工程を追う——1枚の錦絵ができるまで
前回は版元・絵師・彫師・摺師という「誰が作るか」を紹介しました。その四人が、実際にどんな順番で手を動かしているのかを、最初の一筆から最後の一摺りまで追いかけてみます。
細かく見ていく前に、まず全体の流れを図にしておきます。版下絵から摺り上がりまで、大きく六つの段階を経ます。
① 版下絵
はんしたえ / 絵師
墨一色で人物の輪郭や柄の線を描く。あとの全工程の土台になる一枚。
できるもの: 版下絵1枚
② 主版を彫る
おもはんぼり / 彫師
版下絵を版木に貼り、透かして見える輪郭線だけを彫り込む。
できるもの: 主版(輪郭のみ)
③ 校合摺
きょうごうずり / 試し摺り
主版を墨一色で試し摺り。使う色の数だけ複製を用意する。
できるもの: 白地の見本
④ 色さし
いろさし / 絵師
校合摺の束に朱筆で色を指定する。1枚につき1色が基本の形。
渡すもの: 色指定済みの校合摺
⑤ 色版を彫る
いろはんぼり / 彫師
指定された色ごとに色版を彫る。版木の縁に見当も彫り込む。
できるもの: 色版一式+見当
⑥ 多色摺り
たしょくずり / 摺師
見当に紙を合わせ、薄い色から順に摺り重ねる。
できるもの: 完成した錦絵
版下絵と色さしの二度、絵師の手が入る点がポイントです。以下、それぞれの段階を一つずつ詳しく見ていきます。
版下絵——絵師が置くのは、まだ墨一色の線だけ
すべては絵師が描く「版下絵」から始まります。薄い紙に墨一色で描かれる下絵で、この段階では色は一切ついていません。人物の輪郭、着物の柄の線、波や雲の形。あとの工程すべての土台になる線を、絵師はこの一枚に凝縮させます。版元の検討を経てこの版下絵が確定すると、絵師の手を離れ、彫師の作業場へと渡っていきます。
主版彫り——最初に彫るのは、色ではなく輪郭線
彫師はまず、版下絵の紙をそのまま版木に裏返しに貼り付け、透かして見える線に沿って彫り込んでいきます。紙は彫るときに削れてなくなってしまうため、この時点で絵師の原画そのものは失われる運命にあります。ここで最初に仕上がるのが、輪郭線だけを彫った「主版(おもはん)」です。色をどう乗せるかはまだ何も決まっておらず、あるのは墨の線を再現するための版木1枚だけです。
「失われる運命」というのは比喩ではありません。版下絵は彫師の手で版木に糊付けされ、その紙の上から刃を入れて木屑ごと削り取られていきます。彫り終えたときには、紙は木屑と一緒に消えてなくなっています。北斎や広重ほどの絵師でも、代表作の版下絵そのものはほとんど現存しません。構想段階の下絵(粉本)が別に伝わることはあっても、実際に版木へ貼られて彫りに使われた1枚は、この工程自体が原画を消費する仕組みだったために、そもそも残りようがないのです。
校合摺——色をつける前に、まず墨一色で試し摺り
主版が彫り上がると、色をつける前にまず墨だけで試し摺りをします。これが「校合摺(きょうごうずり)」です。彫りに欠けや誤りがないかを確かめるとともに、このあと絵師が色を指定するための「白地の見本」を必要な枚数だけ用意する工程でもあります。校合摺は1枚では足りません。使う色の数だけ、複製が要ります。1色につき1枚、その色をどこに置くかを書き込む台紙になるからです。
絵師の色さし——朱筆で入れる、たった一言の指示
用意された校合摺の束に、絵師が朱の筆で色を書き入れていきます。「ここは藍」「ここは紅」といった具合に、1枚の校合摺につき1色ずつ指定するのが基本の形です。絵師自身が絵具を溶いたり刷毛を握ったりすることはなく、指示はあくまで紙の上の文字と朱の印にとどまります。この色さし指定こそが、下絵という設計図を、実際に摺られる色数の版木へと変換していく分岐点にあたります。
色版を彫る——色の数だけ、版木は増えていく
色さし済みの校合摺は再び彫師のもとへ戻り、指定された色ごとに「色版」が彫られていきます。理屈のうえでは色の数だけ版木が必要になりますが、江戸の彫師は木を無駄にしません。版木は両面とも彫って使うのが普通で、5枚の版木があれば表裏で10面、10色前後の絵ならそれでほぼ足りる計算になります。もっとも、これはあくまで基本の考え方で、ぼかし専用の版や同系色を面ごとに分けた版が加わる凝った作品では、版木の総数が8枚から20枚ほどに膨らむ例も珍しくありません。目に見える色の数と、実際に彫られる版木の枚数は、必ずしも一致しません。
| 作品の規模 | 色数の目安 | 版木の枚数 | 彫られる面数 |
|---|---|---|---|
| 標準的な錦絵 | 10色前後 | 5枚 | 10面(表裏1面ずつ1色) |
| ぼかし・同系色を凝らした作品 | 15〜20色以上 | 8〜20枚 | 16〜40面 |
実例で言えば、北斎「神奈川沖浪裏」はアダチ版画研究所の技法解説によると、輪郭線の主版から船体の黄土色、鼠色、波頭の白まで、8段階の摺り重ねを経て仕上がっています。色数・摺りの回数・版木の枚数はそれぞれ別の数字で、この3つが常に一致するわけではないことは覚えておいて損はありません。
見当合わせ——ずれを許さない目印
色版がそろっても、それぞれをぴったり同じ位置に重ねなければ絵にはなりません。そこで彫師は、色版それぞれの端に「見当」と呼ばれる小さな切り込みを彫り込んでおきます。摺師はこの見当に紙の角を当てて置くだけで、版が変わっても絵柄がずれない仕組みです。見当という一組の目印が版木に刻まれて初めて、次の摺りの工程に進めます。
多色摺り——薄い色から、面積の小さい色から
いよいよ摺師の出番です。摺る順番には江戸の経験則があり、色の薄いものから濃いものへ、面積の小さい部分から大きい部分へと重ねていくのが基本とされます。理由は単純で、先に濃い色や広い面を摺ってしまうと、あとから重ねる版で紙を汚してしまう危険があるからです。淡い水色を摺り、乾かし、次に薄紅を重ね、また乾かし——この繰り返しを色の数だけ、見当を頼りに寸分たがわず続けていきます。しかも摺りの回数は、色の数とそのまま一致するわけではありません。同じ色を二度重ねて深みを出したり、ぼかし専用の版を繰り返し使ったりするため、木版画の技法解説では「十数回から30回程度もの色を摺り重ねて完成させる」とされています。1色=1回とは限らない、というのが摺師の現場です。
ぼかしと空摺——最後に効かせる、摺師だけの技
色を順に重ね終えたあとも、摺師の仕事は終わりません。空や水面に見られるグラデーションは「ぼかし」と呼ばれます。版木全体に絵具を均一には乗せず、水を含ませた刷毛で片側だけ薄く、もう片側は濃く色を置くことで生まれる表現です。同じ版木、同じ絵具でも、この加減ひとつで空の表情はまるで違うものになります。正直、驚きます。さらに、絵具を一切使わずに紙へ模様を浮き立たせる「空摺(からずり)」という技もあります。版木に彫った凹凸に湿らせた紙を当て、馬連や象牙べらでぐっと押し込むことで、着物の地紋などを陰影だけで表す仕上げです。色を摺り終えた版木を最後にもう一度使う、いわば仕上げの一手にあたります。
色を重ねた分だけ、手数が積まれている
版下絵から主版彫り、校合摺、色さし、色版彫り、見当合わせ、多色摺り、そしてぼかしと空摺。1枚の錦絵が摺り上がるまでに、これだけの段階が順番に積み重なっています。北斎の波を眺めるとき、私はこの一連の流れを思い浮かべます。あの藍の濃淡ひとつをとっても、絵師が指定し、彫師が版を用意し、摺師が刷毛の加減で仕上げた、いくつもの手の結果だからです。仕上がった摺りが版元の手を経て店頭に並ぶところから先の話、つまりこの版木がその後どうなっていくのかは、次の記事で扱っています。
つづけて読む
- 版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み — 今回登場した四者が、それぞれ何者なのか
- 版木の寿命と摺り部数——初摺と後摺はこうして生まれる — 摺り上がったあと、版木と絵はどうなるのか