇張して描いたことが、当時はむしろ型破りとして受け取られました。
「団十郎茶」という色の名前は、舞台衣装から生まれました
市川團十郎家の荒事「暫」は、柿色の地に三升紋を大きく染め抜いた素襖(すおう)を着るのが決まりです。柿色はもともと市川宗家の色でしたが、五代目團十郎がこれを「暫」の装束に取り入れたことで定着し、「団十郎茶」という色名で呼ばれるようになったといわれます。江戸の人々は贔屓の役者にちなんだ色名をほかにも作っていて、路考茶(瀬川菊之丞)、芝翫茶(三代目中村歌右衛門)などが今も着物の伝統色名として残っています。舞台の衣装が、そのまま町の流行色になっていたわけです。
→ 五代目團十郎の将門——江戸の将門は、いつも何かに化けている
三枚続は、真ん中の一枚だけでも買えました
横に3枚並ぶ三枚続の役者絵は、1枚ごとに違う役者が描かれていることが多く、3枚まとめて買う決まりはありませんでした。贔屓の役者が描かれた1枚だけを持ち帰る客もいたようです。今、オークションや古書店で三枚続の真ん中や端だけがぽつんと出てくることがあります。もとからそういう買われ方をしていたケースがある、いわば当時の楽しみ方の名残です。
写楽は、10か月しか描いていません
東洲斎写楽は寛政6年(1794)5月から翌年にかけて、わずか10か月ほどの間に140点あまりの役者絵を残し、そのあとぱたりと姿を消しました。誰だったのか、なぜやめたのか、いまだにはっきりした結論は出ていません。展示室で写楽の絵を見つけたら、この1枚を含めても1年に満たない期間しか描いていない人だと思って眺めると、急に生々しく見えてきます。
北斎は90歳まで生きて、名前を30回変えました
北斎は数え90歳まで生きた長寿の絵師ですが、その間に雅号(画号)をおよそ30回も変えています。人気が出た名前を弟子に譲って収入にしていた、という説もあるくらいで、生涯現役どころか生涯改名という人でした。「北斎」自体も、そのたくさんの名前のうちの一つにすぎません。
歌川派は、名前に「国」か「芳」の字を継ぎます
江戸後期最大の一門だった歌川派には、名前の継ぎ方にゆるいルールがありました。歌川豊国の系統は国貞・国芳・国周のように「国」の字を、歌川国芳の弟子筋は芳幾・芳年・芳州のように「芳」の字を受け継いでいます。展示室で「国」や「芳」の字が付く絵師名を見つけたら、その師弟関係をたどってみると、江戸の相関図が透けて見えてきます。
浮世絵が陶磁器の包み紙だった、はほぼ都市伝説です
「ヨーロッパ人が陶磁器の緩衝材代わりに使われた浮世絵を見て衝撃を受けた」という話、聞いたことはありませんか。実際にきっかけになったとされるのは『北斎漫画』のような刷り物の本で、1枚摺りの錦絵そのものが包み紙として使われていたという記録は確認されていません。錦絵の紙はそこそこ厚みがあり大きさも中途半端で、そもそも物を包むのには向いていなかったとも言われます。よくできた話ほど、伝わるうちに細部が変わっていく。いい見本です。
つづけて読む
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