浮世絵の風景が今も残る場所(東京編)

名所絵というジャンルを、わたしはずっと「江戸の定点写真」だと思っています。絵師が三脚を立てた場所に自分も立てば、150年前とほぼ同じ構図が今の目に映る——そう考えると、浮世絵は美術館の壁の外に出ていきます。額に入った1枚の絵が、地図と一緒に持ち歩ける旅の道具になる瞬間です。東京のいくつかの地点について、絵に描かれた場所が今どうなっているかを調べてみました。

現地の写真は載せていません。今どうなっているかは文章で書きます。掲載する絵はすべてパブリックドメイン画像です。

上野・清水観音堂——「月の松」越しに見る不忍池

歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」。丸く曲げられた松の枝越しに不忍池と弁天堂を望む構図
歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」安政3年(1856) シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

広重が選んだのは、清水観音堂の舞台から、輪のように曲げられた松の枝ごしに不忍池を見下ろす一角でした。この松は「月の松」と呼ばれ、枝を丸く仕立てて額縁代わりにするという、庭師の遊び心がそのまま構図になっています。その初代の松は、明治初期の台風で失われました。以後長いあいだ、この絵は「もう見られない景色」の代表格として語られてきました。

それが平成24年(2012)12月、現代の造園技術で丸太を曲げ直し、月の松は舞台前に復元されています。今、清水観音堂に上がって輪の内側をのぞき込むと、不忍池の弁天堂とその賑わいが、広重の絵とほぼ同じ角度で額縁に収まります。境内の隅には控えの若い松も育てられていて、いずれ代替わりする日まで見守られているようです。上野公園の奥、JR上野駅から歩いてすぐの距離なので、美術館めぐりのついでに立ち寄りやすい一点です。

亀戸天神——太鼓橋と藤は健在、梅屋舗は消えた

歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」。臥龍梅と呼ばれた枝ぶりの梅を手前に大きく配した構図
歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」安政4年(1857) シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この絵に描かれた「梅屋舗」は、商人・伊勢屋彦右衛門の別荘だった梅園で、「臥龍梅」といううねる枝ぶりの梅の木で知られていました。ゴッホが油絵で模写したことでも有名な一枚ですが、この景色は今の亀戸には残っていません。明治43年(1910)の大水害で梅の木がすべて枯死し、庭園そのものが廃園になったからです。今、跡地とされる亀戸3丁目には昭和33年(1958)に建てられた石標柱と説明板が立ち、うねる枝ぶりの臥龍梅は、今はこの一枚の絵の中にだけ生きています。ちなみに現在「亀戸梅屋敷」を名乗る商業施設が近くにありますが、平成25年(2013)開業の別施設で、当時の梅園とは場所も中身も別物です。

同じ亀戸で今も健在なのが亀戸天神社です。境内の太鼓橋と藤棚も広重の絵に繰り返し描かれた組み合わせで、こちらは今も都内屈指の藤の名所として続いています。100株、17棚という規模は江戸時代から大きく変わっていません。毎年4月の藤まつりでは、太鼓橋の朱と藤の紫が重なります。同じ「亀戸の花の名所」でも、片方は消え、片方は残った。このコントラストが、なかなか味わい深いところです。梅屋舗の跡地から天神社までは歩いて数分の距離なので、両方を続けて巡ると「残る場所」と「消える場所」の分かれ目を、地続きの散歩として体感できます。JR亀戸駅から徒歩15分ほどです。

大はし——今の新大橋に立ってみる

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」。夕立の中、傘や蓑で身を隠しながら大橋を渡る人々を描いた縦長の構図
歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」安政4年(1857) メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この絵の橋そのものについては一枚語りで語り尽くしたので、ここでは「今の場所」の話をします。絵に描かれた新大橋は、今の新大橋よりもおよそ100〜200メートル下流に架かっていたと推定されています。つまり、今立っている橋は広重が描いた橋そのものではありません。現在の橋は昭和52年(1977)に架け替えられた斜張橋で、その前は明治45年(1912)架橋の鉄橋でした。この鉄橋は関東大震災の火災で隅田川に架かる橋の中で唯一焼け落ちず、避難する人々の命を救ったことから「お助け橋」と呼ばれています。橋の姿も位置も少しずつ動いていますが、「日本橋の浜町と深川をつなぐ橋」という土地の役割だけは、元禄6年(1693)の初代からずっと変わっていません。都営新宿線の浜町駅または森下駅から歩けます。

隅田川・待乳山——景色そのものが動いてしまった場所

小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」。隅田川の水面越しに小高い真崎山(待乳山)を望む構図
小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」明治17年(1884) シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

明治の絵師・小林清親が描いた真崎山は、浅草の待乳山聖天として今も現地にあります。ただしここは、「絵の中にだけ残る景色」として挙げたい一点です。護岸の整備と市街化が進んだ結果、境内の下をかすめるように流れていた隅田川の岸は、今では150メートル以上も離れた場所に移っています。境内からは今でも隅田川を望めますが、清親が捉えた「山と水がすぐ隣り合っていた距離感」だけは、この一枚の絵の中にだけ生きています。田原町駅か浅草駅から歩いて行けます。同じ隅田川沿いでも、橋は動いても役割が続き、山は動かなくても距離が変わる。この違いは、地図と絵を見比べているだけでは気づきにくいところです。

絵を片手に、歩いてみる

この4か所を並べてみると、「残っている・消えている」の二択では割り切れないことが見えてきます。月の松は一度失われてから復元され、太鼓橋と藤はほぼそのままの姿で続き、橋は場所を変えながら役割を継ぎ、山と川の距離は地形ごと動いてしまいました。同じ「江戸の名所絵」でも、そこに流れた150年の中身はそれぞれまったく違います。

もし出かける機会があれば、目当ての絵の画像をスマホに1枚入れておくことをおすすめします。現地で絵と同じ角度を探して立ってみると、絵師がどこにどう立って、何を額縁に選んだのかが、解説を読むよりずっと具体的にわかります。松の枝の丸みひとつ、橋の傾きひとつが、実際に足を止めて見比べるとちゃんと理由のある選択だったと分かってくる。名所江戸百景はほかにも119図あり、まだ歩いていない地点のほうがずっと多く残っています。太鼓橋を渡る、松の輪をのぞき込む、橋の上で立ち止まる——絵の中の誰かと同じ動作を自分の足でなぞってみると、江戸の人がその場所で何を見て、何に足を止めたのかが、少しだけ近づいて感じられるはずです。次はどこに立ってみようか、地図を眺めながら考えるだけでも十分楽しい時間です。

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