浮世絵の雨は、彫師が一番手を焼いた線でした
雨が降っている浮世絵、と言われて何枚か思い浮かぶ方は多いと思います。けれどその雨が紙の上にどうやって乗っているか、考えたことがある人は少ないのではないでしょうか。空を灰色にひと刷きして済ませたわけではありません。浮世絵の雨は、髪の毛ほどの細さの線を、版木の端から端まで一本も切らさずに彫るという、彫師にとって一番割に合わない仕事の産物です。しかもこの線、摺りを重ねるうちに真っ先に消えていきます。
雨は面ではなく、線で彫られている
空のぼかしや霧の濃淡なら、版木の面を湿らせて藍を一文字に置き、水と混ざったところをそのまま摺り取れば表現できます。彫師の腕はもちろん要りますが、線を一本ずつ起こす作業ではありません。雨はそうはいきません。輪郭を彫る主版とは別に、雨だけのための色版を用意し、その版木の上に髪の毛より細い線を、間隔を揃えて何十本も彫り込みます。使うのは彫刻刀の中でも最小の「透鑿(すきのみ)」。刃先を0.1ミリ単位で入れ、線の両側を彫り落として一本の細線を浮かび上がらせます。彫り過ぎれば線は消え、その版木はそこで終わりです。やり直しは効きません。
広重の代表作「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」では、近年の復刻事業によって、角度の異なる二種類の雨の線がそれぞれ別の版木に彫られ、墨の濃さを変えて重ねて摺られていたことが確認されています。一本の線を彫るだけでも大仕事なのに、角度違いの線を二重に用意して奥行きを出す。雨という、ただの天気の記号に見えるものに、これだけの手間が積まれています。
摺る段の色選びにも、絵師や版元ごとの工夫が出ます。多くの雨は薄墨一色で摺られますが、空の色に藍を使う図では、雨の線にもわずかに藍を含ませて空と地続きの一体感を出す例があります。同じ「細い線を彫る」という下準備をしていても、最後にどの色を乗せるかで、降っている雨の質感——冷たそうか、生ぬるそうか——まで変わってくるのがおもしろいところです。
摺りを重ねるほど、雨から消えていく
雨の線は版木の中でいちばん細い彫りです。版木は摺るたびに馬連でこすられ、紙と絵具の圧力を受け続けます。太い輪郭線や広い面はしばらく持ちこたえますが、髪の毛ほどの雨の線は摩耗にいちばん弱く、摺りを重ねるうちに先端から潰れ、やがて版木の上から消えていきます。後摺で雨の線が薄く、まばらになりやすいのはこのためだと考えられます。同じ図柄なのに、手にした一枚の雨が心細いくらい少ない——そう感じたら、それは後摺を疑う具体的な手がかりになります。
雨の描き分け——絵師によって角度が違う
雨と一口に言っても、浮世絵師たちはかなり細かく描き分けています。強い風を伴う夕立や驟雨は、右上から左下へ、あるいはその逆へと大きく傾いた斜めの直線で表現されます。風で線そのものが煽られているような角度です。対して、静かな小雨や夜更けの雨は、ほとんど垂直に近い細線で描かれることが多く、風のない夜のしんとした空気が線の角度だけで伝わってきます。霧雨や霞になると、線はもう使いません。輪郭を描かずに藍や墨を面でぼかし、灰色の塊として画面にかぶせます。同じ「白いものが降る」現象でも、雪は逆の発想で表現されます。黒い瓦屋根や暗い地面を先に摺り、そこに雪の形だけを紙の白のまま残す。線を足すのではなく、色を彫り抜いて白を出す技法です。雨は足し算、雪は引き算——同じ天候表現でも、彫師の手順はまったく逆になります。
雨の角度が絵師によって違って見えるのは、単なる筆の癖ではないと思います。斜めの夕立を彫るときは、線が版木の対角線に近い方向を長く突っ切るぶん、隣り合う色版との継ぎ目(見当)がわずかでもずれると雨だけが不自然に浮いてしまいます。垂直に近い小雨のほうが、まだ彫師にとっては御しやすい部類だったはずです。それでもあえて斜めの夕立を選ぶ絵師がいたのは、風という描けないはずのものを、雨の角度一本で語らせられるからだと思います。
実際に見る、四つの雨
言葉で類型を並べただけでは実感が薄いので、ここからは実物で見ていきます。同じ「雨」というお題に、三人の絵師がどう違う答えを出したかを比べてください。
ここを見てほしいのは、雨の線の傾きです。画面いっぱいに右上から左下へ、かなり急な角度で線が走っています。荷を背負った馬たちも、手綱を引く人も、みな同じ角度に頭を下げて風に耐えている。線の傾きと人馬の姿勢が同じ向きに揃うことで、目に見えないはずの風の強さまで伝わってくる一枚です。木曽街道六十九次は英泉が24図を手がけたあと版元の都合で降板し、残りを広重が引き継いだシリーズですが、これは英泉自身の筆によるものです。
先ほどの英泉とは対照的に、こちらの雨線はほとんど垂直に近い角度で、細く静かに降り続いています。風のない夕方の雨だということが、線の角度だけでわかります。丘の上の松林は雨に霞んでほとんど輪郭を失い、手前の道を行く人たちだけがはっきりと描かれる。奥から手前へ向かって雨脚が濃くなっていく摺りの階調も見どころです。初代が病没した直後に世へ出た一図で、師の画風をどこまで受け継げるかが問われた仕事でもあったはずです。
画面のほとんどを占める唐崎の松、その全体に垂直の細い雨が降りかかっています。鳥居の柱、帆柱、松を支える添え木、そして雨脚——画面の中の直線という直線が、すべて同じ垂直方向に揃えられています。この徹底ぶりが、一本松の重みと夜の静けさを同時に伝えてくる。私はこの構図の潔さが近江八景の中でいちばん好きです。単なる名所の記録を超えて、一枚の絵としての完成度で押し切っている図だと思います。
雨の3図と並べて見ると、この一枚には線が一本もないことに気づきます。鳥居も松も家並みも、輪郭をぼかしの濃淡だけで溶かし込み、遠くのものほど淡く消えていく。これが「面で描く天候」の代表例です。同じ広重の手から、線で降らせる雨と、線を使わずに立ち込める霧の両方が出てくる。表現の引き出しの多さがよくわかる組み合わせだと思います。
雨の絵は、摺りの違いがいちばん見える
ここまで見てきたように、雨は絵師が角度や濃淡で細かく描き分け、彫師が針のような線で刻み、そして摺りを重ねるたびに真っ先に瘦せていく表現です。逆に言えば、雨の絵ほど初摺と後摺の違いがはっきり出るジャンルはありません。空の一文字ぼかしの階調が省略されていないか、雨の線が隙間なく端まで届いているか。この2点を見るだけで、目の前の一枚がどのあたりの摺りなのか、かなりの見当がつきます。摺りによる違いがどう値段に反映されるかは同じ絵なのに値段が違う理由にまとめました。版木そのものの寿命という側面からは版木の寿命と摺り部数もあわせてどうぞ。雨を彫るという、割に合わないはずの仕事に彫師たちが注いだ執念を思うと、まばらになった後摺の雨にも、また違った愛着が湧いてきます。
つづけて読む
- 同じ絵なのに値段が違う理由——初摺と後摺 — 雨の線の残り方が、見分けの入口になります
- 版木の寿命と摺り部数 — 版木が摩耗していく仕組み全体
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