最初の一枚の選び方

最初の一枚は、北斎でも広重でもなくていい。むしろ有名絵師の代表作から入らない方が、たいてい話がうまく進みます。数千円から数万円で買える、理屈抜きで好きになれる一枚を探す話をします。

豊原国周「市川左団次演 土左衛門伝吉」。三枚続のうちの1枚で、歌舞伎役者を大きく描いた明治期の役者絵
豊原国周「市川左団次演 土左衛門伝吉」19世紀後半(明治期)。三枚続のうちの1枚です。こうした明治の役者絵は、状態や摺りの時期によっては数千円〜数万円という現実的な値段で市場に出ます。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

代表作から入らなくていい

浮世絵を「買ってみようかな」と思い立った人が最初につまずくのは、たいてい「どうせなら北斎や広重の有名な図柄がいい」と思ってしまうことです。気持ちはよく分かります。せっかく本物を買うなら、教科書に載っている絵がいい。実際「代表作」として名前が挙がるのは、北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、写楽の大首絵、広重「東海道五十三次」の日本橋あたりの、誰もがどこかで見たことのある顔ぶりです。でもこの代表作、しかも状態のいい初摺となると、本物なら数十万円から数百万円の世界に入っていきます。最初の一枚は、もっと気軽な選び方から始めても十分楽しめます。

ここで発想を変えてみてください。最初の一枚に求めるべきは、「自分が江戸や明治の本物を、実際に部屋に置く」という体験そのものです。有名かどうかは、二の次でいい。極端に言えば、誰が描いたかよりも先に、自分がその絵を見て何か感じるかどうかの方が大事です。無名の絵師の一枚でも、江戸や明治の紙と絵具でできた本物であることに変わりはありません。

実際に流通している価格帯をおおまかに階段にすると、次のようなイメージになります。

数千円〜

明治の役者絵や開化絵など、当時は消耗品に近かったジャンルは、このあたりの価格帯から見かけることがあります。

数万円

状態の良いもの、名所絵や美人画といった人気ジャンルは、このあたりの価格帯で取引されていることが多いようです。

十数万〜20万円台

有名シリーズの後摺など、知名度の高い一枚はこのあたりまで見かけることがあります。代表作の初摺はさらに上の価格帯です。

※あくまで見かけることのある価格帯のおおまかな目安です。状態・摺りの時期・市場によって変動します。

狙い目は「理由のある安さ」

ではどこを探せばいいのか。個人的にすすめたいのは、明治の役者絵(豊原国周やその弟子筋)、文明開化の風俗を描いた開化絵、有名な名所絵シリーズの後摺、そして三枚続や五枚続からバラで抜けた1枚です。「安い=悪い」わけではありません。安さには、ちゃんと理由があります。

役者絵は当時の消耗品に近いブロマイドで、現存数が多い分だけ値段がこなれています。開化絵は横浜絵や文明開化のガス灯・鉄道を描いたもので、名所絵ほどブランド化されていない分だけ手が届きます。名所絵の後摺は、同じ絵なのに値段が違う理由で書いた通り、同じ版木から摺られた正真正銘の当時物でありながら、版木の摩耗や色数の省略で初摺より値段が下がります。三枚続のバラ1枚も、揃いで探すより格段に見つけやすく、値段もこなれます。「質が悪いから安い」のではありません。「揃っている条件が違うから安い」だけです。それが分かっていれば、安さを引け目に感じる必要はありません。

小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」。隅田川越しに山を望む静かな明治期の風景画
小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」明治17年(1884)。江戸の名所絵の系譜を継ぐ明治の風景画も、後摺や個体差によって値段の幅が広く、狙い目の一つです。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

状態は完璧でなくていい、ただし2つだけ避ける

初めて買うとき、シミや虫食いのない完璧な一枚を探そうとする人が多いのですが、これはあまりおすすめしません。150年前後前の紙です。多少のシミ、小さな虫穴、軽い折れ跡は、むしろその絵が本当に江戸や明治の時代を生き延びてきた証拠だと思って眺めると、味わいに変わります。潔癖になりすぎると、選べる一枚がどんどん狭くなってしまいます。

ただし、避けた方がいい欠点も2つだけあります。ひとつは画面の中、つまり絵柄そのものが欠けている損傷です。役者の顔の真ん中に穴が開いている、大事な部分が破れているといった状態は、見るたびに気になってしまいます。もうひとつは強い日焼けです。長年の直射日光で色がほとんど飛んでしまっている絵は、もとの色の魅力が失われていて、初めての一枚としては物足りなさが残ります。余白のシミや端の虫穴は歴史、画面の欠損と強い日焼けは魅力の目減り——このくらいの線引きで十分です。

状態の見どころ 余白のシミ 端の虫穴 画面の欠損 強い日焼け 気にしなくてよい(歴史の証) 避けたい
浮世絵1枚を模式図にした「見どころ」の目安。余白のシミや端の虫穴(金茶)は歴史として気にしなくてよく、画面の欠損や強い日焼け(朱)は避けたいポイント。

気にしなくていい範囲を、数字で言うと

「気にしなくていい」だけでは判断のしようがないので、目安を数字にしておきます。直径1〜2cmほどのシミが余白に1〜2箇所、米粒よりひとまわり小さい虫穴が数箇所、端に浅い折れ跡が入っている——このくらいなら「経年の証」として気にせず候補に残して構いません。実際、150年前後前の紙でここまで無傷のものはむしろ少数派です。逆に手を止めた方がいいのは、直径3cmを超えるようなシミが画面の中にまで及んでいる場合と、虫穴が点ではなく連なって紙自体が弱っている場合です。数字を一つずつ覚えるより、「傷は画面の外か中か」「点か連なりか」の2つを自分に問いかける方が、実物を前にしたときには役に立ちます。

サイズを測って、額を想像してから買う

もう一つ実務的な話をしておきます。浮世絵は判型によってサイズがだいたい決まっていて、いわゆる大判は縦39センチ、横26.5センチ前後。役者絵の大首絵も、名所絵のシリーズものも、多くはこの大判1枚か、それが横に連なる三枚続です。買う前に、必ずこの実寸を確認してください。

買う前に、自分の部屋のどこに、どんな額で掛けるかを一度想像してみることをおすすめします。玄関の壁か、書斎の一角か、本棚の上か。額装まで含めて数千円〜数万円で収まることも多いジャンルですが、額のサイズや色によって印象はかなり変わります。画面越しの写真だけで決めず、実寸と設置場所をセットで考えてから選ぶと、届いてから「思ったより大きい/小さい」と戸惑うことがぐっと減ります。

最後は、理屈より恋

ここまで狙い目の方向性や状態の見方を書いてきましたが、正直に言うと、最初の一枚を決める瞬間は理屈よりも好き嫌いが先でいいと思っています。有名かどうか、相場として妥当かどうかより先に、その絵を見て「これがいい」と思えるかどうか。最初の一枚は、それだけで選んでしまって構いません。値札を見る前に心が動いたなら、もう答えは出ています。

数千円の一枚でも、実際に手もとに届いて壁に掛けてみると、想像以上に感覚が変わります。梱包を開ける瞬間の、あの少し浮ついた気持ちだけは、値段の桁に関係なく毎回同じです。図録やスマホの画面越しに見ていた江戸や明治の紙が、いま自分の部屋の空気の中にある。この体験は、有名絵師の代表作を美術館のガラス越しに見る体験とはまったく別のものです。むしろこの小さな一枚から始めて、少しずつ目が育っていく方が、結果として長く付き合える趣味になります。

明治の役者絵や開化絵は、江戸の名所絵や美人画に比べると今なお評価が追いついていないジャンルです。派手さで選ばれてこなかっただけで、海外の美術館のオープンアクセス画像でも比較的よく見かける、実力のある一群です。まだ知られていない分だけ、今の値段の手頃さにつながっています。

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