マイナー絵師再発見 第1回 豊原国周——「明治の写楽」と呼ばれた男
美術館は所蔵の目玉しか語らず、画商は今ある在庫しか語りません。その隙間に、知られていないけれど良い、しかも本物に手が届く絵師がたくさん眠っています。この連載は、そういう絵師を一人ずつ掘り起こしていくものです。
北斎、広重、歌麿、写楽。名前を聞けば誰でも「ああ、あの人」と分かる大物には、当然ながら研究書があり、展覧会があり、値段も相応に張ります。でも浮世絵という世界には、腕は確かなのに名前だけがすっぽり抜け落ちてしまった絵師が何十人もいます。理由は単純です。美術館は目玉作品の周りに解説を積むから、大物は大物のままでいられる。画商は今売れる分だけを店先に並べるから、売れ筋は売れ筋のままでいられる。どちらも悪くありません。それぞれ、自分の仕事をしているだけです。ただ、その二つのどちらでもない場所が、ぽっかり空いています。体系的に、横断的に、安くて良い絵師を紹介する役割です。この連載は、その空いた場所に居座るつもりで書いています。
記念すべき第1回に選んだのは、豊原国周(とよはら くにちか)です。国周、と言われてすぐ顔が浮かぶ人はまだ多くありません。教科書的な扱いも大きくはありませんが、それはまだ知られ切っていないというだけのこと。一人の愛好家として言わせてもらうと、この人を知らずに明治の浮世絵を語るのは、正直かなりもったいないと思っています。
役者絵ひと筋、「明治の写楽」
国周は天保6年(1835)、江戸に生まれました。豊原周信、続いて三代歌川豊国(国貞)に学び、二人の師の名から一字ずつもらって「国周」を名乗ります。師の国貞は美人画から合巻の挿絵まで手広くこなした当代随一の売れっ子でしたが、国周はそこまで手を広げませんでした。明治に入ってからは、ほぼ役者絵一本に絞って描き続けています。
幕末から明治にかけて、歌舞伎の人気そのものが戊辰戦争の混乱で一時沈みました。世の中が浮世絵から離れていく中で、役者の顔を大きく描く「大首絵」を精力的に量産し、芝居小屋の熱気を紙の上に焼き付け続けたのが国周です。写真評論家として知られる小島烏水は、この執念とも言える仕事ぶりを評して「明治の写楽」と呼びました。写楽はわずか10か月足らずで姿を消しました。国周はそこから数十年、役者絵を描き続けています。それでも「写楽」の名を冠されたのは、役者の顔つきを容赦なく、生々しくつかみにいく迫力が、写楽のそれと重なって見えたからだろうと思います。
妻40人、引っ越し117回——伝わる逸話
国周という人を語るとき、作品と同じくらい必ず出てくるのが奇行の逸話です。生涯で連れ添う女性を40人あまり替えたと伝わります。長く続いた妻はほとんどおらず、稼いだ画料はそばから酒と遊びに消えていったようです。引っ越しの回数も凄まじく、本人が数えたところ117回に及んだと伝わります。「近所の空気が気に入らない」というだけで荷物をまとめて越していったというのですから、とんだ気分屋だったに違いありません。晩年には借金がかさみ、版元から着物を借りて出歩いていたという話も残っています。
国周自身、「絵では北斎にかなわないが、引っ越しでは負けない」と豪語していたと伝わっています。北斎が90歳近くまで絵を描き続け、生涯に何十回も号を変えたことは有名ですが、国周はその北斎に張り合うように、絵ではなく引っ越し回数で自分の名を売り込んだわけです。酒の席で絵師仲間の河鍋暁斎と大喧嘩になったという逸話も残っており、破天荒という言葉が、そのまま似合う生涯です。
見どころ——大首絵の迫力とアニリン赤
作品の見どころは、なんといっても大首絵の迫力です。役者の顔を画面いっぱいに寄せ、目や口元の筋肉の動きまで描き込む。舞台写真もブロマイドもまだ一般的でなかった時代に、贔屓の役者の「今の顔」を紙の上で持ち帰れるようにした、これは当時としてはかなり生々しいメディアだったはずです。上の「市川左団次演 土左衛門伝吉」でも、役者の凄みのある目つきと、ぐっと寄った構図の圧が伝わってくると思います。
写楽の誇張、国周の羽子板顔——大首絵の「何が違うのか」
同じ「役者の顔を大きく描く」大首絵でも、写楽と国周とではやり方がまるで違います。寛政の写楽は、役者の癖や表情を大げさに誇張して人物の"性格"をつかみにいく描き方でした。眉をつり上げ、口元を崩し、指を不自然なほど大きく広げて見せる——美化とは正反対の方向です。国周の顔立ちはそれとは逆で、瓜実顔に細い目、小さな口という、羽子板の押し絵にも通じる整った定型に寄せて描かれることがほとんどです。崩れた顔で凄みを出すタイプの絵師ではありません。それでも見る者を圧倒するのは、画面いっぱいに寄せる構図と、赤・紫・濃紺を惜しみなく重ねる派手な色面の力です。上の「市川左団次演 土左衛門伝吉」も、大判3枚続のうち役者ひとりだけを大きく立たせる構図で、この「ひとり立ちの半身像を3枚続に収める」という大胆な見せ方は国周が最初に確立したとされています。写楽が"顔の崩し"で凄みを作ったのに対し、国周は"色と、迫るような近さ"で凄みを作った——ここが二人の大首絵の分かれ目です。
役者の死を弔う——死絵という仕事
国周が手がけたのは、贔屓の役者の「今」を描く大首絵だけではありません。役者が亡くなると、その報せと追善を兼ねて即座に売り出されたのが死絵です。役者の当たり役ではなく、多くは地味な色の着物に身を包んだ姿で描かれ、戒名と享年、辞世の句が添えられます。国周は生涯にこの死絵も数多く手がけました。
上方(大阪・京都)で敵役や立役として鳴らした三代目嵐吉三郎の死絵では、水色の裃姿で数珠を繰る役者の前に香炉が置かれ、線香の煙が一筋立ちのぼっています。享年五十五、元治元年(1864)9月28日の没。派手な色遣いを封じ、墨と藍だけで悼みの空気を作っている点に注目してください。
一方、慶応3年(1867)に19歳の若さで世を去った初代河原崎国太郎の死絵では、まったく違う描き方が選ばれています。国太郎は江戸で人気を集め始めていた若女方(女性役を演じる若手役者)でした。国周はこの役者を、生前の当たり役そのままに、花を手にした娘の姿で描いています。素顔ではなく、その役者が最も輝いていた「役」の姿で見送る——死絵に共通する作法が、ここにも表れています。
大首絵が役者の「生きている今」を紙に焼き付けるメディアだったとすれば、死絵はその対極、役者が舞台からいなくなった直後の喪失を紙に焼き付けるメディアでした。同じ役者絵師の仕事のなかに、この両極が同居しています。
芝居はニュースも演じた——西南戦争を演じた一枚
国周は江戸の物語だけを描いていたわけではありません。明治10年(1877)の西南戦争が終わった翌年には、その戦争を当て込んだ芝居がさっそく舞台にかかり、国周はそれを三枚続の錦絵にしています。演目は「西南雲晴朝東風」。九代目市川團十郎が演じたのは「西条隆盛」——むろん西郷隆盛をそのまま描くわけにいかない事情から、一文字だけずらした役名です。
画面中央、軍服姿で床几に腰掛ける團十郎に注目してください。刀の下げ緒も勲章めいた飾りも、江戸の役者絵にはなかった意匠です。左端では「少年隊」と呼ばれる少年たちが跪いています。歌舞伎という古い型式が、前年に終わったばかりの内戦を、これほど早く題材に取り込んでいたことに驚かされます。役者絵は江戸の記憶を描くだけでなく、同時代のニュースを追いかける速報メディアでもありました。
もう一つ、明治の役者絵を見るときにぜひ意識してほしいのが色です。開国以降、西洋から化学染料(アニリン染料)が入ってきて、江戸期の植物性の顔料では出せなかった、鮮烈で発色の強い赤紫や緋色が使えるようになりました。江戸期の赤は紅花(べにばな)や弁柄といった天然の植物・鉱物顔料が主で、赤みに黄みがかった、どこか穏やかな朱色でした。対してアニリン赤は化学合成の染料で、彩度がぐっと高く、赤というより赤紫からマゼンタに近い色が出せます。国周の役者絵で、唇や着物の裏地、背景の一色ぼかしに使われている赤を見て、江戸の朱色よりも紫がかって冷たく感じるようなら、それがアニリンの赤です。国周を含む明治の役者絵師たちは、この新しい赤を惜しみなく使っています。江戸の浮世絵の色調に慣れた目には、最初は少し毒々しく感じるかもしれません。でもこの強い赤こそ、開化期という時代そのものの色です。江戸のベロ藍の上品さとは、生まれからして違います。明治という時代が浮世絵に持ち込んだ、新しい体温だと思って眺めてみてください。印象が変わってくるはずです。
本物が、現実的な価格で市場に出る
国周は生涯にわたって大量の役者絵を手がけました。売れっ子だった分だけ現存数も多く、海外の美術館はもちろん、国内外の市場にもコンスタントに出てきます。北斎や写楽の名品は、数千万円規模のオークションの世界の話です。国周クラスの明治の役者絵は、もっと手の届く価格帯にあります。状態や摺りの時期にもよりますが、個人が「自分の意思で選んで買う」ことが現実的に射程に入ってくるジャンルです。値段の相場観や、状態・摺りの違いをどう見るかは摺りと真贋の話で扱っていますので、興味を持った方はそちらもあわせて読んでみてください。「知らない絵師だから安いに違いない」ではありません。「知らないけれど、見る目を持てば十分に良い」。それがこの連載で伝えたいことです。
美術館の目玉でも、画商の今日の在庫でもない一枚を、自分の判断で選んで手もとに置く。国周はその入口として、これ以上ないくらい向いている絵師だと思っています。実際に手もとに置く話の全体像は手もとに置くセクションにまとめていますので、あわせてご覧ください。
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