奇想の浮世絵——骸骨、化け猫、顔になる人間
浮世絵と聞いて思い浮かぶのは、たぶん富士山か、美人画の伏し目がちな女性です。でも江戸の絵師たちは、骸骨を三枚続いっぱいに描いたり、人間を何十人も積み上げて顔を作ったり、猫又を主役にしたりもしていました。その「裏の浮世絵」を一人の愛好家として全力で紹介します。
富士山でも美人でもない一群
浮世絵の展覧会に行くと、北斎の波や広重の雨、歌麿の美人が主役の顔として並びます。それはそれで正しいのですが、同じ時代の同じ絵師たちが、骸骨や化け物や判じ絵にも本気で腕を振るっていたことは、意外と知られていません。しかも描いていたのは、歌川国芳や月岡芳年という、当時も今も評価の高い本流の絵師たちです。異端者の余技ではありません。「奇想」はもうひとつの本気だったのだと思います。
三枚を貫く一体の骸骨——「相馬の古内裏」
この特集の看板に据えたのが、歌川国芳「相馬の古内裏」です。平将門の遺児・滝夜叉姫が、父の無念を晴らすため下総国相馬の古い御所で妖術を使い、巨大な骸骨を呼び出して大宅太郎光国に立ち向かわせる場面を描いています。大判三枚続という浮世絵最大級の画面いっぱいに、白く巨大な骸骨が一体、御簾を突き破って迫ってくる構図です。
この絵の元ネタは、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』です。ところが原作の該当場面では、姫が呼び出すのは無数の等身大の骸骨の群れであって、一体の巨大な骸骨ではありません。「群れ」を「一体の巨人」に置き換えたのは、国芳自身の発明だったということです。文章で読むと不気味な骸骨の群像劇を、絵師は三枚続という横長のワイドスクリーンをまるごと使い、一体の骸骨がゆっくりとこちらへ首を伸ばしてくるという、映画的などとよく言われる構図に作り替えました。原作にない発明が、原作より有名になってしまった珍しい例だと思います。
人が集まって顔になる——寄せ絵とだまし絵
国芳はもうひとつ、「寄せ絵」と呼ばれるジャンルでも知られています。代表作「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」は、裸の男たちの体をねじり折り重ねて、遠目には一つの強面の顔に見せる仕掛け絵です。実際に数えると、体を寄せ合っているのは15人。眉はふんどし姿の男の尻、鼻筋も別の男の尻——顔のパーツのひとつひとつが、律儀に誰かの体の一部として描き分けられています。近寄って見ると人の集まり、離れて見ると顔——同じ紙の上に二つの絵が同時に存在する、日本版のアルチンボルドとでも言うべき遊びです。着物に入った紋から、この顔は鎌倉時代の豪傑・朝比奈義秀の後ろ姿だと分かる仕掛けになっていて、左上には「大勢の人が寄ってたかって とおといい人をこしらえた とかく人のことは 人にしてもらわねば いい人にはならぬ」という洒落た文句まで添えられています。人が集まって、初めて一人前の顔ができる——その洒落そのものが、この絵の落ちになっているわけです。
化け猫、江戸っ子を脅かす
怪異ものの定番といえば化け猫です。国芳自身が大の猫好きだったことは有名で、飼い猫を懐に入れたまま絵を描いていたという逸話も残っています。筆先が定まったのか疑わしいところですが、その猫好きが妖怪絵にも表れます。「化物東海道」で描かれる岡崎の猫又は、行灯の油を舐め、手ぬぐいを頭に乗せて踊るという、江戸の化け猫伝承の定型をそのまま絵にしたものです。愛らしいはずの猫を等身大以上に巨大化させ、牙をむかせるギャップが見せ場になっています。
金魚が武士になる日——金魚づくし
もっと肩の力が抜けた奇想もあります。国芳の「金魚づくし」シリーズは、金魚を擬人化して花見や夕涼み、金魚すくいそのものまでを演じさせる連作です。骸骨や化け猫の凄みは、ここにはありません。まんまるの金魚が金魚をすくう構図など、現代のゆるキャラ感覚に近い可愛さで、国芳という絵師の振れ幅の広さを物語っています。
個々の場面を思い浮かべてみてください。「玉や玉や」は、丸々とした出目金がシャボン玉売りに扮して呼び声を上げる場面。「いかだ乗り」は金魚が筏に乗って川下りを楽しみ、「百ものがたり」では行灯の油皿をのぞきこむ黒猫の影に、金魚たちが金魚鉢から一斉に飛び出して逃げまどいます。すぐ上で触れた化け猫の怖さを、金魚に置き換えてまるごとパロディにしてしまったわけです。現在確認されているのは全9図。そのうち「ぼんぼん」の1枚は2011年になって初めて存在が明らかになった、比較的新しく見つかった作品です。骸骨や化け猫を本気で怖がらせた同じ手で、金魚には全力でおどけて見せる——このジャンル移動の軽さも、国芳という絵師の器の大きさだと思います。
血みどろの美——芳年の無惨絵、その手前の妖怪画
幕末から明治にかけて活躍した月岡芳年は、国芳の弟子筋にあたる絵師です。「英名二十八衆句」などに代表されるいわゆる無惨絵では、生首や流血を生々しく描き、見世物としての凄惨さそのものを主題にしました。画像はここには載せていませんが、浮世絵が美人と風景だけの世界ではなかったことを示す、いちばん過激な例として名前だけ挙げておきます。
ただし芳年の本領は血みどろだけではありません。晩年のシリーズ「新形三十六怪撰」や、大判三枚続の妖怪画では、月明かりや竹藪の闇を背景に、正体を明かす瞬間の妖怪を静かな筆致で描いています。派手な流血よりも、じわりと来る不気味さで見せる仕事です。
判じ絵と天保の改革——なぜ戯画と武者絵が伸びたのか
こうした奇想ジャンルがこれほど厚みを持った背景には、皮肉な事情があります。天保13年(1842)、老中・水野忠邦の天保の改革は、贅沢禁止の一環として役者絵と美人画の出版を事実上禁じました。江戸中の需要を集めていた二大ジャンルが、まさに正面から潰されたのです。
ところが法令は「役者と遊女を描くな」とは言っても、「骸骨を描くな」「猫又を描くな」とまでは言っていません。国芳をはじめとする絵師たちは、武者絵・戯画・妖怪画という、規制の網の外側にあったジャンルに一斉になだれ込みました。その代表例が、国芳が天保14年(1843)に発表した「源頼光公館土蜘作妖怪図」です。大判三枚続の画面には、病に伏せる源頼光が横たわり、その背後の暗がりに正体である土蜘蛛の妖怪がうずくまっています。手前では四天王のうち渡辺綱と坂田金時がのんきに碁を打ち、卜部季武と碓井貞光がそれに付き添う——主君の一大事をよそに、家来たちが呑気に碁盤を囲んでいる場面です。そして画面上半分は、ろくろ首をはじめとする得体の知れない妖怪たちが二手に分かれてひしめき合う、異様な密度の群像で埋め尽くされています。表向きは平安時代の武将・源頼光が四天王とともに土蜘蛛を退治する物語画ですが、四天王の一人の装束に描かれた紋が水野忠邦の家紋と似ていたことから、天保の改革そのものを風刺した絵だという噂が江戸中に広まりました。絵の中の紋を手がかりに正体を読み解かせるこの仕掛けは、まさに「判じ絵」の作法そのものでもあります。名指しで批判すれば即座に処罰される時代に、老中の家紋をこっそり忍ばせるとは、なかなか肝の据わった仕事です。町奉行所の目にも留まったと伝わるこの絵は、規制をかいくぐりながら規制そのものを笑い飛ばすという、奇想ジャンルの本質を体現した一枚だと思います。
その「判じ絵」そのものも、独立した商品として売られていました。下は二代広重(重宣)の「江戸名所はんじもの」です。
絵の意味を言葉に置き換えて、その音をつなぐと地名になる。たとえば鍬で土を掘る絵なら「掘る」、矢なら「や」といった調子で、絵を音として読ませます。答えを教えない絵が商品として成立していたわけで、江戸の読者がこの遊びにどれだけ慣れていたかが分かります。そして、この「絵を別の意味に読み替える」作法こそが、規制の抜け道でもありました。土蜘蛛の絵に水野忠邦の家紋を紛れ込ませる仕掛けは、なぞなぞの技術をそのまま風刺に転用したものです。
骸骨も化け猫も金魚も、突き詰めれば「役者でも遊女でもない題材で、どこまで人を驚かせ、笑わせ、楽しませられるか」という絵師たちの意地の産物です。規制はジャンルを殺しませんでした。むしろ育ててしまった。浮世絵の歴史のなかで何度も繰り返される構図で、この奇想の一群はその中でもいちばん振れ幅が大きく、いちばん自由に見える瞬間だと思います。
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