江戸の浮世絵史——二百年の流れをたどる

浮世絵入門 第4回。なぜ流行ったかなぜ廃れたかを先に見てきました。その間に何があったのか、時代を追ってたどります。一人の天才が最初から最後まで作り続けたわけではありません。時代ごとに主役が交代しながらバトンがつながっていった、二百年のリレーの話です。

絵師の活動期間 1670〜1900年 帯は制作活動をしていたおおよその期間(生没年ではありません) 起点・総合 美人画・役者絵 風景画 武者絵・歴史画など 菱川師宣 鈴木春信 鳥居清長 喜多川歌麿 東洲斎写楽 ←写楽 10か月のみ 葛飾北斎 歌川広重 歌川国貞(三代豊国) 歌川国芳 月岡芳年 小林清親 1670 1700 1750 1800 1850 1900 錦絵誕生(1765) 寛政の改革(1790) 天保の改革(1842) 開国(1853) 明治維新(1868)
帯は各絵師が浮世絵を制作していたおおよその活動期間で、生没年ではなく活動期間を基準にしています。始期・終期の取り方は資料によって幅があるため、あくまで目安としてご覧ください。写楽は寛政6年(1794)5月〜寛政7年(1795)1月の約10か月しか活動記録がなく、図の上ではほかの絵師の帯に埋もれてしまうほど細い一本の線になっています。小林清親は大正4年(1915)まで活動しましたが、時間軸を1900年までとしているため、帯は右端の矢印で途切れています。 年代は英語版・日本語版ウィキペディア、大英博物館、メトロポリタン美術館等の資料、および本サイト浮世絵略年表の記述と突き合わせて作成。

北斎(1779〜1849年活動)と広重(1818〜1858年活動)の帯は北斎の後半生とほぼ重なっており、広重は北斎がすでに大御所だった時代に世へ出た次の世代の絵師だったことがわかります。そして写楽の帯だけは、ほかの絵師の帯に埋もれてしまうほど細く、寛政6〜7年のわずか10か月しか記録が残っていない特異な活動期間だったことが一目で見て取れます。

すべての始まり——菱川師宣が絵を主役にした

浮世絵の起源は、江戸時代前期、寛文から元禄にかけて活動した菱川師宣にさかのぼります。師宣はもともと、本の挿絵を描く絵師でした。当時の絵入り本は文章が主役で、絵はあくまで添え物。師宣がやったのは、その挿絵を単独で一枚の紙に大きく刷り、絵だけで売るという発想の転換です。文章の添え物だった絵を、主役に昇格させた。代表作「見返り美人図」は肉筆(一点物)ですが、師宣が確立した「絵を単独の商品として売る」というやり方そのものが、のちの版画としての浮世絵の土台になった。これが「浮世絵の祖」と呼ばれる理由です。

師宣の時代の浮世絵は、まだ墨一色の墨摺絵でした。それに買った人が自分で色を塗ったり、後には筆で朱や丹(オレンジがかった赤)を軽く加えた丹絵・紅絵が流行ります。そして舞台と結びついた鳥居清信らの鳥居派が、歌舞伎の看板絵・番付絵という分野を切り開き、役者絵という浮世絵の大黒柱のひとつを作りました。

春信の一撃——錦絵の誕生

浮世絵の見た目が一変するのは、明和2年(1765)です。俳諧や狂歌をたしなむ裕福な旗本・大久保巨川らが、仲間内で贈り合う絵入りの暦(絵暦)の出来映えを競い合う遊びを始めました。お金に糸目をつけない趣味人たちの後押しで、鈴木春信を中心とする絵師・彫師・摺師が、それまで数色止まりだった色摺りの技術を一気に押し広げ、何度も色版を重ねる本格的なフルカラー木版画を実現します。これが錦のように美しいという意味で「錦絵」と呼ばれ、以後の浮世絵の標準フォーマットになりました。

「数色」から「10色以上」への跳躍

紅摺絵(春信以前)

墨の輪郭に紅・草色など2〜3色を版や筆で足す程度

錦絵(春信以後)

色ごとに版木を分け、8〜20版、多いものは10色以上を寸分違わず重ねる

版木の枚数がひとケタ増えても絵柄が崩れなかったのは、紙を置く位置を版木の角の小さな切り込みで固定する「見当」という仕組みが同時に確立したからです。この仕組みがなぜ必要だったのかは「なぜ浮世絵は流行ったのか」で、彫師・摺師それぞれの持ち場は「版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み」で扱っています。

春信の錦絵は、儚げで少女のような姿の美人画で人気を集めましたが、わずか10年ほどの活動期間で世を去ります。しかし彼が切り開いた「多色摺りの美人画・役者絵」という土俵の上で、次の世代が本格的に勝負を始めることになります。

黄金期——清長・歌麿・写楽と、仕掛け人・蔦屋重三郎

安永から寛政にかけて、浮世絵は最初の頂点を迎えます。鳥居清長がすらりと均整のとれた美人画で一世を風靡し、続いて喜多川歌麿が、顔だけを大きく描く「美人大首絵」という手法で、美人画をひとつの完成形に押し上げました。

喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」。ガラスのおもちゃ・ぽっぴんを吹く娘の大首絵
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」寛政4〜5年(1792〜93)頃。表情や仕草の一瞬をとらえた美人大首絵は、歌麿がこの時代に完成させた表現です。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この時代を語るうえで欠かせないのが、版元・蔦屋重三郎です。歌麿を見出して売り出したのも蔦屋ですし、寛政6年(1794)、素性のよくわからない新人・東洲斎写楽をいきなり大首絵の役者絵でデビューさせたのも蔦屋でした。写楽の活動期間はわずか10か月ほど。誇張された表情の役者絵は当初こそ賛否両論でしたが、今では黄金期を象徴する仕事として評価されています。版元・絵師・彫師・摺師の分業という浮世絵の仕組みの中で、蔦屋は企画とスターの発掘を担う、いわば江戸のプロデューサーでした。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」。両手を突き出した歌舞伎役者の迫力ある大首絵
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」寛政6年(1794)。蔦屋重三郎が満を持して送り出した、正体不明の絵師による役者大首絵です。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)
写楽の正体は今も確定していません。阿波藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛とする説が有力視されていますが、決め手を欠き、北斎や歌麿の変名だったとする説まで、江戸時代最大級の謎として語り継がれています。

ところがこの華やかさは、老中・松平定信による寛政の改革で急ブレーキがかかります。寛政2年(1790)以降、時事ネタ・風刺・華美な出版物への統制が強まり、寛政3年(1791)には蔦屋と組んでいた戯作者・山東京伝が手鎖50日の刑を受け、蔦屋自身も身代の半分を没収されました。写楽が10か月足らずで舞台から姿を消したのも、こうした統制で華美な役者絵が作りにくくなった空気と無縁ではないだろうと言われています。浮世絵が印刷物である以上、政治の風向き一つで商売の形が変わってしまう、という現実がここに表れています。

北斎・広重——役者絵から風景画へ

役者絵・美人画への統制が続く中、絵師たちが見出した新しい活路が風景画でした。天保2年(1831)頃、葛飾北斎は「冨嶽三十六景」を発表します。当初は、この頃日本に本格的に入ってきた輸入顔料ベロ藍(プルシアンブルー)だけで濃淡をつける藍摺絵として売り出されました。深く沈むような藍の発色は、それまでの日本の絵具にはない鮮やかさで、富士山という誰もが知る題材と組み合わさって大ヒットとなります。図版で見るのと実物では、この藍の沈み方がまるで違います。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。巨大な波の向こうに富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保元〜4年(1830〜33)頃。輸入顔料ベロ藍の鮮やかな藍が、この時代の風景画ブームを支えました。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

図版と実物、何が違って見えるのか

本や画面で見る「神奈川沖浪裏」は、印刷や画面の色域に合わせて平均化された一色の青です。ところが実物の藍摺りは、摺師が刷毛で絵具を引き伸ばしながら摺る「ぼかし」の技法によって、同じ藍の中に何段階もの濃淡と、刷毛のムラそのものが生きています。波頭の白い飛沫のすぐ下は最も濃く沈み、船の周りの水面に向かって少しずつ薄まっていく。この階調は紙の上でしか成立しないグラデーションで、画面の均一な発色には写し取れません。美術館で実物を見る機会があれば、波の中でいちばん濃い場所といちばん薄い場所を目で追ってみてください。図版では気づかなかった藍の「幅」が、そこにあります。摺師がぼかしでどこまで表現を作り込むかは「版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み」で詳しく扱っています。

これに続いたのが歌川広重で、天保4年(1833)頃に「東海道五十三次」を発表します。庶民のお伊勢参りや物見遊山が盛んになっていた時期と重なり、行ったことのない土地の風景を眺める楽しみが、役者絵・美人画に代わる新しい人気ジャンルとして定着しました。役者絵は「今この人」を描く分、統制の対象になりやすい。風景画はそうではありませんでした。取り締まりの標的になりにくかったという事情も、この転換を後押ししたのでしょう。

幕末——国芳・国貞と、もう一度の弾圧

天保12〜14年(1841〜43)、老中・水野忠邦による天保の改革が始まると、浮世絵は寛政の改革以来二度目の厳しい統制を受けます。役者の似顔絵や遊女・芸者を描いた美人画が禁じられ、人情本作家の為永春水は見せしめに処罰されました。

この逆風の中で存在感を発揮したのが歌川国芳です。役者絵が描けないなら、猫や妖怪、武者を描けばいい。機知に富んだ発想で規制の網をくぐり抜け、時には権力者を妖怪に見立てた風刺画まで発表しました。一方、国芳と同門の歌川国貞(のちの三代豊国)は、役者絵や美人画の量産体制を保ちながら幕末を生き抜き、当時もっとも人気のあった絵師の一人として名を残しています。清長・歌麿・写楽の時代とは違う形で、浮世絵はしぶとく生き延びていました。

歌川国芳「化物東海道 岡崎の猫また騒動」。妖怪化した猫又が描かれた作品
歌川国芳「化物東海道 岡崎の猫また騒動」天保7年(1836)頃。役者絵への統制をかいくぐるように、国芳は猫や妖怪を主役にした奇想の絵で人気を集めました。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

師宣の一枚絵から数えて二百年近く、浮世絵は「絵だけを売る」という出発点を保ったまま、色数を増やし、テーマを変え、規制のたびに姿を変えながら生き延びてきました。この先、時代は江戸から明治に変わります。写真や活版印刷という新しいライバルが現れるまでの、もうしばらくの時間を、浮世絵はまだ全力で走り続けます。

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