なぜ浮世絵は廃れたのか

浮世絵入門 第3回。前回は浮世絵がなぜ流行ったかを書きました。今度はその逆、なぜ終わったのかです。答えを先に言うと、誰か一人の失敗ではありません。もっと静かで、もっと切実な話です。

明治になっても、すぐには死ななかった

誤解されがちですが、浮世絵は明治維新でぱたりと消えたわけではありません。明治の前半、最後にもう一度、大きく花開いています。

文明開化の東京を描いた開化絵は、鉄道や洋館、ざんぎり頭の人々という新しい風景そのものが売り物でした。明治9年(1876)、絵師としてデビューしたばかりの小林清親が「東京名所図」のシリーズを発表します。西洋画の陰影法を木版に取り込み、夜明けや夕暮れの光そのものを主役にした「光線画」と呼ばれる画風で、これが評判を呼びました。

小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」。隅田川越しに霞む遠景を、光と影の階調で描いた明治の木版画
小林清親「武蔵百景之内 隅田川より真崎山遠景」明治17年(1884)。代表作「光線画」の時代(明治9〜14年)からは少し離れ、より広重に近い叙情的な風景へと画風を移していた頃の一枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

とどめは明治27年(1894)の日清戦争です。宣戦布告は8月1日でしたが、わずか9日後の読売新聞にはすでに25種類の戦争絵が出版されたと報じられ、最終的な点数は300点を超えたともいわれます。清親も、尾形月耕も、田口米作も、そして本来は役者絵専門だったはずの豊原国周までもが戦地の絵を描きました。浮世絵史上最大の戦争絵ブーム、そして長い浮世絵の歴史における事実上最後の大きな輝きです。

豊原国周による明治期の役者絵。市川左団次が演じる土左衛門伝吉
豊原国周「市川左団次演 土左衛門伝吉」明治期。「明治の写楽」とも呼ばれた国周は、時代が変わっても役者絵を描き続けた最後の世代の一人です。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

敵は「速くて安くて正確」だった

この賑わいの裏側で、浮世絵の足元は静かに崩れていました。相手は写真、石版画(リトグラフ)、銅版画、そして活版印刷です。

写真は現実をそのまま写し取り、石版画は絵師の絵を版木に彫り写す手間なしに量産でき、活版印刷は文字と挿絵をまとめて速く刷れる。浮世絵が誇ってきた「多色摺りの美しさ」よりも、「速くて、安くて、正確」であることのほうが、新しい時代には強かったのです。

1枚の絵ができるまでにかかる手間の違い
技術絵を版にするまで必要な職人
木版(錦絵)彫師が版木に一版ずつ彫り込む。色版は8〜20枚に及ぶことも絵師・彫師(一人前まで修業4〜5年以上)・摺師
石版画(リトグラフ)石灰石に直接描くだけで、彫る工程がまるごと不要絵師のみ(彫りの修業は不要)
写真レンズで写し取るだけで、そもそも「描く」工程が要らない撮影者のみ

彫りに何年もの修業を要する木版に対し、石版画は絵さえ描ければ量産に回せ、写真にいたっては絵を描くことさえ不要でした。この差は、浮世絵が誇ってきた美しさとは別の物差しで、そのまま産業としての強さの差になりました。明治40年(1907)の朝日新聞は当時の錦絵問屋の様子をこう伝えています。「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し……写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行」。絵師が一枚一枚に込めていた工夫が、印刷技術の進歩そのものに置き換えられていった、ということだと思います。

錦絵新聞、一瞬だけ咲いた花

この移行期に、面白い徒花のような存在がありました。錦絵新聞です。明治7年(1874)後半ごろから、殺人事件や色恋沙汰、珍しい噂話といった新聞記事を浮世絵師が絵にし、簡単な説明文を添えて売る一枚刷りが人気を集めました。文字が読めなくても絵でニュースが分かる、いわば絵入りタブロイドです。

ところが、この人気は長続きしませんでした。同じようにわかりやすい記事と挿絵を組み合わせながら、木版の多色摺りより早く安く作れる「小新聞」が単色の挿絵入りで登場すると、錦絵新聞はあっという間に押し出されます。生まれてから10年と経たずに、ほぼ姿を消しました。速さと安さに負けるという、この後の浮世絵全体の運命を先取りしたような話です。

分業システムという弱点

浮世絵は版元・絵師・彫師・摺師の分業で作られる、という話は第1回でも書きました。この仕組みは、注文がある間は効率のいい産業でしたが、逆に言えば注文が減った瞬間からもろい仕組みでもありました。

彫師も摺師も、一人前になるには何年もの修業が必要な職人です。浮世絵の仕事だけでは食べていけなくなれば、彼らは別の仕事に移るしかありません。技術は本人の中にしかないので、一度途切れた腕は簡単には戻りません。絵師一人が残っても、彫る人と摺る人がいなければ浮世絵は作れないのです。名前も残らなかった名人が、この時代にどれだけいたのだろうと思います。

版元が新しい印刷技術に商売を切り替え、彫師・摺師への注文が細っていくと、技術の継承そのものが静かに途切れていきました。絵師の才能の問題ではありません。産業としての浮世絵を支えていた裾野が、静かに痩せていった話です。

皮肉な結末——古紙が海を渡った

浮世絵の歴史でいちばん皮肉なくだりが、ここにあります。国内で浮世絵の価値が下がりきっていた時期、つまり古い摺り物として二束三文で扱われ、荷物の詰め物や包み紙にまでされていたと伝えられるちょうどその頃、欧米ではジャポニスムの熱が高まっていました。

象徴的なのが、フランスの銅版画家フェリックス・ブラックモンの逸話です。1850年代、陶器の梱包材として使われていた反故紙の山の中に『北斎漫画』の1ページを見つけ、その筆致に驚嘆したと伝えられています。日本国内でとうに紙くず扱いだったからこそ、割れ物の詰め物という粗末な使われ方をして、たまたまパリの版画家の目に触れる巡り合わせが生まれたわけです。ブラックモンはのちに北斎漫画などの図柄をもとにした食器を制作し、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に出品して評判を呼びました。

明治11年(1878)に来日したアーネスト・フェノロサはその代表格です。東京大学で哲学を教えるかたわら日本美術を研究し、岡倉天心とともに東京美術学校の創設にも関わった人物ですが、同時に浮世絵をはじめとする日本美術を大量に買い集め、のちにボストン美術館東洋部長に転じています。フェノロサだけの話ではありません。同じ時期、多くの外国人コレクターが似たことをしていました。安く買えたから、というだけの理由で。笑い話のようで、笑い切れない話だと思います。

質の高い浮世絵の少なからぬ部分が、こうして海外の美術館に流出しました。日本側でこの流出が問題視され、重要美術品の海外流出を防ぐ法律が整えられるのは、ようやく昭和8年(1933)のことです。すっかり時代が変わったあとで、日本は自分たちが手放したものの価値に、外から教えられる形で気づき直すことになります。海外の美術館に浮世絵の名品が集まっている事情は、「海外の浮世絵美術館」で詳しく扱っています。

エピローグ——分業システムは大正に転生する

浮世絵という産業そのものはこうして役目を終えていきますが、絵師・彫師・摺師の分業という仕組みそのものは、実は完全には絶えませんでした。明治42年(1909)に版画商を開いた渡邊庄三郎が、大正の半ばから、この分業体制を使って新しい木版画を作る運動を始めます。伊東深水や川瀬巴水といった画家たちを起用した、いわゆる新版画です。江戸の浮世絵とは目指すものが違う、もう一つの物語です。深追いはしませんが、彫師と摺師の腕そのものは、形を変えて次の時代に生き延びていました。

当サイトが扱うのは主に江戸〜明治の浮世絵です。大正以降の新版画・創作版画は、浮世絵とどう違うのかを含めて、いずれ別の記事で改めて扱いたいと思っています。

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