版木の寿命と摺り部数——初摺と後摺はこうして生まれる
摺り上がった1枚は、版元の手に戻ります。けれど版木そのものは、そこで仕事を終えるわけではありません。摩耗し、彫り直され、時代が下れば復刻されることもある——1枚の版木がたどるその後を追いかけます。
一杯、およそ200枚——「初摺」の生まれ方
摺師が1回の作業でまとめて仕上げる量を、当時「一杯(いっぱい)」と呼びました。目安はおよそ200枚。版元の発注に応じて最初に摺り上がるこの一杯が、絵師の指示どおりに丁寧な色合わせとぼかしで仕上げられる「初摺(しょずり)」です。版木もまだ新しく、彫師が刻んだ線もいちばん鋭い状態にあるため、線の切れも色の抜けも初摺がもっとも良いとされ、江戸の浮世絵好きは新作が出ると初摺を求めて店先に押しかけたといいます。
ただし「初摺=200枚ちょうど」と決めつけるのは早計です。売れ筋になりそうな絵柄では、版元が最初から200枚を超える見込み摺りをすることもあったと指摘されており、実際の枚数は絵柄や版元の判断によって幅がありました。この「200枚」はあくまで目安のひとつとして捉えてください。
200枚という数字だけでは、規模の感覚がつかみにくいかもしれません。今の出版で言えば、小規模な出版社の書籍の初版が2,000〜3,000部、大手でも5,000〜10,000部程度が目安とされることが多いので、浮世絵の一杯200枚はそれよりずっと小さいロットです。もっとも、浮世絵は当たれば一杯だけで終わりません。十杯(2,000枚)も売れれば評判の良かった部類とされ、広重「東海道五十三次」のように爆発的な人気を得た作では、五十杯(10,000枚)以上摺られたと伝わる作もあります。1回あたりのロットは小さくても、売れる絵は同じ版木を何十回も刷り台に乗せて摺り増しを繰り返した、ということです。
売れれば摺り増し——「後摺」の現実
初摺が好評で追加の注文が入れば、同じ版木を使って摺り増しが行われます。これが「後摺(あとずり・のちずり)」です。興味深いのは、後摺の色合わせは絵師の監修を離れ、摺師の裁量に任される慣習があったとされる点です。版木は木ですから、摺りを重ねるほど彫った線の際が丸くなり、摺り上がりの線もわずかに甘くなっていきます。絵具の在庫や手間の都合で、初摺にあったぼかしの色数を省略して摺ることもありました。市場での評価は初摺に比べると控えめですが、見方を変えれば、後摺は1枚の版木が何度も摺り台に乗り、働き続けた証でもあります。江戸当時、実際にお金を払って買い求め、家で楽しんだ人がいた「本物」の1枚には違いありません。
この摺りによる違いをよく示す例が、北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」、通称「赤富士」です。ごく初期の摺りでは富士の山肌が淡い桃色に近く、「ピンク富士」と呼ばれる個体が存在します。摺りを重ねる中で、より目を引く濃い赤褐色と藍のコントラストへと寄っていったと考えられており、同じ版木・同じ図柄でも、摺りの段階によって見え方が変わることを教えてくれる好例としてよく紹介されます。
言葉で言うのは簡単ですが、実際どれくらい変わるのか。広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」の同じ図柄をシカゴ美術館の所蔵から2点並べてみます。
梅の木の輪郭も配置も寸分違いません。彫った版木は1枚だけです。それでも空の色をどう選ぶかは摺るたびの裁量で、これほど違う印象の1枚になります。どちらが先の摺りかを、この2枚の画像だけから判定するつもりはありません。同じ版木から、これだけ違う顔が生まれ得るという事実だけを、ここでは見てもらえれば十分です。
摩耗の果てに——「後版」と近現代の「復刻」
摺りを重ねるうち、版木はやがて摩耗します。線が摩耗しすぎて使いものにならなくなったり、版木そのものが失われたりした場合、図柄を新しい版木に彫り直して出版し直すことがあります。これが「後版(こうはん)」です。裏を返せば、それだけ長く求められ続けた図柄だったということでもあります。同じ図柄であっても彫師が変われば線の表情は別物になり、初摺とは切り離して考えるべき、いわば「別の版画」です。
摩耗がどれくらい摺ると目に見える形で現れるか、具体的な枚数を断定する記録は残っていません。ただし、その痕跡がどこまで進むかを教えてくれる例はあります。先ほど触れた「赤富士」の版木は、山肌の稜線を彫った線が、摺りを重ねるうちにすり減って輪郭が消えかかるほど摩耗していたことが分かっています。これほどの摩耗は、一杯や二杯の摺りでは起こりません。何十杯にもわたって摺り増しが繰り返された末に、木の線そのものが摺り台の上で少しずつ削られていった結果です。「線が甘くなる」という言葉の先には、こうして輪郭が本当に消えていく段階まであるのだと考えると、摩耗という言葉の手触りが変わってきます。
さらに時代が下ると、江戸期の原版とは別に、近現代になって当時の技法をもとに新たに彫り・摺りし直す「復刻」も生まれます。たとえばアダチ版画研究所は、伝統木版の技術を継承する職人集団として、これまでに1,200種類以上の浮世絵復刻版を手がけ、1994年にはアダチ伝統木版画技術保存財団を設立して技術継承を図っています。復刻はそれ自体が良質な木版工芸品ですが、江戸期に摺られた初摺・後摺とは市場も評価軸もまったく別のものとして扱われます。
初摺
彫りたての版木を使い、絵師の監修のもとで指定通りの色数とぼかしを再現した最初のロット。線も色もいちばん良い状態。
後摺
同じ版木を摺り増した、江戸当時の正真正銘の本物。摺るたびに版木はわずかに摩耗し、絵師の目は離れていく。
後版
版木が摩耗しきる・失われるなどして、図柄を新しい版木に彫り直したもの。彫師も版木も入れ替わり、初摺とは別の版画。
近現代の復刻
現代の職人が伝統技法で新たに彫り・摺りし直したもの。技術水準は高いが、絵師本人の監修は入らない。
印刷レプリカ
オフセット印刷などで作られた絵葉書・土産物。そもそも版木を彫っていない、木版画とは別物の商品。
バーの長さは、版木の状態のよさと絵師本人の関与の度合いを大まかに示したものです。段階が下るほど、版木や絵師とのつながりは薄くなっていきます。
「同じ絵に何段階もの摺りがある」ということ
初摺、後摺、後版、そして近現代の復刻。同じ「神奈川沖浪裏」や「名所江戸百景」の1図であっても、これだけの段階が積み重なっているのが浮世絵という版画の特徴です。美術館で「初摺」と表記された作品に特別な注釈が付くのも、骨董市や画廊で同じ図柄なのに値段がまったく違う個体を見かけるのも、根っこにあるのはこの摺りの段階の違いにほかなりません。値段そのものの話はここでは深追いしませんが、この摺りの段階と価格がどう結びつくのかは「同じ絵なのに値段が違う理由」で詳しく扱っています。まずは「同じ図柄でも、摺りの段階でまったくの別物になり得る」——この一点を、浮世絵を見るときの前提として持ち帰ってもらえればと思います。
つづけて読む
- 版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み(前回) — 摺師が仕上げるまでの分業の全体像
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