マイナー絵師再発見 第3回 五雲亭貞秀——空から描いた人は、富士に登っていた

飛行機も気球もない時代に、空から見下ろした絵を何十枚も描いた人がいます。飛べないので、代わりに登りました。

誰も持てなかった角度

五雲亭貞秀の大判三枚続。斜め上から見下ろした遊郭。桜の淡紅、黄色い屋根の妓楼が斜めに列をなし、朱塗りの反り橋に人が群がる。左手には土手道が奥へ延び、緑の田と青い水路。上方は帆柱の並ぶ海で、水平線に紅の帯、その上に濃い藍の空
五雲亭貞秀「神名川横濱華郭之光景」万延元年(1860)。大判三枚続。開港場に作られた遊郭を、空中から見下ろしています。題箋の表記は「神奈川」ではなく「神名川」です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

万延元年(1860)、横浜が開港した翌年の絵です。

問題は角度です。この年、この高さから横浜を見た人間は一人もいません。灯台も高層建築もなく、気球が日本の空に上がるのはずっと後のことです。それなのに、屋根の並びも、道の曲がりも、水路の分かれ方も、上から見た形で描かれている。

拡大すると、一人ずつ描いてあります

前図の橋の部分を拡大したところ。朱塗りの反り橋を数十人が渡っており、一人ずつ着物の色と持ち物が描き分けられている。荷を担ぐ者、笠をかぶる者、赤い着物の女。橋の下は青い水路で、岸は六角形の石積み
橋のあたりの拡大。渡っている人が一人ずつ描き分けられています。原寸では、一人が数ミリしかありません。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

ここが貞秀の異様なところです。俯瞰にすれば人は豆粒になり、普通なら記号で済ませます。ところがこの絵では、橋を渡る数十人が、着物の色も、荷物の有無も、体の向きも別々に描いてある。石垣の六角形の積み方まで一つずつ彫ってある。

遠くから見ると町の形が分かり、近づくと一人ずつの生活が見える。この二重の作りが、貞秀の絵をいつまでも見ていられるものにしています。

もっと引いた一枚

極端に横長の多色摺。横浜の町全体を高いところから見下ろす。手前に屋根の連なる町並みと運河と橋、中景に田と松並木、奥に埋立地と海。町の建物には小さな赤い名札が無数に付いている
五雲亭貞秀「再改横濱風景」。題箋には「再改横濱風景」とあり、シカゴ美術館は Saikai Yokohama fukei と読んでいます。同館の記録は制作年を「1861 and 1873」としています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

同じ横浜を、さらに高いところから見た一枚です。大判を横につないだ長大な画面に、町の全部が入っている。屋根の格子、運河、橋、田んぼ、埋立地、そして海。建物の一つひとつには小さな赤い名札が付いていて、これは店の名前です。

題の「再改」は、改めたものをさらに改めた、という意味でしょう。所蔵館が制作年を「1861 and 1873」と二つ並べているのは、版を作り直して出し直したからだと思われます。開港場は年ごとに姿を変えました。地図が古くなれば直す。この絵は、鑑賞物であると同時に情報でもあったわけです。

どうやって描いたのか——富士に登っています

ここが調べていていちばん面白かったところです。

神奈川県立歴史博物館が開いた座談会で、横田洋一ら研究者が述べているところによると、貞秀は嘉永の初めから嘉永7年(1854)ごろまでのあいだに、五、六回続けて富士山へ登っています。そして頂上から見た眺めが、その後の鳥瞰図に決定的な影響を与えた、と。

さらに驚くのはその先です。貞秀の『箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図』の視点を国土地理院のデータと照合したところ、伊豆韮山の上空およそ500メートルから見た角度とほぼ一致したというのです。座談会では、貞秀はそこに「飛んでいた」ことになる、とまで言われています。代表作の『富士山真景全図』についても、計算では上空600〜700メートルほどからの視点として構成されているとされますが、こちらは国土地理院データによる検証ではなく、目算にとどまるようです。

飛べないので、登った。登って得た高さの感覚を元に、そこからさらに高い場所を頭の中で組み立てた。同じ座談会で横田は、貞秀は国芳の系統ほど海外の資料を手に入れられなかったので、自分なりに工夫して努力したのだ、という趣旨のことを言っています。手持ちが少ない側の人が、足で埋めた話です。

横浜へは、行っています

五雲亭貞秀の七十年 1807 下総に生まれる 1826 十四歳で初筆 1848頃 富士山に登り始める 1859 横浜が開港 1867 パリ万博へ出品 1878頃 没年は確定していない
生年は文化4年、没年は明治11年とも12年とも言われます。横浜が開港したとき、貞秀は五十二歳でした。

横浜絵は百点余りを描いています。点数だけなら歌川芳虎や歌川芳員のほうが多く、貞秀は三番手あたり。それでも横浜浮世絵の第一人者とされるのは、描き方が違うからです。

国芳門下の「芳」の字を持つ絵師たちの多くは、外国の新聞などの資料を見て描きました。貞秀は現地を見ています。木下直之は、貞秀自身が書いた『横浜開港見聞誌』に、自分が見たことと違う、といった実体験に基づく言い回しがあることを指摘していて、来訪は確実だと述べています。ただし、そこに住んでいたという証拠は無い。移住したとする記述もあって、ここは割れています。

横浜絵そのものの話は明治の浮世絵 第3回に書きました。あちらが「外国人を描くという新商売」の話だとすれば、こちらは「その商売を、地面に立って見た人がいた」という話になります。

「空飛ぶ絵師」は、現代のあだ名です

貞秀は「空飛ぶ絵師」と呼ばれます。この呼び名の出どころははっきりしていて、1997年に神奈川県立歴史博物館が開いた「横浜浮世絵と空とぶ絵師 五雲亭貞秀」という展覧会です。貞秀を単独で主役にした、最初の本格的な回顧展でした。

2010年から翌年にかけては、神戸市立博物館が「ワイドビューの幕末絵師 貞秀」として約130点を並べています。この展示では、大正期に鳥瞰図を量産した吉田初三郎の作品も併せて出されました。江戸の俯瞰図と大正の鳥瞰図を、館が同じ列に置いたわけです。

ただし、生きているあいだにそう呼ばれていた記録は見つけられませんでした。「空飛ぶ絵師」は、百二十年後につけられた名前です。

いくらで買えるか

海外の落札集計を見ると、安いものは20ドルから100ドル、横浜絵で1,000ドルから2,000ドル、大判をつないだ連作もので1,500ドルから3,000ドルという幅が示されています。米国の浮世絵専門画廊の販売価格は680ドルから9,800ドル。国内の専門店では、三万五千円から十八万円ほどの値が付いていました。

連作の鳥瞰図は高い。何枚もそろって残っていること自体が稀だからです。逆に横浜絵の一枚ものなら、手を出しやすい浮世絵の範囲に入ってきます。

没年は明治11年(1878)とも明治12年(1879)とも言われ、辞典類も疑問符を付けています。横浜に移り住んだかどうかも出典によって見解が割れており、この記事では「来訪は確実、定住は不明」という側に寄せました。富士登山の回数と、『箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図』『富士山真景全図』それぞれの視点検証は、神奈川県立歴史博物館の座談会での研究者の発言によるもので、その典拠となる一次資料の原文までは確認できていません。パリ万博への出品も、慶応3年(1867)とする記述と慶応2年とする記述があります。上の金額は海外の落札集計・画廊の販売価格・国内専門店の売価を並べたもので、性質の違う数字なので相場とは呼べません。
貞秀には『東海道写真五十三次勝景』という仕事があります。万延元年(1860)に出た全4巻で、つなげると三十メートルを超えるという。日本橋から京都まで、道中の全部を一本の帯にしてしまったわけです。三十メートルを畳の上に広げられた人が、当時どれだけいたのかは分かりません。

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