最初の10人——この順で、この作品から
浮世絵を知りたいなら、まずこの10人を、この順番で見てください。網羅ではなく選抜です。ここに置くのは「この順に見ると分かる」という、一人の愛好家としての言い切りです。
なぜこの順なのか
年代順には並べていません。最初の4人——北斎・広重・歌麿・写楽——は、いきなり有名どころに当てて「浮世絵とはどれくらい面白いものか」の基準線を目に作ってもらう段階です。次の国芳から清長までの3人は、いったん時代をさかのぼって、その基準を作った絵師たちがどんな系譜と時代の中から出てきたのかを見る段階。国貞で「当時の人気」の実態を知り、芳年・清親の2人で幕末から明治、浮世絵が終わっていく最後の坂を駆け下ります。有名どころで目を作り、系譜と時代へ広げ、明治で締める——それがこの10人・この順番の理由です。
「まずこの1枚」とだけ言われても、その1枚の何を見ればいいのか分かりません。10人それぞれに、見るべき場所を1点ずつ決めておきます。
① 葛飾北斎
言わずと知れた1枚を、あえて最初に置きます。「神奈川沖浪裏」を知らずに浮世絵を語り始めても仕方がない、それくらい基準になる絵だからです。90歳近くまで描き続け、号を何十回も変え、風景画というジャンルをほとんど一人で押し上げた化け物のような絵師でもあります。見るときは波の穂先を追ってください。上の図解の通り、何本もの線が鉤爪のように分かれて外側へ跳ね上がっています。まずこの1枚——冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」。
② 歌川広重
北斎が波と富士で興したブームに、もっと静かな情緒で応えたのが広重です。「名所江戸百景」が描くのは、旅先の風景ではありません。江戸に暮らす人の目線で見た、江戸そのものです。ゴッホが油絵で模写したことでも知られ、北斎とセットで見ると、浮世絵の風景画に二つの極があることが分かります。見るときは空と雨脚を追ってください。上端の藍を深く沈めるぼかしと、画面を斜めに走る無数の細い雨の線——彫師泣かせのこの線を、ゴッホは油絵でも忠実になぞっています。まずこの1枚——名所江戸百景「大はしあたけの夕立」。
③ 喜多川歌麿
美人画を極めた人、とだけ言うと軽く聞こえますが、歌麿がやったのは顔だけを大きく描く「大首絵」という発明でした。着物の柄も、全身の姿も描かない。表情と仕草だけで、人物を立たせる。北斎や広重の風景画とはまったく違う、浮世絵のもう一つの芯を見せてくれます。見るときは首の角度を追ってください。実寸より長く引き伸ばされた首が、わずかに傾いている。この角度のかすかな違いに、歌麿は表情以上の感情を込めました。まずこの1枚——婦女人相十品「ポッピンを吹く娘」。
④ 東洲斎写楽
わずか10か月足らずで姿を消した謎の絵師です。役者の顔を美化せず、誇張してでも本質をつかみにいく大首絵は、当時の座付き絵師の常識から外れていたと言われます。正体も評価も割れたままであること自体が、この人を最初の4人に入れる理由です。見るときは手を追ってください。顔に対して不自然なほど大きく、指を広げた両手。役者を美化しない写楽は、この誇張だけで人物の凄みを描き切りました。まずこの1枚——「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」。
⑤ 歌川国芳
武者絵の豪快さで名を上げた人ですが、最初に見てほしいのはむしろ猫の絵です。大の猫好きで、擬人化した猫や化け猫、猫又を数えきれないほど描きました。国芳を知ると、浮世絵は急に真面目一辺倒ではなくなります。遊びと諧謔のメディアだったことが、体感として入ってくるはずです。見るときは猫の仕草を追ってください。二本足で立ち、着物を着崩し、表情まで作り込む——擬人化のディテールの細かさこそ、国芳の腕の見せどころです。まずこの1枚——化物東海道「岡崎の猫また騒動」。
ここで一度、時代をさかのぼります。北斎も広重も国芳も、この先の2人がいなければ存在しませんでした。
⑥ 鈴木春信(錦絵の始まり)
北斎も広重も国芳も、春信が18世紀半ばに多色摺りの「錦絵」を実用化しなければ生まれようがありませんでした。浮世絵がカラーになった瞬間に立ち会った人です。「座敷八景」に代表される儚げで華奢な人物描写は、後の歌麿や写楽の大胆さとはまるで違う、独特の静けさをまとっています。出発点を知っておくと、その後の絵師たちの凄みがより分かるようになります。見るときは線の細さと余白を追ってください。輪郭は驚くほど細く、色数も少なく、画面には空白がたっぷり残る。この静けさが、後の歌麿や写楽の太く大胆な線と並べたときに際立ちます。まずこの1枚——「座敷八景」。
⑦ 鳥居清長(黄金期の美人画)
春信の華奢な人物から一転、清長が描いたのは八頭身ですらりと健康的な美人でした。「大川端の夕涼」の、隅田川べりでくつろぐ女性たちの群像は、天明期の浮世絵がもっとも伸びやかだった瞬間です。歌麿の大首絵が生まれる一段階前に、こういう開けた画面があったことを覚えておいてください。見るときは女性たちの背丈を追ってください。実寸より頭一つ分ほど長く伸びた脚が、八頭身のすらりとした印象を作っています。まずこの1枚——「大川端の夕涼」。
⑧ 歌川国貞=三代豊国(江戸で一番売れた男)
美術史の教科書では北斎や広重ほど大きく扱われませんが、実際に生きていた当時、いちばん稼いでいたのはこの人です。役者絵・美人画から合巻の挿絵まで手広くこなし、生涯の制作数は歌川派随一と言われます。「役者見立東海道」は、東海道の宿場風景に人気役者を重ねた、当時の流行りがそのまま分かる1枚です。見るときは着物の柄を追ってください。役者の紋や当時流行りの文様が細部まで描き込まれていて、絵の中に江戸のファッション誌のような情報量が詰まっています。まずこの1枚——「役者見立東海道」。
→ 歌川国貞——江戸で一番売れた絵師 / 初代歌川豊国——歌川派を日本一の一門にした人
⑨ 月岡芳年(幕末明治の鬼才)
国芳の弟子で、幕末は血みどろの「英名二十八衆句」から出発し、晩年は「月百姿」という静かで詩的な連作にたどり着いた人です。10人の中で一番好きな絵師を1人選べと言われたら、正直、芳年かもしれません。この振れ幅の大きさそのものが、江戸から明治への浮世絵の変質を体現しています。「奥州安達がはらひとつ家の図」は、恐ろしい伝説を直接的な残酷描写に頼らず描き切った、円熟期の1枚です。見るときは老婆の背後を追ってください。天井から吊るされた人影は、はっきりとは描き込まれていません。何を見せて何を見せないか、その引き算の緊張感で恐怖を伝えています。まずこの1枚——月百姿「奥州安達がはらひとつ家の図」。
→ 月岡芳年——版画でしかできないことを、最後にやり切った人
⑩ 小林清親(最後の浮世絵師)
9人目まではほぼ即決でした。最後の1枠だけ、正直かなり迷いました。豊原国周や楊洲周延も捨てがたく、一度は国周をここに入れて書きかけたくらいです。それでも清親に差し替えたのは、写真や石版印刷に押されていく浮世絵の最終形を、いちばん誠実に描いた人だと思ったからです。輪郭線を抑え、光と影だけで見せる「光線画」は、木版画がぎりぎりまで西洋画に近づいた到達点でした。見るときは輪郭線を探してみてください。ほとんど見当たりません。色の面と面の境目だけで川面と空の光を描く、これが光線画と呼ばれる所以です。まずこの1枚——武蔵百景之内「隅田川より真崎山遠景」。
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