マイナー絵師再発見 第2回 楊洲周延——彰義隊で戦った男が、大奥を描いた

上野で戦い、箱館まで逃げ、捕まって禁錮五十日。その九年後、この人は勝った側の祝いの席を描いています。

勝った側の宴を、負けた側が描く

楊洲周延「勲功之誉 賜天盃之図」。中央の紙に束帯姿の明治天皇が椅子に座り、その前で金モールの軍服を着た将官が盃を捧げ持って一礼している。左右の紙にも軍服の将官が居並び、一人ずつ名前を記した札が付く。画面の下に小さくローマ字が刷られている
楊洲周延「勲功之誉 賜天盃之図」明治10年(1877)9月、大判三枚続。名札に大久保利通、山県有朋、川路利良、黒田清隆、谷干城といった名前が並びます。画面の下には "LE MIKADO" や将官の名のローマ字が小さく刷り込まれています。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

西南戦争が終わった明治10年(1877)、その軍功者に天皇が盃を賜る場面です。中央で椅子に座るのが明治天皇。前に進み出た将官が両手で盃を捧げ、左右には勲章を胸に付けた男たちが居並んでいます。名札を追っていくと、大久保利通、山県有朋、川路利良、黒田清隆、谷干城。明治政府の中枢が一枚に揃っています。

この絵を描いたのは、九年前まで彼らと撃ち合っていた男です。

高田藩の江戸詰から、箱館まで

楊洲周延、本名は橋本直義。天保9年(1838)、越後高田藩の江戸詰の下級藩士の家に長男として生まれました。絵は嘉永5年(1852)に歌川国芳に入門し(その前に渓斎英泉についたとも伝わります)、文久元年(1861)に三代豊国、元治元年(1864)には豊原国周へと師を移しています。第1回で取り上げた国周は、周延にとって最後の師にあたります。

絵師としての道が固まりかけたところで、幕府が倒れました。慶応4年(1868)5月、周延は高田藩士による神木隊として上野彰義隊に加わります。上野が一日で崩れると、品川沖から旧幕府の艦隊で北へ逃れ、榎本武揚の下で箱館まで戦い続けました。捕らえられて東京へ送られたのが明治2年(1869)8月。高田で兵部省から禁錮五十日、藩からは家禄の減封を受けています。

絵師になりかけたところで、戦争が来た 天保9年 生まれる 嘉永5年 国芳に入門 慶応4〜明治2年 上野・箱館、禁錮50日 明治10年 賜天盃之図 明治16〜19年 美人画で評価が定まる 明治27〜29年 千代田の大奥 大正元年 没 刀を置いてから、絵で身を立てるまでに十年近くかかっている
周延の経歴を並べたものです。国芳に入門したのが十五歳前後、戦争に出たのが三十歳。絵師として世に出るのは、そのあとになります。

刀を置いて筆に戻り、絵師として名が通るのは明治十年代の半ば、四十代後半になってからです。明治16年から19年(1883〜86)にかけて大きな揃物を続けて出し、このあたりで「美人画の周延」という評価が定まりました。

大奥は、江戸時代には描けませんでした

楊洲周延「千代田の大奥 かるた」。何も描かれていない生成りの地の上に、豪華な打掛をまとった女性が三人と、眼鏡をかけた年配の女性が一人。畳も壁も描かれず、床に歌がるたの札だけが並ぶ
楊洲周延「千代田の大奥 かるた」明治27〜29年(1894〜96)。部屋が描かれていません。畳も襖も柱もなく、紙の地の上に着物とかるたの札だけが置かれています。右上の題箋の「の」にあたる字は、資料によって「乃」「之」と読み方が分かれます。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

周延の代表作「千代田の大奥」は、明治27年から29年(1894〜96)にかけて版元・福田初次郎から出ました。三枚続が三十九組と五枚続が一組、あわせて四十図。江戸城大奥の年中行事や女中たちの暮らしを一図ずつ描いています。

ここで押さえておきたいのは、この主題が江戸時代には描けなかったということです。将軍家の奥向きは出版統制の対象で、絵にすること自体が許されていませんでした。武者絵の第3回で書いた「天正以降の武家は実名で描けない」という規制と地続きの話です。大奥が本格的に絵になったのは明治に入ってから——つまり、描く対象がもう存在しなくなってからでした。

絵として面白いのは、部屋を描かないことです。上の一枚を見てください。畳の縁も、襖も、柱もない。生成りの紙の上に、打掛の女性が三人と、眼鏡をかけて札を読む年配の女性が一人、そして床のかるただけが置かれています。背景を全部落として、着物の柄と裾の流れだけを残す。失われた場所を描くのに、場所そのものを描かないという選択です。

周延が大奥を見たわけではありません。聞き取りや伝聞をもとに描き起こしたもので、そのあたりは明治の浮世絵史にも書きました。だからこそ、確かめようのない部屋を描かずに済ませたのかもしれない、と考えると腑に落ちます。

洋服も、ローマ字も

楊洲周延「東風俗 福つくし」の一図。洋装の女性二人と少女が桜の下のベランダに立ち、白い洋犬を連れている。床は赤い花柄の絨毯、卓にティーポットとカップ。題箋にはローマ字も添えられている
楊洲周延「東風俗 福つくし」より。明治20年代。洋装の女性二人と少女、洋犬、花柄の絨毯、紅茶の道具。右上の題箋には漢字と仮名に加えて "YOU Huku" というローマ字が添えられています。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

同じ絵師が、こちらでは洋装を描いています。バッスルでふくらんだスカート、帽子の羽根飾り、革のブーツ、白い洋犬、そして花柄の絨毯。ここには畳も襖もありませんが、それは背景を省いたからではなく、本当に無いからです。

目を引くのは、題箋に添えられたローマ字です。"YOU Huku"。洋服のつもりの綴りで、今の書き方とは違います。冒頭に挙げた「賜天盃之図」にも "LE MIKADO" とフランス語が刷り込まれていました。外国語を絵の中に入れるのが新しかった時期の、少し危なっかしい手つきが残っています。

町田市立国際版画美術館が2023年の展覧会で周延を「明治を描き尽くした浮世絵師」と呼びました。大奥も、洋装も、戦争絵も、源氏物語も描いている。器用貧乏に見えなくもありませんが、明治という時代のほうが一つの様式に収まっていなかった、と言うほうが近い気がします。

いくらで買えるか

周延は今も市場によく出てきます。公開されている販売価格を並べると、「千代田の大奥 御遊山」の三枚続が35,000円、「時代かがみ」の一枚が18,000円、「城山岩崎谷 賊魁討死之図」の三枚続が15,000円。国内のネットオークションの落札履歴を集計したページでは、平均が16,000円ほどという数字が出ています。

一方で「加藤清正虎狩之図」の三枚続が280,000円という掲示もあり、図柄と状態で開きは大きい。三枚続がばらばらに売られていることもあるので、揃いかどうかは必ず確かめてください。明治ものが狙いやすい理由と、買うときに見るところは手を出しやすい浮世絵にまとめました。

上の金額は、浮世絵専門店の販売ページとネットオークションの落札履歴の集計から拾ったものです。販売価格と落札額は別の数字で、同じ列に並べて相場とは呼べません。状態や摺りの時期も、写真からは判定できません。
周延は明治45年/大正元年(1912)に亡くなりました。数え年で七十五。上野で戦ってから四十四年、大奥を描き終えてから十六年です。旧幕臣として敗れた側の人生の後半が、まるごと明治の絵で埋まっている絵師は、そう多くありません。

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