版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み

浮世絵1枚の裏には、少なくとも四人の仕事が積み重なっています。北斎や広重の名前だけを追っていたのでは、この積み重ねは見えてきません。一人ひとりが実際に何をしていたのか、ここから追いかけていきます。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。巨大な波の向こうに富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保元〜4年(1830〜33)頃。この1枚の中にも、北斎が引いた線、彫師が刃で起こした線、摺師が摺り分けた藍の濃淡が同居しています。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

浮世絵は「江戸の出版プロジェクト」だった

北斎や広重の名前で語られる浮世絵ですが、彼らが版木を彫ったり紙に色を摺ったりしたわけではありません。浮世絵版画は、企画と資金を出す版元、下絵を描く絵師、その下絵をもとに版木を彫る彫師、紙に色を摺り重ねる摺師という、四つの異なる職能の分業で作られていました。それぞれが別の店や工房に属する専門職人で、絵師が彫りや摺りをすることも、彫師が下絵を描くこともまずありません。1枚の錦絵は、いわば江戸の出版社が動かすプロジェクトの成果物だったわけです。

言葉で並べても掴みにくいので、まず1枚の錦絵が四人の手をどう渡っていくかを図にしておきます。

版元

はんもと / 出版社

企画を立て、絵師・彫師・摺師への支払いを含む資金を出す。売る場所も押さえる。

渡すもの: 注文と金

絵師

えし / 原画

墨一色の下絵(版下絵)を描く。構図と線を決め、あとで色の指示も出す。

渡すもの: 版下絵

彫師

ほりし / 版木づくり

版下絵を版木に貼って彫る。輪郭の主版と、色の数だけの色版。見当も彫り込む。

渡すもの: 版木一式

摺師

すりし / 印刷

見当に紙を合わせ、薄い色から順に摺り重ねる。ぼかしの加減もここで決まる。

渡すもの: 完成した錦絵

摺り上がった錦絵は版元へ戻り、絵草紙屋の店先へ。版木も版元の手元に残ります——これが後年の「後摺」を生む種になります

四者はそれぞれ別の店・工房に属する独立した専門職で、絵師が版木を彫ることも、彫師が下絵を描くこともまずありません。

ありがたいことに、その現場を当時の絵師自身が描き残しています。

歌川国貞「今様見立士農工商 職人」。女性たちが版木を彫り、紙を摺り、絵具で彩色する作業場の様子を描いた三枚続
歌川国貞(三代豊国)「今様見立士農工商 職人」19世紀。木槌を振り上げて彫刻刀を叩く彫りの手つき、版木の上の紙をこする摺りの動作、絵具皿を前にした彩色——浮世絵ができる現場が1枚に凝縮されています(職人を女性に置き換えて描く「見立」の趣向です)。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

版元——企画と資金を出すプロデューサー

版元は今でいう出版社にあたります。どんな絵師に何を描かせ、いくらの予算で、何枚摺るか。企画を立て、絵師・彫師・摺師への支払いを含めた資金を出し、完成した錦絵を地本問屋や絵草紙屋の店頭に並べて売る——このすべてを差配するのが版元の仕事でした。版木の所有権も版元にあり、絵師が売れっ子になっても、版木そのものは版元の資産として残ります。この所有関係が、のちの「後摺」を生み出す土台にもなります。

版元として名高いのが蔦屋重三郎(1750〜1797)です。日本橋通油町に書肆「耕書堂」を構え、無名だった喜多川歌麿を美人画の第一人者に育て上げ、正体不明の新人・東洲斎写楽を大々的に売り出しました。寛政の改革では風紀を乱すとして財産の半分を没収される処分も受けていますが、それでもなお「歌麿・写楽を見出した男」として、江戸の出版界を代表する存在に数えられています。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」。両手を突き出した歌舞伎役者の迫力ある大首絵
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」寛政6年(1794)。経歴も本名も定かでない新人を大首絵28図でいきなり売り出したのは、版元・蔦屋重三郎の企画でした。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

絵師——版下絵を描く「原画とディレクション」の担当

版元から発注を受けた絵師が描くのは、墨一色の下絵「版下絵」です。構図、人物の配置、線の一本一本まで絵師が決めますが、実際に紙に摺られる色までは絵師自身の手を離れます。色の指定は別途、色ごとに刷り分ける指示という形で彫師・摺師に伝えられました。つまり浮世絵で絵師が担うのは、原画を描き、仕上がり全体の方向性を決める「ディレクション」に近い役割です。北斎の波も、広重の雨も、実際に紙の上に線として刻み、色として乗せたのは絵師本人ではありません。

喜多川歌麿「江戸名物 錦画耕作」より。絵を描く場面、版木を彫る場面、紙に礬水を引く場面を描いた三枚続
喜多川歌麿「江戸名物 錦画耕作」より 画師・板下師・彫刻・礬水引き 享和3年(1803)頃。絵師が筆をとる場面、版木を彫る場面、そして紙ににじみ止めの礬水(どうさ)を引く下ごしらえまで。国貞の作より20年ほど早く、こちらが元ネタにあたるとされます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

彫師——版木に刃を入れる、毛割の技

絵師の版下絵は彫師に渡り、和紙ごと版木に貼り付けて透かし彫りされます。まず輪郭線だけを彫った「主版」を作り、そこから摺った校合摺りに絵師が色を指定して、色の数だけ「色版」を追加で彫っていく——これが彫りの基本の流れです。

彫師の仕事でとりわけ神業と呼ばれるのが、美人画や役者絵の生え際を一本一本彫り分ける「毛割(けわり)」です。髪の毛より細い線を刃先だけで彫り出す技術で、一人前と認められるまでに最低でも4〜5年、顔や髪といった繊細な部分を任される域に達するには10年以上の修行が必要とされます。10年、と聞くと単純に気が遠くなります。若手はまず単純な風景の板や色版から仕事を覚え、頭(顔や髪)を彫れるようになって初めて一流と認められました。色版を寸分違わず重ねるために、版木の縁にL字形の「かぎ見当」と一直線の「引付見当」という目印を彫り込むのも彫師の仕事です。これは次に紹介する摺師の仕事を支える、いわば彫師から摺師へのバトンにあたります。

摺師——見当を合わせ、ぼかしで魅せる

紙に色を乗せるのが摺師の仕事です。彫師が版木に彫り込んだ「見当」に紙の角を合わせて置くことで、色版を何枚重ねても絵柄がずれません。この見当の仕組みが確立したことで、明和2年(1765)ごろ、鈴木春信を中心とする絵暦交換会から多色摺りの錦絵が生まれたとされています。摺師はさらに、絵具を溶いた水分量や馬連(ばれん)の力加減を指先だけで調整し、空や水面をグラデーションで摺る「ぼかし」の表現も担います。頼りになるのは指先の感覚だけです。

「摺師の手加減で変わる」とは、具体的にどう変わるのか

ぼかしは、版木の上で絵具を刷毛で引き伸ばし、水を含ませた紙に写し取る技法です。版木に彫られているのは「ここからここまで色を乗せる」という範囲だけで、色の濃さも、どこから薄くなるかも、版木には彫られていません。全部が摺師の手の中にあります。同じ版木から、こういう違いが出ます。

一文字ぼかし 上端を濃く、水平にすっと抜く 夕暮れや夜明けの空に あてなしぼかし 境目を作らず、雲のようにむらで 霞んだ空、水面の揺らぎに ぼかしを省く 空は紙の白のまま 手間を削った後摺に多い ——版木はどれも同じ。違うのは摺師の手だけです
同じ山と地平線の版木から摺られた3枚、という想定の模式図です。空の版木が指示しているのは「ここに藍を乗せる」ということだけで、上端から地平線までを一直線に抜くのか、雲のようにむらを残すのか、そもそも省いてしまうのかは、摺師の判断に委ねられました。

実際の作品で言えば、広重「大はしあたけの夕立」の空です。摺りのいい個体は上端の墨が深く沈み、川面との間に何段もの階調が生まれますが、手間を省いた摺りでは同じ版木でも空がのっぺりと一色に近くなります。同じ絵として売られていても、目の前の1枚がどちらなのかは、空を見ればだいたい見当がつきます。

「見当をつける」「見当違い」という日常の言い回しは、もとをたどればこの摺師の見当合わせに由来する浮世絵用語だと言われています。江戸の印刷現場の言葉が、今も日本語の中に残っているわけです。

誰か一人でも欠けたら、成立しない

版元が資金を出さなければ、そもそも企画は動きません。絵師の下絵に魅力がなければ、誰も買いたいと思わない。彫師の毛割が甘ければ、美人画の顔は間延びして見えます。摺師の見当がずれれば、色は絵からはみ出し、そのまま紙は不良品になります。四者はそれぞれ別の店で働く独立した専門職でありながら、最後の1枚は誰か一人が欠けても成立しません。浮世絵を「北斎の絵」「広重の絵」と呼ぶのは正しい省略ですが、実際にその1枚を作り上げたのは、名前の残らない彫師と摺師を含めた、江戸のチームだったということを、この先の記事でも折にふれて思い出してもらえたらと思います。

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