北斎、名前を30回変えた男
「計画的脱線」と題した回です。当サイトの本筋は絵師や作品の見方の話ですが、ここでは肩の力を抜いて、知れば知るほど妙な気分になる小ネタを掘ってみます。葛飾北斎の名前の話です。
葛飾北斎という名前、実はこの人が生涯使い続けた名前ではありません。判明しているだけで30ほどの号を渡り歩き、そのたびに画風もがらりと変えています。同一人物とは思えないほど作品の顔つきが変わる理由は、この改号の歴史を追うとかなり腑に落ちます。
勝川派の新人、春朗
北斎がまず名乗ったのは「春朗(しゅんろう)」。19歳で人気役者絵師・勝川春章の門下に入り、師の一字をもらって与えられた号です。役者絵や黄表紙の挿絵で腕を磨いた修業時代の名前で、後年の「画狂人」めいた強烈さはまだありません。生涯30回のうちの、いわば最初の一歩です。
ところが30代半ば、この春朗の看板を自ら手放します。勝川派を離れ、ライバル筋にあたる狩野派や琳派の画法まで学んでいたことが師系の外に漏れ、破門同然の形になったとも言われています。看板を失うピンチのはずが、北斎はここから独立独歩の道を選びました。
春朗時代の絵を見ると、勝川派らしい役者絵の型を踏まえながらも、初期にはやや硬い、こなれきっていない人物表現が目立ちます。それが20代なかばを過ぎるころには、勝川派の枠に収まらない構図の実験——西洋の透視図法を取り入れた「浮絵(うきえ)」や、武者絵、子どもの玩具絵まで手を広げていきます。師の型を守るだけの新人ではなく、外の技法を吸収しながら足場を固めていく修業期だったことが、絵の変化からも読み取れます。
「宗理」を名乗り、そして売る
掲げたのは「宗理(そうり)」。俵屋宗理という別系統の画号を一時的に引き継いだもので、この時代の北斎は美人画や狂歌絵本を中心に、優美で洗練された作風に転じます。勝川派の荒々しい役者絵とはまるで別人の筆致です。
「宗理美人」と呼ばれるこの時期の女性像は、瓜実顔をさらに引き伸ばしたような細長い輪郭に、切れ長で少し離れ気味の目、小さくつぼめた口元が特徴です。柳のようにしなる細身の体つきとあいまって、今にも消えてしまいそうな儚さをまとっています。同時代に美人画の頂点にいた歌麿の、ふくよかで色香の強い女性像とはあきらかに別の方向を向いていて、まだ無名だった北斎が、当代随一の絵師とは違う土俵で戦おうとしていた跡がここに見えます。
この宗理号、使い始めてわずか4年ほどで手放してしまいます。しかも理由がふるっています。門人の宗二という弟子に、名前そのものを譲り渡した(平たく言えば売った)のです。宗二はその後「宗理二世」を名乗って画業を続けました。江戸時代、名の売買や譲渡は珍しいことではありませんでしたが、北斎ほど身軽にこれをやってのけた絵師も少ないでしょう。号は看板であると同時に、いざとなれば現金化できる資産でもあった。北斎にとって改号は、単なる作風の切り替え宣言ではありませんでした。暮らしを支える手段のひとつでもあったわけです。
「北斎」誕生、そして戴斗
寛政10年(1798)前後、いよいよ「北斎」を名乗り始めます。ここで初めて、私たちの知る「北斎」がスタートするわけです。読本(よみほん)の挿絵で人気を博し、迫力ある構図と細密な描き込みで名を上げていきます。この時期に大量に手がけた挿絵仕事が、のちの北斎の画力の基礎体力になったとされています。
文化7年(1810)頃からは「戴斗(たいと)」を名乗り、絵手本、つまり誰でも真似て描ける教則本の制作に力を入れます。「北斎漫画」に代表される、森羅万象をスケッチし尽くすような仕事が本格化するのもこの時期です。役者絵の新人から、美人画の宗理、迫力の北斎、そして絵の教師としての戴斗へ——号が変わるたびに、北斎という絵師の守備範囲がまるごと広がっていくのが分かります。
「為一」の時代——冨嶽三十六景
文政年間(1820年頃)から名乗るのが「為一(いいつ)」です。北斎の全キャリアでもっとも脂の乗った時期にあたり、あの「冨嶽三十六景」が生まれたのもこの為一時代でした。役者絵の修業から始まった絵師が、還暦を過ぎてなお新しい号を掲げ、なお最高傑作を更新し続ける。改号のたびに画風を変えるという生き方が、キャリアの終盤になっても衰えていないのがこの人のすごさです。
為一期を象徴するのが、当時輸入されたばかりの化学顔料「ベロ藍(プロシアンブルー)」です。北斎はこの藍を空や海に使うだけでなく、それまで墨で摺っていた輪郭線までベロ藍に置き換えるよう摺師に指示しました。線の色を変えるという一見地味な判断が、画面全体の空気をがらりと明るくしています。宗理期の繊細な人物表現、北斎期に鍛えた迫力ある構図力、そこに為一期のベロ藍と大胆な遠近表現が重なって初めて、「神奈川沖浪裏」のような1枚が生まれた。改号のたびに積み上げてきた引き出しが、この時期に一気に開いたと考えると腑に落ちます。
90歳、画狂老人卍
晩年、天保5年(1834)頃からは「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」を名乗ります。「絵に狂った老人」を自称し、末尾に「卍」の一字。落款としてこれ以上ないインパクトのある名前です。すみだ北斎美術館などで実際にこの落款を見ると、字面だけで只者ではない気配が伝わってきます。
そして90歳、亡くなる直前まで北斎はこの号で絵筆を握り続けました。伝えられるところでは、臨終の際に「天があと十年、いや五年の命をくれたら、本当の絵描きになれたのに」という意味の言葉を漏らしたといいます。90年近く絵だけに生きた人間が、最後の最後まで自分をまだ道半ばだと思っていた——その執念こそが、名前を30回も変え続けた原動力だったのだろうと思います。
画狂老人卍期は、それまでの錦絵中心の仕事から肉筆画中心へと軸足が移った時代でもあります。題材も、江戸の当世風俗から、龍や虎といった空想の動物、和漢の故事や仏教的な主題へと広がっていきました。「雲龍図」で渦を巻きながらこちらへ迫ってくる龍、「富士越龍図」で富士山の上空へ一気に駆け上る龍——構図そのものが立体的にうねる表現は、平面の版画では出しきれなかった勢いです。錦絵の北斎がここまでの読者に開かれた絵師だったとすれば、画狂老人卍の肉筆画は、自分自身のためだけに描いているような凄みをたたえています。
おまけ・93回の引っ越し
住む場所もとにかく変えた人でした。生涯で引っ越しの回数は93回とも言われます。93回も引っ越すな、と思わず突っ込みたくなる数字です。理由は掃除嫌い。娘で絵師でもあった応為(おうい)と暮らしていましたが、二人とも絵に没頭するあまり家事は一切せず、部屋が汚れきると「もう我慢できない」と新居に移る、というのを繰り返したそうです。号は次々に手放すのに、汚れた部屋は片付けるより引っ越す方を選ぶ。このちぐはぐさも含めて、北斎という人の面白さだと思います。
「北斎」ではなく「為一」の署名
ここまで読んで意外に思う方もいるかもしれません。「冨嶽三十六景」は北斎の代表作として語られますが、実際に絵の中に入っている落款は「北斎改為一筆」や「前北斎為一筆」——つまり為一の名乗りです。「北斎」の2文字はそこにありません。私たちが「北斎の代表作」と呼んでいるものの多くは、厳密には為一という号の仕事なのです。
美術館で作品を見るとき、キャプションの「葛飾北斎」という表記だけで満足せず、絵の隅に小さく入った落款そのものに目をやってみてください。そこに何と書かれているかで、その絵がどの時代の、どういう心境の北斎の筆かがだいたい分かります。これは知っていると展示室でひとり楽しめる、ちょっとした裏技です。落款の見方は浮世絵展を見るうえでのポイントでも詳しく触れています。
春朗から画狂老人卍まで、北斎は名前を変えるたびに違う絵師に生まれ変わったようなものでした。次に美術館や画集で北斎作品を見るときは、ぜひ落款まで目を凝らしてみてください。