明治の浮世絵史——文明開化から日清戦争まで
浮世絵入門 第5回。浮世絵の本や展覧会は、どうしても北斎・広重・歌麿のいる江戸に厚くなりがちです。でも私は、明治の浮世絵こそもっと堂々と1回分の枠をもらっていいと思っています。汽車を摺り、大奥を摺り、怪異を摺った絵師たちの話です。
明治は浮世絵の余生ではない
写真や活版印刷に押されて浮世絵が場所を失っていく話は、前回の記事で書きました。ただ、その「終わりゆく側面」だけを見ていると、明治前半の浮世絵が実際にはとても賑やかだったことを見落としてしまいます。江戸の浮世絵が役者絵と美人画と名所絵という枠の中で洗練を重ねたのに対し、明治の浮世絵は鉄道も、大奥も、幽霊も、戦争も、手当たり次第に飲み込んでいきました。ジャンルの幅だけで言えば、むしろ江戸より奔放だった。私はそう思っています。
汽車と洋館、真っ赤な空——開化絵と横浜絵
明治初期を象徴する絵が開化絵です。鉄道、洋館、ガス灯、ざんぎり頭の人々といった、江戸の絵師が見たこともなかった新しい風景そのものが売り物になりました。もう一つ欠かせないのが横浜絵で、安政の開港以来、異人が行き交う横浜の街を、まだ実物の西洋人を見たことのない全国の読者に届ける役割を果たしています。
この時期の開化絵を語るときによく出るのが「赤絵」という呼び名です。欧米から輸入されたアニリン染料は、それまでの紅や丹とは比べものにならない鮮やかな赤を出せました。安政年間にはすでに一部で使われていたものの量は多くなく、明治に入って本格的に多用されるようになると、汽車の車体も、洋館の壁も、燃えるような赤で塗り分けられるようになります。この派手さゆえに「明治赤絵」とも呼ばれます。江戸の藍摺りとはまったく別種の、けばけばしいまでの高揚感。正直、この赤は今の目で見てもかなり攻めていると思います。
紅・丹とアニリン赤、何が違うのか
江戸の赤は、紅花からとった紅(べに)や、酸化鉄が主成分の丹(たん)という天然の色材でした。紅は花びらのわずか1パーセントほどしか採れない貴重な色素で、しかも熱と光に弱く、年月とともに褪せていきます。対してアニリン染料は石炭のコールタールを原料にした人工の染料で、発色は濃く均一、退色にも強い。万延年間(1860〜61)ごろから輸入され始め、「洋紅」の名で浮世絵に使われるようになりました。紅が橙みを帯びたやわらかい赤であるのに対し、アニリン赤は青みを帯びるほど濃く沈む、質そのものが違う赤だったのです。
豊原国周——役者絵に生き抜いた「明治の写楽」
天保6年(1835)生まれの豊原国周は、時代が変わっても役者絵だけを描き続けた最後の世代の一人です。羽子板絵師のもとで修業したのち豊原周信、さらに三代歌川豊国に学び、3枚続の中に役者一人を半身で大きく立たせる大胆な構図を得意としました。写真の登場後もひたすら舞台の熱を摺り続けたその姿勢から「明治の写楽」の異名で呼ばれています。
楊洲周延——刀を筆に持ち替えた男が描いた大奥
周延の経歴は、明治の絵師の中でも異色です。高田藩の江戸詰藩士の家に生まれた橋本直義、それが周延の本名でした。戊辰戦争では上野彰義隊に加わり、敗れて品川から船で北へ逃れ、榎本武揚の軍に合流して箱館を目指します。宮古湾海戦で重傷を負い、捕らえられて禁錮50日。刀を筆に持ち替えて本格的に絵師の道に入るのは、それから10年近くたった明治10年頃のことでした。
そんな周延が明治27年(1894)から手がけたのが「千代田の大奥」です。明治維新で解体され、もう誰も自由には出入りできなくなった江戸城大奥の年中行事や女中たちの暮らしを、聞き取りや伝聞をもとに描き起こした全40組の大シリーズで、うち1組「婚礼」だけは5枚続という力の入れようでした。
「聞き取りや伝聞」とは、具体的に何を描いたのか
全40組のうち、正月の場面だけでも「かるた」「追い羽根」「鏡餅曳」と何組も割かれ、ほかに花見をはじめ年中行事の一場面一場面が、それぞれ独立した1組として描かれています。中でも別格の扱いを受けたのが「婚礼」で、これだけは他の39組と違って5枚続の画面いっぱいに、将軍と御台所、そこに仕える9名の女官までがずらりと並びます。すでに解体されて誰も出入りできなくなっていた大奥の、部屋の間取りも、髪型も、化粧道具も、周延は聞き取りをもとに1枚ずつ埋めていきました。
武家として戦い、敗れた側の人間が、失われた武家社会の奥をこれほど丹念に摺り物として残したという事実に、私はいつも複雑な感慨を覚えます。
月岡芳年——最後の浮世絵師が見た、光と影
天保10年(1839)生まれの月岡芳年は「最後の浮世絵師」と呼ばれることの多い絵師です。幕末の慶応期には兄弟子・落合芳幾との競作「英名二十八衆句」で、歌舞伎の残酷な場面を生々しく描く「無惨絵」の名手として名を上げました。ところが明治に入ると作風は大きく広がっていきます。西南戦争の戦争絵、歴史画、そして晩年の二大シリーズ「月百姿」(明治18〜25年)と「新形三十六怪撰」(明治22〜25年)では、和漢の物語や能・歌舞伎の怪異譚を、血なまぐささよりも陰影と余白で語る画風に達しました。上の「大森彦七」も、太平記に登場する武将が妖しい女に化けた鬼女に出会う一場面です。血みどろの絵師として出発した男が、最後には闇そのものの静けさを描くようになった。その振れ幅こそ、私が芳年から離れられない理由です。
光線画と日清戦争、駆け足で
小林清親の光線画や、日清戦争を機に爆発的に量産された戦争絵については、前回の記事「なぜ浮世絵は廃れたのか」で詳しく書きました。西洋の陰影表現を取り込んだ清親の静かな東京の風景と、宣戦布告からわずか9日で25種類が出版されたという国周・清親らの戦争絵。同じ明治という時代に、これほど温度の違う絵が同居していた。それも込みで、私は明治の浮世絵が好きです。
明治の浮世絵は、こうしてジャンルを広げながら、産業としては静かに終わりへ向かっていきます。ただ皮肉なことに、そのおかげで今のこちら側にはうれしい話もあります。人気絵師の代表作より値付けが控えめなことが多く、国周や周延の役者絵・美人画は、状態のよいものでも本物が数千円から市場に出ることが珍しくありません。この話は「手もとに置く」のページで、もう少し詳しく書くつもりです。
つづけて読む
- 江戸の浮世絵史(前回) — 師宣から幕末まで、時代を追って見る江戸の浮世絵
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