浮世絵に描かれた江戸の食
浮世絵は、食べ物を主役にすることがほとんどありません。美人画は女性を、役者絵は役者を、名所絵は風景を描くための画面で、団子や寿司はその隅にひっそり写り込むだけです。でも、その隅にこそ江戸の食卓があります。主役を見るのをいったんやめて、端に目をやる。それだけで浮世絵は別の顔を見せます。
絵の隅を見る、という読み方
茶屋の縁台に置かれた湯呑みと急須。屋台の看板に書かれた品書き。料理屋の座敷に並ぶ皿。浮世絵師たちは、これらを「今日の献立」として描いたわけではありません。あくまで人物や景観の背景として、無意識に描き込んでいるだけです。だからこそ、そこに嘘がありません。狙って美化される主役の顔立ちとは違って、脇に転がっている食器や食べ物は、絵師がその時代に見ていたものをそのまま写し取っている可能性が高い。名所絵や美人画を見るとき、中心の人物や富士山だけでなく、画面の端に何が置かれているかに目をやると、江戸の暮らしが不意に立ち上がってくることがあります。手がかりは5つ。茶屋、屋台、初鰹、魚河岸、料理屋の座敷です。
茶屋の縁台——江戸の外食の入口
江戸の町を歩けば、道端や寺社の門前のあちこちに水茶屋がありました。腰掛けと縁台を並べ、茶と菓子を出すだけの簡素な店です。そば屋や料理屋のように腹を満たす場所ではなく、一服して人に会う場所でした。今でいう喫茶店の原型のようなもの、と考えるとイメージしやすいと思います。
水茶屋の商売を支えたのが、店先に立つ看板娘でした。谷中・笠森稲荷の門前にあった水茶屋「鍵屋」の娘、お仙はその代表格です。鈴木春信をはじめとする絵師たちが競って美人画のモデルにし、明和年間(1764〜72)にはお仙目当ての客が押し寄せる一種のブームになったと伝わります。手ぬぐいや絵草紙といったお仙にまつわる品まで売られたというのですから、今のアイドルグッズの感覚に近いものがあったのでしょう。茶を運ぶ娘の器量が、そのまま店の売り上げを左右する。江戸の外食は、この看板娘という商売から始まっています。
ここを見てほしいのは、縁台の使い方です。武士と連れの娘が腰掛け、茶屋の女がその横に立って接客している。奥には石灯籠と紅殻格子の建具が見え、茶屋というより小さな社寺の境内の一角のような佇まいです。実際、水茶屋は寺社の門前に建つことが多く、参詣のついでに一服するための施設でした。清長は美人の全身像を描くことで知られた絵師ですが、この絵では茶屋という「場」そのものも丁寧に描き込んでいます。
こちらはお仙本人を描いた1枚です。私がこの絵で目を引かれるのは、お仙の顔ではなく手前の台に置かれた道具立てです。黄色い鉄瓶、蓋つきの茶壺、走り書きの貼り紙。これが当時の水茶屋の実際の設備で、今の喫茶店のカウンターに相当します。お仙が茶碗を盆に載せて運ぶ姿は美人画としての見せ場ですが、その足元にある鉄瓶と茶壺は、江戸の外食産業の最小単位を教えてくれる小道具です。
屋台の食べ物——寿司はもっと大きかった
茶屋が座って一服する場所だったのに対し、江戸の町にはもっと気軽な食べ物もありました。そば、寿司、天ぷらです。いずれも屋台で商われ、江戸っ子は道端で立ったまま食べていました。天ぷらは今のように座敷で食べる料理ではなく、串に刺した揚げたてを屋台の前で立ち食いする、いわば江戸のファストフードでした。そばも同様に、屋台の前でさっと食べてさっと去るのが江戸っ子の作法だったと言われます。
寿司も屋台の食べ物でした。ただし、今の寿司屋の握りとはサイズがまるで違います。江戸時代の握り寿司は、現在の握りのおよそ2〜3倍の大きさがあったとされます。大きすぎて一口で頬張るのが難しく、後に半分に切って出すようになったのが「2貫づけ」、つまり同じネタを2つ並べて出す今の慣習の始まりだと言われています。寿司の屋台そのものを描いた浮世絵は手もとに用意できませんでしたが、この大きさの違いは図で示せます。
初鰹——一匹に四両
屋台の日常食とは対照的に、江戸っ子が財布の紐を緩めた食べ物もありました。初鰹です。「初物七十五日」、つまり季節の最初の食べ物を口にすると寿命が75日延びるという俗信があり、江戸っ子はこの縁起を本気で追いかけました。その熱狂ぶりを伝えるのが「女房を質に入れても初鰹」という古川柳です。着物どころか女房を質に入れてでも食え、というのですから尋常な値段ではなかったことが分かります。
実際、記録に残る値では文政6年(1823)、初鰹1本に4両という値がついたことがあったとされます。当時、奉公人の年収がおよそ2両だったといいますから、魚一匹に奉公人の2年分の稼ぎが飛ぶという話です。もちろんこれは記録に残るほどの極端な高値で、誰もがこの値段で買っていたわけではありません。それでも、初物というだけでここまで値が跳ね上がる季節感の熱は、今の私たちの感覚からするとかなり異様に映ります。
魚河岸——日本橋の朝千両
その初鰹をはじめ、江戸の魚が集まったのが日本橋の魚河岸です。日本橋の北側一帯は「江戸の台所」と呼ばれ、朝だけで千両の商いが立つといわれるほどの賑わいでした。歌川広重の「名所江戸百景 日本橋雪晴」には、初荷を積んだ舟が魚河岸へ向かう早朝の情景が描かれています。橋の上を大名行列が渡る一方で、川面では魚を満載した舟がひしめき合う——このコントラストが、江戸という都市の日常と非日常が同居する様子をよく伝えています。この絵は当サイトの他の記事で既に取り上げているので、ここでは画像は載せませんが、日本橋という場所そのものが江戸の食を語るうえで欠かせない舞台であることは、あらためて触れておきたいと思います。
料理屋の座敷——八百善という頂点
屋台の立ち食いや茶屋の一服とは対極にあったのが、格式ある料理屋の座敷です。その頂点に位置づけられたのが浅草・山谷の八百善でした。元は青物(野菜)を商う店でしたが、近隣に寺社が多かったことから仕出しを手がけるようになり、やがて江戸屈指の料理屋として名を上げます。文化人の大田南畝(蜀山人)が四代目当主・栗山善四郎を評して「詩は五山、役者は杜若、傾はかの、芸者は小萬、料理八百善」と並べたという話が伝わるほど、当時の文化人たちの間で格別の存在として扱われていました。
八百善そのものを描いた浮世絵は見つけられなかったのですが、当時の料理屋の座敷がどんな場だったかを伝える1枚があります。歌川国貞が描いた、料理屋・万八楼の二階での書画会の様子です。
ここを見てほしいのは、手前に並ぶ膳の中身です。尾頭付きの魚を盛った皿、重箱に詰められた料理、朱塗りの椀。これは書画会という文化人の集まりを描いた絵ですが、集まりの中心にはいつも酒肴があったことが、この一枚からよく分かります。茶屋の縁台が茶と一服だけの場だったのに対し、料理屋の座敷は酒と肴を囲んで人が集う場でした。同じ「食」でも、場が変われば絵の意味合いもまるで違って見えてきます。
隅を見る目を、次の1枚にも
茶屋の縁台、屋台の寿司、初鰹の値段、魚河岸の賑わい、料理屋の膳。どれも浮世絵の中では脇役の存在です。でもその脇役を追いかけていくと、江戸の食卓が少しずつ輪郭を持ち始めます。この読み方は、食に限った話ではありません。江戸の暮らしが浮世絵という娯楽メディアの中でどう育っていったかは、なぜ浮世絵は流行ったのかの記事でも扱っています。次にどんな浮世絵を見るときも、主役の脇に何が置かれているか、少しだけ目を凝らしてみてください。
つづけて読む
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