版元列伝 第4回 秋山武右衛門——浮世絵が終わる時代に、100図の賭けに出た男
明治も20年が近づくころ、写真は肖像の座を奪い、新聞や雑誌の挿絵は石版印刷とコロタイプに置き換わっていました。木版の錦絵はもう時代遅れの技術です。そんな空気の中で、日本橋室町の版元・秋山武右衛門は、月岡芳年に100図の揃物を発注しました。売れる保証などどこにもありません。それでも、この人は木版に金を出し続けました。版元の名は絵師ほど知られていませんが、この賭けがなければ、芳年の最後の代表作は世に出なかったかもしれません。
日本橋室町の滑稽堂
秋山武右衛門という人物の生い立ちは、実はあまり分かっていません。生まれた年も定かではなく、日本橋室町3丁目9番地で「滑稽堂」の屋号を掲げ、明治の初年から稗史小説(通俗的な読み物)の刊行を手がけていたことが分かっている程度です。もとは幕府の御金御用十人衆(公金の出納にあたった役方)の手代を務めていたとも伝わり、俳諧をたしなんで「滑稽庵五音」と号してもいました。商人でありながら文人でもある、この時代らしい両刀使いの人物だったようです。
稗史小説の版元から出発した秋山が、浮世絵の版元としても名を残すことになるのは、月岡芳年という一人の絵師と組んでからのことです。読み物の版元と錦絵の版元は、江戸の頃から兼業されることが珍しくない商売でした。文字の本と絵の本、どちらも紙と彫り・摺りの職人網を共有していますから、片方で人脈と資金を作った版元が、もう片方に手を広げるのは自然な流れだったのだろうと思います。
明治16年、芳年との出会い
明治16年(1883)、秋山は月岡芳年の大判3枚続「藤原保昌月下弄笛図」を版行します。月夜の道で笛を吹く貴族・藤原保昌と、隙をうかがいながら手が出せない盗賊・袴垂を描いた1枚で、動かない緊張感を余白で見せる、芳年の到達点とも言われる作品です。これをきっかけに、秋山は以後たびたび芳年の錦絵を手がけるようになりました。無名の版元と、当時すでに名の通っていた絵師との組み合わせではありません。稗史小説を刷ってきた版元が、時代の先端を行く絵師と出会い、そこから両者の代表作といえる仕事が始まっていく——版元列伝でここまで見てきた蔦屋重三郎や西村屋与八の話と、根っこは同じ構図です。1枚の三枚続をきっかけに始まった付き合いが、数年のうちに100図の揃物へと育っていく。この最初の一手をどちらが持ちかけたのかは分かっていませんが、少なくとも秋山の側に、この絵師をもっと世に出したいという意志があったことは、その後の仕事量が物語っています。
明治18年、100図という賭け
明治18年(1885)10月、秋山は「高尾太夫」「祇園まち」「嫦娥奔月」「南屏山昇月」「其角」の5図を同時に売り出します。「月百姿」という、月にまつわる和漢の物語・故事・伝説を100枚の大判錦絵にまとめる揃物の、これが第一弾でした。
写真と石版印刷がすでに実用段階に入っていた明治18年に、100図もの木版錦絵シリーズを立ち上げる。これがどれほど無謀な数字か、想像してみてください。彫師が版木を彫り、摺師が何度も色を重ねる木版画は、石版印刷に比べて手間も時間も桁違いにかかります。100図を完成させるには、絵師の画料だけでなく、彫りと摺りの職人の手間賃を100回分、版元が負担し続けなければなりません。しかも浮世絵という商品そのものの需要が、時代とともに目に見えて縮んでいる最中です。売れ行きが読めない揃物に、これだけの長期投資をする版元は、この時代にはもう多くありませんでした。
秋山はこの賭けを、一気には見せませんでした。5図をまとめて出したあとは数図ずつ、時に間を置きながら、じっくりと版を重ねていきます。次の図に用いる紙は上質なものを選び、摺りも一手間かけた凝った仕上げにしていたと伝わります。数を急がず、質を保ちながら長く続ける——これも一つの経営判断だったはずです。一度に100図分の資金を用意して勝負をかけるのではなく、1図ずつの売れ行きを見ながら次の版を起こす。当たれば止めない、こければ深追いしない。博打というより、細く長く続ける投資に近いやり方だったのだろうと思います。
なぜ100図も続けられたのか
これほどの規模の揃物が破綻せずに完結できた理由は、一つではありません。まず「月」という主題そのものの懐の深さがあります。中国の故事、日本の軍記物、能や歌舞伎の一場面、庶民の生活風景——月が出てくる話は無限にあり、絵師はテーマに詰まることがありません。実際にシリーズの図題を並べてみると、坂上田村麻呂や源義光といった武将を描いた「足柄山月 義光」のような一図があるかと思えば、中国の説話に取材した「玉兎 孫悟空」のような一図もあります。武将の英雄譚から異国の伝説、遊女の悲恋、滑稽な小話まで、題材の幅は驚くほど広く取られていて、100図という数字を埋めるだけの奥行きが「月」という主題にはあったわけです。
次に、揃物という商売の形式そのものが、江戸から地続きの合理的な仕組みだったことも大きいはずです。100図まとめて売る必要はありません。1枚ずつ、出るたびに買ってもらえばいい。蔦屋重三郎の吉原細見が「毎回買い替えないと使えない」構造で客をつなぎ止めていたのと同じように、「月百姿」も新図が出るたびに買い足したくなる仕掛けを持っていました。1枚あたりの投資は小さく抑えながら、シリーズ全体では大きな商品を作る——江戸の版元が磨き上げてきた商売のやり方が、明治の錦絵市場でもまだ十分に通用したということです。
そして何より、芳年という絵師の人気です。晩年の芳年は「新形三十六怪撰」や「風俗三十二相」といった大型シリーズを並行して手がけながら、なお「月百姿」を7年間描き続けました。絵師の側にも、この揃物を最後まで見届ける気力と体力、そして描くべき題材への飽くなき興味があったということだと思います。
実際に見る——2図
「月百姿」がどれほど幅の広いシリーズだったか、対照的な2図で見てみます。
まずこの1枚。「月百姿」というと物々しい歴史画を思い浮かべがちですが、こういう笑いを狙った図もちゃんと混ざっています。蓑をまとった男の吊り上がった目と尖った鼻、杖を構える男の仏頂面——似顔絵というより戯画に近い誇張です。100図の中でいちばん肩の力が抜けた1枚で、私はこの図を見るたびについ笑ってしまいます。武将の悲壮な物語と、こういう小話が同じシリーズの中に同居していること自体が、このシリーズの懐の深さを物語っています。画面の隅、雲間に浮かぶ月そのものは驚くほど小さく控えめです。主役はあくまで釜をめぐる二人のやり取りで、月は場面が夜であることを告げるだけの、いわば舞台の照明係に徹しています。
この1枚では、太った体をゆったりと横たえた布袋が、まるで寝転んだまま悟りを開いたような顔で月を指差しています。緊張感のある構図が多いシリーズの中で、ここまで脱力した1図は貴重です。布袋は七福神の一人で、大きな袋と丸い体つきがトレードマークの人物ですが、ここでは袋にもたれて寝そべるという、ふだんの立ち姿とは違う一瞬を切り取っているのも面白いところです。画面の左下には、摺りの日付と版元の名前が小さく刷り込まれています。目を凝らすと「秋山武右エ門」の文字が読み取れます。絵師の落款だけでなく、版元自身の名前も、こうして絵の中にしっかり刻まれているのです。
100図を出し切って
「月百姿」は明治25年(1892)4月に最後の新図が出たあと、同じ年の6月9日、芳年が54歳でこの世を去ります。シリーズの完結を見届けることなく、絵師本人はこの世にいませんでした。それでも仕事はそこで途切れませんでした。芳年の死の直後、秋山は目録と序文を添えた全100図の画帖をまとめ、シリーズを完成形として世に送り出しています。
浮世絵という産業がすでに縮小に向かっていた時代に、7年がかりで100図をやり切った。これは簡単なことではありません。途中で版元の資金が尽きていれば、絵師が病に倒れていれば、シリーズはどこかで打ち切りになっていた可能性は十分にあります。「これで浮世絵は終わった」という物語にこの話を回収してしまうのは、正直もったいないと思います。むしろ見るべきは、時代が向かい風になっても、企画を最後まで完走させた版元と絵師がいたという事実そのものです。秋山武右衛門はその後も明治33年(1900)に没するまで滑稽堂を続け、その名跡は二代目にも引き継がれて、「月百姿」の後摺りを含む仕事を明治から大正にかけて出し続けています。100図という数字は、絵師一人の筆力だけでなく、それを最後まで支え切った版元の経営があって初めて実現した数字でした。
絵師の名前だけを見ていると、この完走劇は見えてきません。落款の脇に小さく刻まれた版元の名前まで目を向けると、1枚の絵の裏にある7年間の粘りが立ち上がってきます。
つづけて読む
- 月岡芳年——最後の浮世絵師 — 「月百姿」を含む代表作を、絵師本人の側から掘り下げます
- 明治の浮世絵史 — 写真・石版印刷との競合と、木版が最後まで生き残った現場
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