なぜ浮世絵は流行ったのか

浮世絵入門 第2回。印刷物だから安い、という話は前回しました。では誰がそれを買っていたのか。答えは、江戸という巨大な都市そのものです。

100万人が住み、しかも男が余っていた街

18世紀初頭の江戸は、すでに人口100万を超えていたと考えられています。1721年(享保6年)の調査では町人だけで約50万人。これに武家人口を合わせると、およそ100万人に達していたとされます。同時期のロンドンやパリを上回る、世界でも屈指の大都市でした。

数字で比べると差は歴然です。同時期のロンドンの人口はおよそ57万人、パリはおよそ50万人ほどと推定されています。江戸の100万という数字は、この2都市を合わせてもまだ届かないほどの規模だったということです。当時世界最大級の都市とされてきたのは伊達ではありません。

この街の人口構成が独特でした。参勤交代の制度で全国の大名は江戸に屋敷を構え、多くの家臣を単身で江戸へ送り込みます。1721年の記録では、町人人口約50万人のうち男性32万人、女性18万人。男性が女性を大きく上回っていました。国元に妻子を残して江戸で働く武士や奉公人が、それだけ大量にいたということです。

独り者の男が大勢いて、給料日には財布に多少の余裕がある。歌舞伎小屋があり、遊里があり、旅の楽しみがある。そこに大きな消費経済が生まれるのは自然なことでした。浮世絵は、この巨大な単身者マーケットに向けた娯楽商品として育っていきます。独身男性向けの娯楽産業が強いのは、考えてみれば今も昔も変わりません。

読める人がいて、貸本屋がいた

もうひとつの条件は識字率です。江戸時代中期、成人男性の識字率はおよそ70〜80パーセント。同時代のロンドン(約20パーセント)やパリ(約10パーセント)と比べても、際立って高い水準でした。幕末には全国に1万5000以上の寺子屋があったとされ、読み書きを学ぶ場が庶民の生活に組み込まれていました。

字が読める人が多いということは、絵に添えられた役者の名や狂歌、地名の文字情報もそのまま楽しめるということです。江戸には貸本屋という流通網も発達していて、本を買わずに借りて読む習慣が定着していました。出版物を届ける仕組みがすでに街に張りめぐらされていたところへ、絵で見せる浮世絵が乗ったわけです。

喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」。振袖姿の若い娘がガラスのポッピン(玩具)を吹いている半身像
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」寛政4〜5年(1792〜93)頃 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

そば一杯で買えるスターのブロマイド

決定的だったのは、値段です。大判の錦絵1枚はおよそ20文前後で売られていたことが、当時の日記や紀行類から裏づけられています。文化2年(1805年)刊の山東京伝『江戸自慢名産杖』には「四五の廿(にじゅう)なら大錦一枚」というくだりがあり、20文で大判錦絵1枚が買えたことが当時の常識として書かれています。幕末のかけそばがおよそ16文ですから、浮世絵はほぼそば一杯と同じ値段だったことになります。

今なら数百円感覚です。今評判の役者の顔、今人気の看板娘の姿を、そば一杯分の小遣いでその日のうちに持ち帰れる。浮世絵は美術品である前に、庶民が気軽に買えるブロマイドであり、旅先案内であり、時にはゴシップ紙でした。これを世界初の大衆メディア産業と呼んでも、言い過ぎではないと思っています。

色を増やした技術と、色を変えた技術

安く大量に売るには、印刷そのものの進化も必要でした。転機は明和2年(1765年)ごろ。江戸の裕福な趣味人たちのあいだで、毎年の暦を絵にして交換し合う「絵暦交換会」が流行し、その場で技を競い合う中から、鈴木春信を中心に何色もの版を寸分違わず重ねる多色摺りの技術が完成します。これが錦絵の誕生でした。それまで墨一色や紅・緑を筆で彩色するだけだった浮世絵が、一気に華やかな色摺り版画に変わり、市場そのものを押し広げました。

「寸分違わず」を支えたのは、版木の角の小さな切り込み

色ごとに版木を分けて重ねて摺るという発想自体はそれ以前からありました。難しかったのは、紙を置くたびに位置がわずかにずれてしまうことです。ずれれば、口元の紅が輪郭線からはみ出したり、隣の色と重なって濁ったりします。錦絵の誕生と同時に定着したのが、版木の角にL字形の切り込み(かぎ見当)と一直線の切り込み(引付見当)を彫り込み、紙の角をそこに合わせて置くだけで、色版を何枚重ねても位置が揃う「見当」という仕組みでした。これで色数を増やすことが実用的になり、それまで墨の輪郭線に紅や草色を2〜3色ほど筆や版で足す程度だった紅摺絵に対し、錦絵は版木8〜20枚、多いものは10色以上を重ねます。見当という小さな切り込みひとつで、色の数がひとケタ増えたということです。

もう一つの技術革新は、それから60年以上あとに訪れます。ドイツ生まれの合成顔料プルシアンブルーは18世紀にはすでに日本へ渡来していましたが、「ベロ藍」の名で安価に出回り、浮世絵に本格的に使われ始めたのは天保元年(1830年)ごろからです。深く鮮やかな青が褪せにくく安価に摺れるようになったことで、葛飾北斎「冨嶽三十六景」(天保2年〈1831年〉刊行開始)のような藍摺りの風景画が可能になります。役者絵・美人画中心だった浮世絵に、新しいジャンルの居場所が生まれた瞬間でした。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」。朝焼けに赤く染まった富士山と、うろこ状の雲が広がる空
葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」天保元〜4年(1830〜33)頃 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

禁じれば禁じるほど、新しい絵が生まれた

これだけ売れる商品を、幕府がそのまま放っておくはずもありません。寛政の改革では老中・松平定信が寛政2年(1790年)に出版統制を強化し、風紀を乱すとされた美人画や、政治を風刺する黄表紙・洒落本を取り締まりました。版元の蔦屋重三郎は財産の半分を没収され、作者の山東京伝は手鎖50日の処分を受けています。

それでも浮世絵は形を変えて生き延びました。決定打は天保の改革です。天保13年(1842年)、役者の似顔絵や遊女・芸者を描いた美人画が禁止され、錦絵は3枚続まで、色数は7〜8度摺りまで、値段は16文以下にと細かく制限がかけられます。役者も美人も描けなくなった絵師たちが向かった先が、規制の外にあった風景でした。歌川広重は「東都名所」(天保2年〈1831年〉)や「東海道五十三次」(天保5年〈1834年〉)を大ヒットさせ、風景画という新ジャンルを確立します。取り締まりが厳しくなるたびに、絵師と版元はその網の外側に新しい市場を見つけてきた。浮世絵の歴史は、規制とのいたちごっこがそのままジャンルの豊かさに変わった歴史でもあります。

江戸の浮世絵がどう栄えたかを見てきましたが、この繁栄には終わりが来ます。明治に入って何が浮世絵を追い詰めたのかは、次回で扱います。

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