歌川国芳——思いついたことは、全部やってみた人

武者絵で当て、猫を何十匹も飼い、大勢の人間の群れで一人の顔を描き、幕府の改革すら判じ絵でからかう。国芳という絵師を一言で言うなら、頭に浮かんだことをとりあえず全部やってみた人です。

歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人一個 花和尚魯智深」。全身に刺青を彫った巨躯の豪傑が、画面いっぱいに大木を引き抜こうとしている構図
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人一個 花和尚魯智深」文政10〜13年(1827〜30)頃。全身の刺青、画面の外まで続きそうな巨体、引き抜かれる大木——一枚の紙に収まりきらない勢いが国芳の持ち味です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「なんでも屋」ではなく、「引き出しが多い人」

国芳は寛政9年(1798年)、江戸日本橋本銀町の紺屋(染物屋)の息子として生まれました。15歳で初代歌川豊国に入門しますが、しばらくは目立った仕事に恵まれない下積み時代が続いたと伝わります。転機になったのが文政10年(1827)頃から売り出した「通俗水滸伝豪傑百八人一個」、中国の英雄譚『水滸伝』の豪傑たちを全身刺青の大首絵で描いたシリーズです。これが江戸っ子の間で刺青ブームを巻き起こすほど当たり、国芳は一気に人気絵師の仲間入りを果たしました。

下積み時代の国芳は、同じ豊国門下で早くに売れっ子になった国貞(のちの三代豊国)の陰に隠れ、なかなか目が出なかったと伝わります。その鬱屈を一気に晴らしたのが「通俗水滸伝豪傑百八人一個」で、以後の国芳は当たった型に安住しません。武者絵で名を上げたあとも、風景画、役者絵、美人画、そして愛猫を主役にした戯画、複数の人間を寄せ集めて一つの顔に見せる「寄せ絵」、骸骨の妖怪が大画面を覆う「相馬の古内裏」のような怪奇趣味、西洋の陰影表現を取り込んだ名所絵と、手を広げ続けます。器用貧乏という言葉がありますが、国芳の場合はどのジャンルでもきちんと当てているので、単に引き出しの数が多いだけの人だったのだと思います。

見分け方——画面をはみ出す主役、渦を巻く水

国芳の武者絵を見分けるコツは、まず主役の大きさです。上の花和尚魯智深のように、体の一部が画面の枠や隣の版木にまで食い込みそうな構図が繰り返し出てきます。これは単なる誇張ではなく、大判3枚を横につなげた「三枚続」を、3枚のセットではなく1枚の巨大なキャンバスとして使い切る発想から来ています。同時代の多くの絵師が、3枚続でも1枚ごとに人物や場面を割り振って「3コマ漫画」のように見せていたのに対し、国芳は継ぎ目をまたいで一つの巨体や一つの大波を配置し、3枚並べて初めて絵が完成するように仕組みます。だから国芳の三枚続は、真ん中の1枚だけを切り離して額に入れると、絵の迫力が半分以下になってしまうことが少なくありません。

三枚続、2つの使い方 よくある構成——3枚それぞれに1場面 1枚目で完結 2枚目で完結 3枚目で完結 国芳の構成——3枚をまたいで1つの大画面
三枚続の使い方を単純化した模式図です。上段のように各紙に独立した場面を割り当てる描き方に対し、国芳は下段のように波や人物を版木の継ぎ目を越えて連続させ、3枚をつないだ瞬間に絵が完成する構図を好んで使いました。

もう一つの目印が水と炎の描き方です。下の「長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家一門悉く亡びる図」を見ると、荒れる海がぐるぐると渦を巻き、波頭が牙のように立ち上がっています。実際の海はここまで規則的に渦を巻きませんが、国芳はあえて水を生き物のように図案化することで、画面全体に一つの大きな動きを作っています。脇役の顔つきにも注目してください。中央の主役だけでなく、隅で溺れる兵や船端にしがみつく従者まで、一人ひとり違う表情で演技をつけているのが分かります。

歌川国芳「長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家一門悉く亡びる図」。三枚続の画面いっぱいに渦を巻く荒波と、安徳天皇を抱いて入水しようとする二位の尼を乗せた御座船が描かれている
歌川国芳「長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家一門悉く亡びる図」弘化2年(1845)頃。壇ノ浦の戦いを描いた大判三枚続。中央の御座船を取り囲む波の渦、右下で泳ぐ兵、左端で八艘飛びを見せる源義経まで、画面のすみずみまで芝居がついています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

西洋画法まで取り込んだ目

国芳は蘭画(オランダ経由で伝わった西洋画)にも強い関心を持ち、名所絵のシリーズ「東都名所」では、遠近法や陰影の表現を浮世絵の中に取り込んでいます。下の「東都名所 洲崎初日の出図」がその好例です。堤の上で初日の出を拝む二人の背後、水平線から立ち上る朝日の光が、まっすぐな線を何本も放射状に伸ばして描かれています。これは日本の伝統的な絵にはなかった、光そのものを幾何学的な線で表す西洋由来の発想です。北斎や広重が波や富士山という「もの」で勝負したのに対し、国芳は光や空気という「もの」にならない現象まで絵にしようとしていた、と言うとやや言い過ぎでしょうか。それでもこの1枚を見るたび、江戸の絵師が異国の技法をどん欲に飲み込んでいく様子には、単純に感心してしまいます。

歌川国芳「東都名所 洲崎初日の出図」。堤の上に立つ二人の女性の背後、水平線から昇る朝日の光が放射状の直線で描かれている
歌川国芳「東都名所 洲崎初日の出図」天保期(1830〜44)頃。堤防の下に集まった大勢の初日の出見物客と、放射状に描かれた朝日の光。富士山も水平線にごく小さく配されています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

寄せ絵と判じ絵——機転で笑わせ、機転でかわす

国芳の遊び心が一番はっきり出ているのが「寄せ絵」です。代表作「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」は、体をひねった人間十数人を寄せ集めると、遠目には一人のいかつい男の顔に見えるという仕掛けの1枚。よく見ると眉も鼻も口も、全部が人のかたまりでできています。添え書きには「大ぜいの人がよつてたかつてとふといゝ人をこしらへた」とあり、人は寄り集まって初めていい人になれる、という洒落のきいたオチまでついています。妖怪や幽霊も国芳の得意分野で、下の「武勇見立十二支」のように、干支の動物を武者に見立てるシリーズの中に、亡霊のような幻影をこっそり忍び込ませることもありました。

歌川国芳「武勇見立十二支 巳 仁田四郎」。松明を掲げる武者の背後に、蛇を連ねた体を持つ女の亡霊が薄く浮かび上がっている
歌川国芳「武勇見立十二支 巳」仁田四郎 天保11年(1840)頃。干支の「巳」を、大蛇を退治した武者・仁田四郎に見立てたシリーズの1枚。背後にうっすら浮かぶ女の亡霊が、単なる干支見立てを一枚の怪談に変えています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

天保14年(1843)、老中・水野忠邦が進めた天保の改革で、贅沢な役者絵や美人画が禁じられると、国芳は「源頼光公館土蜘作妖怪図」という1枚を出します。表向きは平安時代の武将・源頼光が土蜘蛛の妖怪に襲われるという古典の題材ですが、四天王の一人がまとう紋が水野忠邦の家紋に似せてあり、奥で眠りこける頼光が実は当時の将軍を暗示している、と江戸中で噂になりました。妖怪の群れは改革に苦しむ庶民の不満そのものだ、という読み方まで広まったといいます。版木は没収され国芳もお咎めを受けましたが、直接名指しで批判すれば即アウトという状況の中で、古典のかたちを借りて言いたいことを言い切ったその機転は見事というほかありません。晩年には猫を東海道五十三次の宿場に見立てて地口(語呂合わせ)で遊ぶ「猫飼好五十三疋」まで手がけていて、規制をくぐり抜ける工夫が、そのまま作品の面白さになっている絵師です。この時代の絵師たちの奇想ぶりは奇想・ゲテモノ特集でもまとめてありますので、あわせてどうぞ。

猫だらけの絵師

国芳は大の愛猫家としても知られています。工房には常に5、6匹の猫がおり、絵筆を握っているときでさえ懐に子猫を1、2匹入れて、話しかけながら描いていたと伝わります。飼い猫が死ぬと仏壇まで用意して弔い、あるとき弟子の一人に猫の亡骸の供養を頼んだところ、供養せずに川へ捨てて金を遊びに使ってしまったことが発覚し、激怒して破門にしたという逸話まで残っています。この愛猫ぶりは作品にもそのまま表れていて、東海道五十三次の宿場名を猫の仕草の語呂合わせに置き換えた「其のまま地口猫飼好五十三疋」では、55匹もの猫が擬人化されて登場します。武者絵や妖怪絵の隅にふと猫が描き込まれていることも多く、大画面の迫力に見とれたあと、画面の隅にもう一度目を配ってみると、思わぬところに丸くなった猫を見つけられるかもしれません。

手に入るのか

国芳は生涯にわたって大量の版画を手がけた売れっ子で、武者絵や役者絵は現存数も比較的多いジャンルです。人気シリーズの初摺の優品はそれなりの価格になりますが、後摺や状態違いまで視野に入れれば、個人が現実的に検討できる価格帯の作品も見つかります。相場の考え方や、状態・摺りの見分け方は値段の考え方手が届く価格帯の話にまとめてありますので、興味を持った方はあわせてご覧ください。

どこで見られるか

国芳の作品は国内外の主要な美術館がまとまった数を所蔵しており、シカゴ美術館やメトロポリタン美術館はオンラインで高精細画像を無料公開しています。実物を見に行きたい場合の所蔵館の探し方は所蔵の厚い美術館を、自宅から高精細画像を眺めたい場合はデジタルで見る方法を参考にしてください。

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