版木・紙・顔料——浮世絵をつくる素材の話
彫師や摺師がどれだけ腕を振るっても、版木が硬すぎたら細い線は彫れませんし、紙が弱ければ何百回もの摺りに耐えられず破れてしまいます。浮世絵という様式そのものは、実は絵師の才能である以前に、手に入る素材に強く縛られていました。
版木は山桜——彫りやすさと丈夫さ、両方が要る
浮世絵の版木にいちばん使われた木は、山桜です。桜の木というと花のイメージが先に立ちますが、材としての山桜は木目が緻密でむらが少なく、繊維が均一に詰まっています。だから彫刻刀を入れたときに刃がぶれず、髪の一本一本や着物の細かい縞のような、髪の毛ほどの線でも思いどおりに彫れます。
彫りやすいだけの木なら、他にもっと柔らかい木がいくらでもあります。山桜が選ばれ続けたのは、彫りやすさと同時に、摩耗への強さも兼ね備えていたからです。浮世絵の版木は1回や2回摺って終わりではありません。一杯(いっぱい)と呼ばれる200枚前後の単位で、しかも版によっては色数ぶんの板を何度も摺り重ねます。柔らかすぎる木では、線の際がすぐに丸くなって崩れてしまう。山桜は、細密な彫りに耐える硬さと、繰り返しの摺りに耐える粘りという、本来なら両立しにくい二つの性質を、ちょうどいい塩梅で持っていた木だったわけです。
木版画に使える木は山桜だけではありません。朴(ほお)や桂(かつら)も昔から板木に使われてきましたが、これらは山桜よりやわらかく、彫刻刀の抵抗が少ない分、初心者や試し彫りに向く材とされます。裏を返せば、線の角がすぐに丸くなりやすいということでもあります。プロの彫師が髪の一本を彫り分ける毛割や、何百回と摺りに耐える本番の版木には、朴や桂ではなく山桜が選ばれ続けました。同じ「彫れる木」でも、1回きりの試作に向く木と、200枚・500枚と摺られる商品に向く木は、別の木だったわけです。
版木は高価——両面を使い、彫り直してでも使う
山桜の原木は、伐ってすぐ使えるわけではありません。板に木取りしたあと、反りや割れが出ないよう数年がかりで乾燥させてから、ようやく版木として仕立てられます。気の長い話です。当然、値の張る素材です。だから版元は、1枚の板を惜しみなく使い切ろうとします。江戸時代の浮世絵版画は、木版数枚の表と裏、両面をフルに使い、10面前後の板で1組の色版を賄うのが基本的なやり方でした。表を彫って摺り終えたら、裏返してまた別の図柄を彫る。1枚の板が、2つの作品の版木として働くわけです。
摩耗して線がだれてきた版木も、簡単には捨てません。彫り直して図柄を蘇らせたり、まったく別の絵柄を新しく彫って上から使い直したりということが行われました。今では失われてしまった版木も多い一方、こうして代を重ねて使い込まれた版木の存在そのものが、版元にとって版木がどれほど大事な資産だったかを物語っています。
奉書紙——薄いのに、ばれんの圧に負けない紙
次は紙の話です。浮世絵に使われた紙は、楮(こうぞ)というクワ科の木の皮を原料にした奉書紙(ほうしょがみ)が主でした。楮は生育が早く、2〜3年ごとに枝を刈り取っては皮を剥いで使えるので、繊維の供給源として理にかなっています。この楮の繊維、見た目の細さに反してとても長く強靭です。
浮世絵の摺りは、版木にのせた絵具の上に紙を置き、ばれんで手のひらの圧をかけて絵具を紙の繊維の奥まで押し込む作業です。しかも1枚の絵に色版が何枚もあれば、同じ紙に何度も版を替えてこの圧をかけ直します。1枚の錦絵で色を重ねる回数は、多いものでは20〜30回にもおよぶとされ、奉書紙はその1枚1枚の圧を受け止めながら、最後まで紙としての形を保ち続けなければなりません。薄く漉かれた紙でありながら、この摩擦と圧に破れず耐えられるのは、楮の繊維が長く絡み合っているからです。手漉きの和紙は、漉き桁を前後に揺する工程で繊維が幾重にも交差して絡み合いますが、機械漉きの紙や西洋紙ではこの絡み合いの回数がずっと少なく、同じ薄さでも引っ張りへの強さに差が出ます。摺師は紙の両面を見比べ、繊維の流れる方向まで確かめてから摺りにかかったといいます。素材そのものの丈夫さがなければ、あの繊細なぼかしや、際まで色がにじまない摺りの精度は成立しなかっただろうと思います。
色の話——墨、紅、そして輸入された藍
顔料の話です。浮世絵の色は、最初から今のような鮮やかさだったわけではありません。基本は墨の黒と、紅花(べにばな)から採る紅、露草(つゆくさ)や本藍から採る青。いずれも植物由来で、手間のかかる貴重な色でした。とりわけ紅花は「紅一匁、金一匁」と言われるほど高価で、初期の浮世絵に紅を主体にした「紅摺絵(べにずりえ)」という呼び名があるのも、紅がそれだけ絵の印象を決める色だったからです。
その色の顔ぶれを塗り替えたのが、ベロ藍(プルシアンブルー)でした。18世紀初頭にベルリンで偶然生まれた化学合成の青で、日本には延享4年(1747)にはすでに輸入記録があります。とはいえ当初は数も少なく高価な輸入品にとどまっていましたが、天保年間(1830年代)に入って本格的に出回るようになると、状況が一変します。北斎の「冨嶽三十六景」は、当初「藍摺絵」、つまり藍の濃淡だけで刷るシリーズとして売り出されました。「神奈川沖浪裏」のあの深い青から白く泡立つ波頭までの階調は、このベロ藍あってのものです。
素材が様式を決めた——ベロ藍が生んだ風景画ブーム
ここが今回いちばん言いたいところです。ベロ藍が安定して手に入るようになったことは、単に「青い絵の具が増えた」という以上の意味を持っていました。それまでの浮世絵の主役は、役者絵や美人画のような人物ものでした。ところがベロ藍という、空や水を思いどおりの濃淡で表現できる青が出回ったことで、空と海と山を主役にした風景画というジャンルが、一気に描きやすく、そして売りやすくなったのです。北斎の「冨嶽三十六景」も、続く広重の「東海道五十三次」や「名所江戸百景」も、この藍の登場とほぼ時を同じくして世に出ています。絵師の才能だけでこの風景画ブームが起きたと考えるのは、たぶん正確ではありません。彫師や摺師の腕を生かせる青という素材が先にあって、そこに絵師たちの構図の工夫が乗った、と見るほうが実態に近いと私は思っています。
明治の赤——アニリン染料がもたらした、もうひとつの転換
同じことが幕末から明治にかけて、今度は赤で起こります。紅花の紅は前述のとおり高価で、しかも光に弱く色褪せやすい染料でした。ところが幕末に輸入され始め、明治に入って広く使われるようになったアニリン染料は、化学合成ゆえに安価で、しかも紅花では出せないほど強く鮮やかな発色をします。豊原国周や楊洲周延といった明治の絵師たちの作品に、目を刺すような赤が多用されているのはこのためで、この時期の錦絵はしばしば「赤絵」とも呼ばれます。
この赤を「毒々しい」「品がない」と評する声は当時からありました。実際、江戸期の紅摺絵の淡い紅と並べると、確かに主張が強すぎるようにも見えます。ですが私は、これも「安価で丈夫な赤が手に入った」という素材の変化がまず先にあって、絵師たちがその赤を存分に使い切った結果だと捉えています。派手だからよくない、渋いからよいという単純な優劣の話ではありません。江戸の紅摺絵と明治の赤絵は、それぞれの時代に手に入った素材の違いがそのまま画面に表れている、別々の到達点なのだと思います。
ここまでに出てきた色料を、実際の色に近い見本で並べておきます。
絵師の腕だけでは、あの絵は生まれなかった
版木・紙・顔料と見てきましたが、いずれにも共通するのは、江戸の絵師や彫師・摺師たちが、目の前にある素材の限界と可能性のなかで最善を尽くしていたという事実です。山桜がなければあの繊細な線は彫れず、楮の奉書紙がなければあのぼかしは紙に定着せず、ベロ藍やアニリン染料が輸入されなければ、風景画も赤絵も違う形になっていたかもしれません。次に1枚の浮世絵を眺めるときは、描かれた図柄はもちろん、その青や赤がどこから来た色なのかにも、少し想像を向けてみてください。
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