月岡芳年——最後の浮世絵師

月岡芳年は、写真と石版印刷が新聞や雑誌の挿絵を奪っていく時代に、最後まで木版画で勝負し続けた人です。「最後の浮世絵師」という呼び名は、時代に取り残されたという意味ではありません。版画でしか出せない色と余白を、誰よりも突き詰めた人だったという意味で、私はこの呼び名を受け取っています。

写真も石版もまだできないことを、版画でやる

天保10年(1839)、江戸に生まれた芳年は、歌川国芳に弟子入りし、幕末の動乱期から絵師としての仕事を始めます。明治に入ると、写真がブロマイドの座を奪い、新聞や雑誌には石版印刷やコロタイプの挿絵が並ぶようになりました。木版の錦絵は、速報性でも複製の均質さでも新しい技術にかないません。多くの絵師が仕事を失い、浮世絵という産業そのものが縮んでいった時代です。

その中で芳年がやったのは、写真や石版がまだ出せない領域に踏み込むことでした。画面の大半を塗りつぶすような大胆な余白、そこにぽつんと置かれた1人の人物、月明かりのぼかしが生む階調。どれも版木を何度も刷り重ねる木版画だからこそ出せる効果で、写真の露光でも石版の平坦な線でも真似できません。芳年は晩年、この方向を突き詰めた大型シリーズを立て続けに手がけています。まずは実物を見てください。

代表作を実際に見る

月岡芳年の三枚続「藤原保昌月下弄笛図」。満月の下、笛を吹きながら歩く貴族の藤原保昌と、その背後の茂みに身構えながらも斬りかかれずにいる盗賊袴垂。画面左には大きく余白を取った満月が浮かぶ
月岡芳年「藤原保昌月下弄笛図」明治16年(1883)。夜道で笛を吹く藤原保昌と、その隙をうかがいながら手が出せない盗賊・袴垂を描いた三枚続です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

物語としては単純です。夜道を歩く貴族に、盗賊が斬りかかろうと隙をうかがう。それだけの場面ですが、芳年はここに大立ち回りを描きません。保昌は涼しい顔で笛を吹き続け、袴垂はその隙のなさに気圧されて手が出せずにいる。動きではなく、動けないという緊張そのものを描いた1枚です。画面の3分の1近くを占める余白と、そこに浮かぶ満月が、この静けさを支えています。私はこの構図の思い切りの良さに、芳年という絵師の到達点を感じます。

月岡芳年「月百姿 烟中月」。燃え盛る炎を背にして立つ町火消の纏持ちが、こちらに背を向けて静かに佇んでいる。画面左上に満月が小さく浮かぶ
月岡芳年「月百姿 烟中月」明治19年(1886)。町火消「い組」の纏持ちが、燃え盛る炎を前にしても動じず立つ姿を描いています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「月百姿」は、月にまつわる故事や物語を100図にまとめた、芳年が最晩年の8年をかけた大作です。この1図では、江戸の町火消「い組」の纏持ちが炎を背に堂々と立っています。纏は火事場で持ち場を示す旗印で、頭についた箱型の意匠は「消します」の語呂合わせだそうです。炎の勢いに対して人物はまったく騒がず、後ろ姿と炎の色面だけで胆力を見せる。派手な炎の朱と、画面左上にひっそり置かれた満月の対比も、このシリーズらしい引き算です。

「月百姿」には、歴史上の人物や物語の一場面のほかに、幽霊や妖怪といった不可思議な存在も登場します。題材の幅は広いのに、どの図も月という1つの主題でつながっている。100図をやり切るという発想自体、体力と気力の両方が必要な仕事だったはずです。

月岡芳年「新形三十六怪撰 さぎむすめ」。雪の降る中、大きな黒と黄の傘をさした女性が、飛び立つ白鷺に向かって腕を差し伸べている。着物の線は極めて細く、白と黒を基調にしている
月岡芳年「新形三十六怪撰 さぎむすめ」明治22年(1889)。雪の中、鷺の化身とされる娘を描いた1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「新形三十六怪撰」は、幽霊や妖怪、怪異譚を題材にした最晩年のシリーズです。さぎむすめは、鷺の化身という娘の悲恋を描いた舞踊の演目に由来します。ここで見てほしいのは線の細さです。着物の輪郭も、傘の骨も、髪の生え際も、驚くほど細い線で引かれていて、色数を白・黒・朱に絞った分だけ線そのものの緊張感が際立ちます。同じ「怪異」を題材にしても、初期に見られたような血しぶきの派手さはどこにもありません。

月岡芳年「風俗三十二相 遊歩がしたさう」。花柄の麦わら帽子をかぶり、鮮やかな赤いドレスに格子柄のジャケットを重ねた明治の女性が、洋傘を手にアヤメの花の間に立っている
月岡芳年「風俗三十二相 遊歩がしたさう」明治21年(1888)。洋装に身を包んだ明治の妻女を描いた、このシリーズ最後の1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「風俗三十二相」は、江戸から明治にかけての女性の風俗を32の場面で見せる連作です。この1図は洋装の女性で、赤いドレスの色に注目してください。江戸期の紅花染めの赤よりも彩度が高く、紫に寄った鮮烈な赤です。これは明治になって輸入されるようになった化学染料、いわゆる洋紅やアニリン系の顔料による色で、木版画の色料そのものが時代とともに変わっていったことを教えてくれます。麦わら帽子と洋傘という当時最先端のいでたちも含めて、これぞ明治という1枚です。

芳年の見分け方

極端な余白と、そこに置く1人

先ほどの「藤原保昌月下弄笛図」と「烟中月」を見比べてください。どちらも画面の大部分を余白や単色の面が占め、人物は1人か2人に絞られています。江戸期の浮世絵が画面いっぱいに情報を詰め込みがちだったのに対して、芳年は逆に引き算をしていく。余白を怖がらない構図は、芳年の作品を見分けるいちばん分かりやすい手がかりです。

月の使い方

「月百姿」というシリーズ名の通り、芳年は月を繰り返し描いています。ただし満月を画面の主役に置くことはむしろ少なく、多くの図で月は画面の隅に小さく、あるいはぼかしの中に溶けるように配置されます。月そのものより、月明かりが人物や情景をどう照らすかのほうに関心があった絵師だと思って見ると、腑に落ちる図が多いはずです。

線の細さと、明治の輸入顔料

「さぎむすめ」で見たような、極端に細い輪郭線も芳年の特徴です。師の国芳や同時代の絵師たちと比べても、晩年に近づくほど線が繊細になっていきます。そして色の面では、「遊歩がしたさう」で見た赤紫がかった鮮烈な赤——洋紅やアニリン系の輸入顔料——を惜しみなく使っているのも明治という時代の絵師ならではです。江戸のベロ藍や紅花の落ち着いた色調に慣れた目には、最初は少し毒々しく感じるかもしれません。それも含めて、芳年が生きた時代の体温だと思っています。

血みどろ絵は、初期の一時期だけ

芳年といえば血みどろ絵、無惨絵の絵師という紹介のされ方をよく見かけます。慶応2〜3年(1866〜67)、20代後半の芳年が兄弟子の落合芳幾と競作した「英名二十八衆句」がその代表で、歌舞伎の刃傷沙汰の場面ばかりを集めたシリーズです。血糊に膠を混ぜて光沢を出すなど、当時としては生々しい技法上の工夫もあったと伝わります。ただしこれは芳年の画業50年あまりのうち、幕末の数年間に限られた仕事です。ここまで見てきた「月百姿」も「新形三十六怪撰」も「風俗三十二相」も、いずれも明治に入ってからの、静けさと緊張感を追求した作品群です。血みどろ絵だけで語ってしまうのは、この絵師の仕事の半分も見ていないことになります。

手に入るのか

芳年は明治期に活動した絵師なので、江戸期の絵師に比べると現存数は比較的多く、状態のよい摺りも市場に出てきます。ただし近年は評価と人気が上がり続けている絵師でもあり、相場も以前より高くなっている傾向があります。金額の見込みをここで約束することはできませんが、「明治の絵師だから手が届きやすいはず」と単純に決めつけず、実際の相場観や状態の見方を押さえてから探すことをおすすめします。手を出しやすい浮世絵の記事摺りと真贋の記事にまとめていますので、あわせてご覧ください。

どこで見られるか

芳年の作品は、メトロポリタン美術館やシカゴ美術館をはじめ海外の美術館にもまとまった数が所蔵されており、この記事で使った画像もすべてCC0で公開されているものです。自宅からでも高解像度で細い線の1本まで確認できます。所蔵機関の探し方やデジタルアーカイブの使い方は海外の浮世絵美術館の記事デジタルアーカイブで見る記事にまとめています。

芳年が残したもの

浮世絵という産業は、芳年が没した明治25年(1892)前後を境に、実質的に終わっていきます。写真と石版印刷、そして新聞という新しいメディアに押されて、木版の錦絵が担っていた役割は失われていきました。それでも芳年の仕事がそこで途切れたわけではありません。弟子の水野年方は13歳で芳年に入門し、その画業を受け継ぎました。年方の門下からは鏑木清方が育ち、清方はさらに伊東深水ら次の世代を育てています。版画から日本画へと器は変わりましたが、余白を恐れず、1人の人物に語らせる芳年の構図の感覚は、この系譜の中で確かに生き続けました。浮世絵がどう終わっていったかは浮世絵はなぜ衰退したのかの記事明治の浮世絵史の記事に詳しくまとめています。芳年という絵師を知ってから読むと、また違って見えるはずです。

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