歌川広重は、天気と時刻を描いた人です
広重といえば東海道五十三次、旅の絵師というイメージが強いと思います。けれど代表作を何十枚と並べて見ていくと、最初に目に飛び込んでくるのは道のりではありません。雨、雪、霧、夕暮れ、夜——広重が生涯かけて追いかけたのは、その場所が「いつ、どんな空の下にあったか」でした。
名所を描いたのではなく、天気を描いた
歌川広重は寛政9年(1797)、江戸生まれ。定火消同心という、火事を見張る下級武士の家に生まれています。13歳で父を亡くし、その役目をそのまま継ぎました。絵師としての活動は文化8年(1811)、歌川豊広に入門したところから始まります。しばらくは武家の勤めと絵筆を両立させ、27歳でようやく家督を譲って専業の絵師になりました。
天保3年(1832)、幕府が朝廷に馬を献上する行列に加わり、東海道を江戸から京都まで歩く機会を得ます。この旅の記憶をもとに翌年から売り出されたのが「東海道五拾三次之内」(保永堂版)。空前の大ヒットとなり、浮世絵史上もっとも売れたシリーズとも言われます。これで広重は、名所絵の第一人者としての地位を固めました。
ここまではよく語られる話です。ただ「名所絵の絵師」という説明だけでは、正直足りない気がしています。同じ橋、同じ宿場を、北斎はたいてい晴れた日中の光の下で描きました。広重の絵の多くには、それに加えてもう一つの指定が入ります。夕立、大雪、朝霧、月夜。場所を選ぶのと同じ熱心さで、広重は「その瞬間の空」を選んでいる。旅の記録というより、気象と時刻の記録に近いのです。
東海道の成功のあと、広重は江戸の外へも筆を伸ばしています。天保6年(1835)頃に始まった「木曽街道六十九次」は、もとは渓斎英泉が起こしたシリーズでした。英泉が24図を手がけたところで版元の都合により降板し、残る47図を広重が引き継いで天保9年(1838)に完成させています。近江の名所を描いた「近江八景」も、広重が繰り返し手がけた画題です。宿場や名所を数珠つなぎに描くという仕事のやり方は、江戸に戻ってからも変わりません。変わったのは対象の絞り方です。街道という線から、江戸という一つの町の四季と昼夜へ。晩年に近づくほど、広重の視線は狭く、そして深くなっていきます。
代表作を実際に見る
ここからは実物で見ていきます。4点、すべて最晩年の代表作「名所江戸百景」からです。わざと季節も時刻もばらばらに選びました。雪の降る真冬の空、夜更けの芝居町、日暮れどきの座敷、雪あがりの朝。並べてみると、同じ絵師が描いたとは思えないほど空気が違います。
ここで見てほしいのは、鷲と地上の縮尺差です。嘴の先が画面の外に切れそうなほど近くに置かれているのに、下では小さな桶が波間に浮かんでいるだけ。「十万坪」は雪の日の潮干狩りや初日の出の名所として知られた深川の埋立地でした。広重はこの土地を地上から歩いて描く代わりに、鷲の目で見下ろすことを選んでいます。静かに降り続く雪と、獲物めがけて一直線に落ちる鷲。動と静が同じ画面に同居する一枚です。
この絵の主役は月でも人でもなく、影の長さだと私は思っています。芝居茶屋の灯りが地面に落とす暖色の影、そこに重なる満月の青白い光。時刻がどれくらい更けているかを、広重は影の角度と濃さだけで語らせています。描かれた人物は誰もこちらを向いていません。背を丸め、家路を急ぐ後ろ姿ばかりです。
手前の畳に散らばる煙草盆と器が、この座敷に確かに人がいたことを教えてくれます。けれど姿は描かれていません。見えているのは、その人が眺めていたはずの海と月だけです。紫から藍、白へと沈んでいく空のぼかしは、日が落ちて間もない時刻を示しています。広重は人物を描かず、人物の視線だけを画面に残しました。
雪をかぶって静まりかえる遠景と、初荷の魚を求めて動き回る近景の魚河岸。ひとつの画面に、静かな朝と忙しない朝が同居しています。日本橋の中ほどには大名行列らしき一団も小さく見えます。江戸でいちばんの中心地に、雪晴れという限られた気象条件を重ねてはじめて成立する一枚です。
広重の見分け方
ここまでの4点だけでも、広重らしさのパターンが見えてきます。他の絵師の名所絵と並べたときに、具体的にどこで見分けるかという話です。4つとも、意識して探すと初めて見えてくる癖ですが、一度気づいてしまうと、以後どの広重を見てもすぐわかるようになります。
近景を巨大化させ、遠景を切り詰める
「深川洲崎十万坪」の鷲がそうだったように、広重は画面の手前にとにかく大きなものを置きます。木の幹、橋の欄干、鳥の翼。近景がどーんと画面を占領し、遠景はその隙間にわずかに残るだけ。写真のレンズを知っている現代人の目にも、かなり攻めた構図に映ります。俯瞰、鳥瞰、極端な寄り。当時の絵師の多くが横位置で風景を素直に写す中、広重は縦の大判をわざと選び、この落差を作るための画面として使い倒しました。
天から地への一文字ぼかし
広重の空でよく使われるのが「一文字ぼかし」です。版木の何も彫っていない面を湿らせた布巾で拭き、藍を一文字に置いて、水と混ざったところをそのまま摺り取ります。空の上端だけを濃く残し、下へすっと抜いていく。「月の岬」の紫から藍、白へと沈む空も、この技法の応用です。版木にはどこまで色を及ぼすか大まかな指示しか彫られていないので、実際に何段の階調で見せるかは摺師の手の中にあります。早い摺りほど段階が細かく残り、後摺になるほど段が省かれて単調になりがちです。
雨は面ではなく、線で彫る
広重の雨は、版木に一本ずつ線として彫られています。灰色の面でざっと塗って済ませる描き方はしません。代表例が「大はしあたけの夕立」で、髪の毛ほどの細さの斜線が画面の端から端まで走ります。彫師の腕の見せ場であると同時に、線の細さが摺りの早さを測る手がかりにもなります。
人物は小さく、後ろを向く
「猿わか町よるの景」の帰り道の人々のように、広重の絵の人物はたいてい小さく、背中を向けています。主役は風景と光で、人はそこに暮らす気配として置かれているだけ。北斎の人物がしばしば表情や仕草で画面を引っぱるのとは対照的です。顔が見えない分、見る側は人物に感情移入する代わりに、その人が今立っている場所の寒さや湿り気のほうに意識を向けることになります。
「名所江戸百景」——最晩年の119図
広重が「名所江戸百景」に着手したのは安政3年(1856)2月。前年の安政2年(1855)、江戸は直下型の大地震に見舞われていました。倒壊した町を建て直しつつあった江戸に、広重は季節ごとの名所を次々と重ねていきます。復興の途上にある町へ向けた、世直しの願いも込められていたと言われます。「百景」という数字を掲げていながら、実際に描かれた図数はそれを追い越して119まで伸びました。木場の材木置き場から吉原の夜桜まで、江戸のありとあらゆる季節と時間帯を拾い集めるうち、当初の目算では収まらなくなったのでしょう。
皮肉なことに、シリーズが完結する前に江戸を襲ったのはコレラでした。安政5年(1858)、長崎に始まった流行が東海道筋を経て7月に江戸に達し、8月には大流行。江戸だけで数万人が命を落としたと伝わります。広重自身もこの流行病にかかり、同年9月、61歳で没しました。存命中に仕上げたのは118図。残る1図は弟子の二代広重が補い、目録1図を合わせて全120点の揃いとして世に出ています。天災と疫病に挟まれた3年足らずのあいだに、広重は自分が生涯かけて磨いてきた「天気と時刻を描く」という仕事を、江戸という一つの町にすべて注ぎ込んだことになります。
119図という数の多さは、いま探す側にとってそのまま追い風になります。1図あたりの現存数が多いうえに、図数そのものも多い。市場に出てくる母数が桁違いに大きいので、探せば出会える確率が現実的な水準にあるということです。北斎の代表作を1図だけ狙うのとは、探索の難易度がまるで違います。この続きはいつか江戸百景を——後摺という現実的な選択肢にまとめました。
手に入るのか
広重は北斎ほど極端な高値の世界ではありません。とはいえ「名所江戸百景」の状態のいい初摺は、やはり相応の値がつきます。現実的な入口になるのは後摺です。当時ベストセラーだったこのシリーズは、明治期に入っても摺り続けられました。色数やぼかしが簡略化された後摺なら、個人の予算でも探せる範囲に入ってきます。金額をここで約束することはしません。摺りの時期による違いと、値段の理由は同じ絵なのに値段が違う理由、実際にどう選ぶかはいつか江戸百景をに書きました。東海道五十三次や木曽街道六十九次も市場によく出ますが、こちらは版によって図柄そのものが差し替えられていることがあるので、江戸百景以上に版元・改印の見極めが要る領域です。
どこで見られるか
広重の名所江戸百景は、シカゴ美術館やメトロポリタン美術館をはじめ海外の美術館に厚く所蔵され、多くがオープンアクセスで高解像度画像を無料公開しています。この記事に載せた4点も、すべてシカゴ美術館の公開データです。国内では太田記念美術館(東京・原宿)が浮世絵専門館として広重を頻繁に展示するほか、各地の美術館の企画展でもたびたび取り上げられる絵師です。実際に見に行く方法は浮世絵を所蔵する美術館、自宅から画像を見る方法はオンラインで見るにまとめてあります。119図もあるシリーズなので、一度に全部を追おうとせず、季節ごとに少しずつ眺めていくくらいがちょうどいいと思います。
個人的にいちばん好きなのは、この記事の冒頭に挙げた「王子装束ゑの木大晦日の狐火」です。狐火という、本来は目に見えないはずのものを、暗い画面いっぱいの静けさで描き切っている。稲荷の使いである狐たちが正装に着替え、王子稲荷へ詣でるという言い伝えを、農民たちはその年の豊凶を占う目印として本気で見上げていました。旅先の名所ではなく、大晦日の夜という一瞬だけを切り取った一枚です。広重が最後に見せたかったのは、結局「場所」よりも「その時の空気」だったのだと、この絵を見るたびに思わされます。
つづけて読む
- いつか江戸百景を——後摺という現実的な選択肢 — 119図から自分の一枚をどう選ぶか
- 版木の寿命と摺り部数 — 一文字ぼかしと雨線が、摺りを重ねるごとにどう痩せていくか