版元列伝——浮世絵をプロデュースした男たち

浮世絵を見るとき、私たちはまず「これは誰の絵か」を確かめます。北斎か、広重か、歌麿か。けれど1枚の隅に押された小さな印には、絵師とは別のもう一人の名前が刻まれています。絵師の名は残りますが、仕掛け人の名は、よほど探さないと出てきません。ここからは、その仕掛け人たちの話です。

企画屋、金主、そして目利き

版元・絵師・彫師・摺師の分業で触れたとおり、版元は今でいう出版社にあたる存在で、絵師への発注から資金繰り、完成した錦絵の店頭販売までを一手に引き受けていました。ただしそれは事務方の仕事にとどまりません。誰を売り出すか、何を流行らせるか、江戸のどの空気を絵にするか——ヒットを生む企画そのものが版元の腕の見せどころでした。同じ絵師でも、ついた版元によってキャリアはまるで違う方向に転がります。そうした「目利き」としての版元を、実在の人物とともに追ってみます。

蔦屋重三郎——吉原生まれの仕掛け人

蔦屋重三郎(1750〜1797)は、新吉原の一角に生まれました。7歳のときに両親と離れ、吉原で引手茶屋を営む蔦屋の養子となります。20代前半で大門口の五十間道に貸本・小売りの店を開き、遊郭のガイドブック「吉原細見」の版元として頭角を現すと、やがて日本橋通油町に書肆「耕書堂」を構えるまでになりました。吉原という遊興の街で人の集まる場所を肌で知っていたことが、のちの企画力の土台になっていたのだろうと思います。

その眼力がもっとも鮮やかに発揮されたのが、無名だった喜多川歌麿を美人画の第一人者に育て上げた仕事と、経歴も定かでない新人・東洲斎写楽の役者大首絵28図を、寛政6年(1794)にまとめて世に送り出した仕事です。どちらも「これから売れる」を狙った企画ではありません。「今このタイミングで打つ」という賭けに近い判断で、外れれば版元の損になります。寛政の改革では出版統制のあおりを受けて財産の半分を没収されるという重い処分を受けました。それでも、蔦屋重三郎は出版をやめませんでした。身代の半分を持っていかれてなお筆を折らなかった男だと思うと、正直、胸が熱くなります。趣向を変えながら本を出し続け、寛政9年(1797)、47歳で世を去るまで版元であり続けています。2025年の大河ドラマ「べらぼう」の主人公になったことで、その名は今も新しい読者に届き続けています。

喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」。ビードロのポッピンを吹く若い娘を描いた大首絵
喜多川歌麿「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」寛政4〜5年(1792〜93)頃。無名だった歌麿を美人画の第一人者に押し上げたのは、版元・蔦屋重三郎の企画でした。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

版元列伝 第1回 蔦屋重三郎——写楽と歌麿を世に出した男(吉原細見から耕書堂まで、仕掛けの中身を一本まるごと)

西村屋与八(永寿堂)——名所絵をブームにした男

蔦屋重三郎と同時代、あるいはそのあとの世代を代表するもう一人の版元が西村屋与八です。馬喰町に店を構えた地本問屋「永寿堂」の主人で、天明の末から天保にかけて、鈴木春信や鳥居清長の仕事を手がけて名を広めました。版元印は「山型に三つ巴」という意匠で、これが日除け暖簾にも大きく染め抜かれていたといいますから、店の顔として相当に自負のあるマークだったのでしょう。

その永寿堂が版元となって天保2年(1831)ごろに世に出したのが、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」です。もともとは36図の予定で売り出されたところ評判を呼び、10図を追加で摺り増した結果、「三十六景」と名乗りながら全46図というシリーズになりました。名所絵という新しいジャンルがブームとして定着していく過程には、絵師の才能はもちろん、売れ行きを見て機動的に版を増やした版元の判断も働いています。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。巨大な波の向こうに富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保元〜4年(1830〜33)頃。西村屋与八(永寿堂)の版元としての目算がなければ、36図で終わっていたかもしれないシリーズです。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

版元列伝 第2回 西村屋与八(永寿堂)(追加10図は主版が藍から墨に変わっている——版元の判断が摺りに残した痕跡)

保永堂——一世一代の大当たりと、その後

質屋の次男として生まれた竹内孫八が、霊岸島で開いたのが版元「保永堂」です。天保4年(1833)ごろ、鶴屋喜右衛門の店「仙鶴堂」との共同出版というかたちで世に出したのが、歌川広重の「東海道五拾三次」でした。日本橋から京都三条大橋まで、全55枚(道中53次に日本橋・三条大橋を加えた枚数)を通しで揃えるという企画は爆発的な人気となり、広重を風景画の絵師として不動の地位に押し上げます。

版元としての保永堂そのものは、その後数年で商いをたたむことになります。それでも、この一世一代のシリーズを世に送り出したという企画力は色あせません。今なお「保永堂版広重」の名で呼ばれ、東海道五拾三次が語られるたびにこの版元の名が添えられる——一つの当たりが、店の看板が消えたあとも版元の名を永く残した、そういう例です。

版元列伝 第3回 保永堂(竹内孫八)(なぜ一人で出さず仙鶴堂と組んだのか。1枚売りではなく揃物を通しで買わせるという商売の設計)

明治の版元——秋山武右衛門と芳年

錦絵の時代が終わりに近づく明治になっても、絵師と版元の関係は変わらず生き続けました。日本橋室町で「滑稽堂」を営んだ秋山武右衛門は、明治16年(1883)、月岡芳年の錦絵「藤原保昌月下弄笛図」を出版したことをきっかけに、以後たびたび芳年の仕事を手がけるようになります。なかでも明治18年(1885)から刊行が始まった「月百姿」は、芳年晩年の代表作として今もよく知られるシリーズです。江戸の分業システムが、写真や石版印刷の台頭で少しずつ役割を終えていく時代にあっても、腕のいい絵師を見つけ、シリーズとして育てて売る版元の仕事は最後まで変わりませんでした。

版元列伝 第4回 秋山武右衛門(滑稽堂)(写真と石版に押される明治に、100図の揃物を7年かけて出し切った話)

版元印を探して、絵の余白を読む

絵師の落款ばかりに目が行きがちですが、浮世絵の隅には版元のしるしも必ず刻まれています。蔦屋重三郎の耕書堂なら富士山形に蔦の葉、西村屋与八の永寿堂なら山型に三つ巴。デザインはそれぞれの店の個性で、絵師の画風とはまた別の「もう一つの署名」として絵の中に居場所を持っています。小さいのに、雄弁です。多くの場合、絵師の落款のそばか、絵の左下・右下の余白にひっそりと収まっていますので、次に浮世絵を眺めるときは、主役の絵柄から少し目を離して隅まで見てみてください。同じ場所には、いつ出版が許可されたかを示す改印が並んで押されていることも多く、これは検閲と改印の回で詳しく扱います。また、版元は版木そのものの持ち主でもあるため、同じ図柄でも摺られた時期によって印の位置や状態が変わることがあり、その手がかりは初摺と後摺の見分けにもつながっていきます。絵師の名前だけで浮世絵を見ていたときには気づかなかった、もう一つの読み方がそこにあります。

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