浮世絵略年表——師宣から新版画前夜まで
浮世絵入門 第9回、最終回です。年号を覚える回ではありません。ここまで8回で読んできた出来事を、時間の一本の線の上に並べ直すための道具として使ってください。
年表は暗記するものではありません
正直に言うと、私は年号を覚えるのが苦手です。錦絵の誕生が明和2年だったか3年だったか、天保の改革が13年だったか14年だったか、何度覚えても抜けていきます。それでも年表は必要だと思っていて、それは「暗記するため」ではなく「読んだ話を置き直すため」です。
第2回で錦絵の誕生を、第3回で写真や石版に押されていく浮世絵を、それぞれ単体の話として読んだと思います。でも実際には、この二つの出来事のあいだにはおよそ130年の隔たりがあり、そのあいだに何人もの絵師が生まれ、活躍し、亡くなっています。バラバラに読んだ話を1本の線の上に置いてみると、「あ、写楽が活動していた10か月のあいだ、歌麿はまだ現役で、しかも二人はほぼ同時期に同じ江戸にいた」というような、記事をまたいだ距離感がはじめて見えてきます。
以下の表は、そのための最低限の骨組みです。全部を覚える必要はありません。気になる行があれば、右側の絵師名や関連記事のほうに戻って読み直してもらえれば、それでこの表の役目は果たせています。
| 年(和暦・西暦) | 出来事 | 関連する絵師・人物 |
|---|---|---|
| 寛文〜延宝ごろ(1660〜70年代) | 版本の挿絵絵師だった菱川師宣が、文字を伴わない鑑賞用の一枚摺り「一枚絵」を売り出す。浮世絵の実質的な始まりとされる。 | 菱川師宣 |
| 元禄7年(1694) | 菱川師宣没。生年は元和4年(1618)説が有力だが諸説あり。 | 菱川師宣 |
| 年(和暦・西暦) | 出来事 | 関連する絵師・人物 |
|---|---|---|
| 享保10年(1725) | 鈴木春信誕生。 | 鈴木春信 |
| 明和2年(1765)ごろ | 裕福な趣味人たちの絵暦交換会で、何色もの版を寸分違わず重ねる多色摺りの技術が完成。錦絵の誕生。 | 鈴木春信 |
| 明和7年(1770) | 鈴木春信没。享年45。 | 鈴木春信 |
| 年(和暦・西暦) | 出来事 | 関連する絵師・人物 |
|---|---|---|
| 天明元年(1781)ごろ | 号を「歌麿」と改めた喜多川歌麿が頭角を現し始める。 | 喜多川歌麿 |
| 寛政2年(1790) | 老中・松平定信が出版統制を強化(寛政の改革)。版元・蔦屋重三郎は身上半減、山東京伝は手鎖50日の処分を受ける。 | 蔦屋重三郎 |
| 寛政3年(1791) | 歌麿、女性の胸から上を大きく描く「大首絵」を発表し人気絵師となる。 | 喜多川歌麿 |
| 寛政6〜7年(1794〜95) | 東洲斎写楽、わずか10か月のあいだに約140点の役者絵を発表し、忽然と姿を消す。 | 東洲斎写楽 |
| 寛政9年(1797) | 版元・蔦屋重三郎没。 | 蔦屋重三郎 |
| 文化3年(1806) | 喜多川歌麿没。 | 喜多川歌麿 |
| 文化〜文政ごろ(1810〜20年代) | 歌川国貞・歌川国芳ら歌川派の絵師たちが役者絵・武者絵で人気を広げる。 | 歌川国貞、歌川国芳 |
| 年(和暦・西暦) | 出来事 | 関連する絵師・人物 |
|---|---|---|
| 天保元年(1830)ごろ | 18世紀半ばに渡来していた合成顔料プルシアンブルー(ベロ藍)が安価に出回るようになり、色褪せしにくい藍摺りが流行する。 | ― |
| 天保2年(1831) | 葛飾北斎「冨嶽三十六景」刊行開始。歌川広重「東都名所」。 | 葛飾北斎、歌川広重 |
| 天保5年(1834) | 歌川広重「東海道五十三次」刊行、大ヒットとなり風景画という新ジャンルを確立。 | 歌川広重 |
| 天保13年(1842) | 天保の改革。役者絵・美人画が禁止され、錦絵は3枚続まで、色数・値段にも細かい制限がかけられる。 | ― |
| 嘉永2年(1849) | 葛飾北斎没。享年90。 | 葛飾北斎 |
| 年(和暦・西暦) | 出来事 | 関連する絵師・人物 |
|---|---|---|
| 嘉永6年(1853) | ペリー艦隊、浦賀沖に来航(黒船来航)。以後、黒船を描いた瓦版・浮世絵が多数出版される。 | ― |
| 安政5年(1858) | 歌川広重没。北斎より37歳若く、北斎の没後もおよそ9年活動を続けた。 | 歌川広重 |
| 文久元年(1861) | 歌川国芳没。 | 歌川国芳 |
| 元治元年(1865) | 歌川国貞(三代豊国)没。 | 歌川国貞 |
| 慶応3年〜明治元年(1867〜68) | 大政奉還、明治維新。江戸が東京と改称される。 | ― |
| 明治7年(1874)ごろ | 事件やゴシップを絵にした「錦絵新聞」が流行。文字が読めなくても絵でニュースが分かる一枚刷りだったが、10年経たず姿を消す。 | 落合芳幾、月岡芳年 |
| 明治9年(1876) | 小林清親「東京名所図」シリーズ開始。西洋の陰影法を木版に取り込んだ「光線画」の画風。 | 小林清親 |
| 明治25年(1892) | 月岡芳年没。享年53。 | 月岡芳年 |
| 明治27年(1894) | 日清戦争開戦。宣戦布告からわずか9日で25種の戦争絵が出版され、最終的に300点を超える戦争錦絵ブームとなる。 | 小林清親、豊原国周ほか |
| 明治33年(1900) | 豊原国周没。時代が変わっても役者絵を描き続けた、最後の世代の一人。 | 豊原国周 |
| 明治42年(1909) | 版画商・渡邊庄三郎が開業。のちに絵師・彫師・摺師の分業体制を使った新しい木版画運動を主導する。 | 渡邊庄三郎 |
| 大正4年(1915) | 渡邊庄三郎のもとで新版画運動が動き出す。同年、小林清親没。江戸以来の分業システムは、形を変えて次の時代に引き継がれた。 | 渡邊庄三郎、小林清親 |
絵師の世代感覚——同じ「浮世絵」でも生きた時代はまるで違う
年表を作っていちばん実感したのは、「浮世絵師」とひとくくりにされる人たちが、実際にはかなり離れた世代にまたがっているということです。錦絵を生んだ鈴木春信と、大首絵で一世を風靡した喜多川歌麿は、どちらも江戸中期の代表的な絵師として並んで語られがちですが、春信が没した明和7年(1770)に歌麿はまだ10代の駆け出しです。二人が同じ江戸にいた時期はほとんど重なっていません。同じ「江戸中期の美人画」でも、実質的には親子ほど世代が違う二人なのです。
もっと分かりやすいのが葛飾北斎と歌川広重です。北斎は宝暦10年(1760)生まれ、広重は寛政9年(1797)生まれで、その差は37歳。北斎が「冨嶽三十六景」を発表した天保2年(1831)、北斎はすでに71歳という高齢で、広重は34歳の働き盛りでした。二人はしばしば「風景画の二大巨匠」として並べて紹介されますが、実際には北斎が広重の親の世代に近い年上で、広重が世に出た頃には北斎はすでに大御所だったわけです。北斎が没した嘉永2年(1849)のあとも、広重はさらに9年、安政5年(1858)まで描き続けています。
幕末から明治にかけて活躍した月岡芳年・豊原国周・小林清親の3人も、生まれた年はそれぞれ天保10年(1839)・天保6年(1835)・弘化4年(1847)と江戸の生まれですが、活動の中心は明治に移っています。江戸で修業した手と目のまま、写真や活版印刷という新しい競争相手のなかで戦った世代だと考えると、日清戦争の戦争絵ブームに彼らがこぞって参加した理由も、単なる偶然ではなく見えてきます。年表を1本の線として見ると、こうした「誰と誰が同時代人で、誰と誰がすれ違っているか」という立体感が、記事を読んでいるだけでは意外と見落としがちです。
つづけて読む
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- なぜ浮世絵は流行ったのか — 錦絵誕生と寛政の改革の背景をもう一度
- なぜ浮世絵は廃れたのか — 明治の光線画から新版画までの背景をもう一度