版元列伝 第3回 保永堂——一発当てて、消えた版元

版元としての保永堂は、店を構えてからわずか数年で看板を下ろしています。数字だけ見れば、あっけない幕切れです。それでも「東海道五拾三次」が語られるとき、この店の名前は今も必ず一緒に呼ばれます。作品の名前より先に消えてしまう版元がほとんどの中で、これは相当に珍しいことです。一世一代の企画を世に出し、その企画の名前として自分の屋号を残す——版元にとって、これ以上の結末はそう多くありません。

質屋の次男が、霊岸島で始めた店

保永堂を興したのは竹内孫八という人物です。質屋を営む竹内孫七の次男として生まれ、家業は継がず、天保4年(1833)ごろから霊岸島(現在の東京都中央区新川周辺)の塩町に居を構えて出版業に乗り出しました。店売りの場所は、そこから少し離れた湊橋西詰。質屋の跡取りではない次男が、まったく畑違いの版元という商売を新しく始めたことになります。西村屋与八の永寿堂が三代続く老舗だったのとは対照的に、保永堂は看板を掲げたばかりの、いわば新興の版元でした。

この竹内孫八、出版業をやめたあとは竹内眉山という名で狂歌師として生きています。嘉永7年(1854)、74歳で没するまで、版元をやめてからも実に17年ほどの歳月がありました。質屋の家に生まれ、版元を名乗り、最後は狂歌師として世を去る。一人の人生の中に、ずいぶんいくつもの顔が入っています。

なぜ、一人で出さなかったのか

天保4年(1833)ごろ、保永堂が世に出したのが歌川広重の「東海道五拾三次之内」です。ただし、これは保永堂の単独出版ではありませんでした。日本橋通油町の版元「仙鶴堂」、主人・鶴屋喜右衛門との共同出版というかたちで刊行されています。無名に近い新興版元が、大判・大部数のシリーズをいきなり一人で出すのは、資金力の面でも危険の分散という面でも現実的ではなかったのだろうと思います。共同出版という仕組みそのものが、駆け出しの版元が大企画に手を伸ばすための方法だったわけです。

どういう経緯で保永堂と仙鶴堂が組んだのかについては、はっきりした一次資料を欠いたまま、いくつかの説が伝わっています。竹内孫八自身が狂歌をたしなむ人で、広重とも狂歌の仲間だったからという説。広重がまず仙鶴堂に企画を持ち込んだものの、まだ名の通っていない絵師の仕事に仙鶴堂側が踏み切れず、保永堂を紹介したという説。あるいは、保永堂の本業だった質屋の商売を通じて、もともと仙鶴堂との取引があったからという説です。どれにも決め手がなく、いずれも「〜とされます」という留保つきで語られています。それでも共通しているのは、無名の新興版元が単独でこの大企画に踏み切ったわけではないという一点です。

この共同出版は長くは続きませんでした。仙鶴堂の主人・鶴屋喜右衛門が天保4年に没し、翌天保5年(1834)には店が火災に遭ったことが、仙鶴堂がこのシリーズから手を引いた理由とみられています。以後は保永堂の単独出版として版が重ねられていきました。

1枚ものではなく、揃物を通しで買わせる

「東海道五拾三次之内」は、東海道の53の宿場に、出発点の日本橋と到着点の京都・三条大橋を加えた、全55図のシリーズです。当時の錦絵の主流は、役者絵にせよ美人画にせよ、基本的に1枚で完結する商品でした。好きな1枚を買えばそれで用は済みます。ところが保永堂と仙鶴堂が仕掛けたのは、これとはまったく違う商売の設計です。日本橋から京都まで、道のりをたどるように55枚を順番に買い、揃えてはじめて一つの旅が完成するという仕組みでした。

1枚ものの商品と、揃物という商品は、客の財布に対する働きかけ方がそもそも違います。

1枚もの 揃物(東海道五拾三次) 役者絵など 1枚 好きな1枚を買えば それで完結する 日本橋 京・三条大橋 55枚そろえてはじめて 1本の東海道の旅になる
1枚ものの錦絵は、それ単体で商品として完結します。対して「東海道五拾三次之内」は、55枚を順に買い集めてはじめて日本橋から京都までの旅が完成する構造になっていて、次の宿場を見たいという気持ちが客をリピーターに変えます。1枚あたりの値段は変わらなくても、売れる総数がまるで違ってくる設計です。

1枚を売って終わりの商売と、55枚を売り続ける商売とでは、同じ版元業でも組み立て方が根本的に違います。次の宿場も見たい、揃いで手もとに置きたいという欲を静かに刺激し続けるのが、揃物という形式の強みでした。保永堂と仙鶴堂が共同出版という手段を選んだ背景には、この規模の商売を成立させるだけの元手と足並みが要ったという事情も透けて見えます。

なぜ、無名の広重だったのか

この一世一代の企画で起用されたのが、歌川広重でした。当時の広重は、役者絵や美人画を手がけてはいたものの、まだ際立った看板絵師ではありません。師の歌川豊広のもとで修業し、20代までは定火消同心という幕府の下級武士としての勤めと絵筆を両立させていた身です。無名とまでは言えないにせよ、大判・大部数のシリーズを任せるにはいささか心もとない経歴でした。

広重が東海道の風景を描く企画に踏み出す転機として語られるのが、天保3年(1832)、幕府から朝廷への八朔御馬献上の行列に加わり、江戸から京都まで東海道を旅したという出来事です。この旅の記憶が翌年からの「東海道五拾三次之内」制作につながった、という筋書きはよく語られます。ただし、広重が本当にこの行列に随行したのかどうかは、弟子の証言をもとにした伝承の域を出ず、実際に旅をしていない可能性を指摘する見方もあり、研究者のあいだでも見解が分かれているとされます。無名に近い絵師が、なぜこれほどの大企画を任されたのか——その決め手を一つの逸話だけで説明しきるのは、少し急ぎすぎなのだと思います。それでも、版元がこの絵師に賭けたという事実と、その賭けが結果として空前の当たりになったという事実だけは動きません。

実際に見る——55枚のうちの3枚

図の中身そのものを深掘りするのはこの記事の役目ではありませんが、揃物としての空気を感じてもらうために3枚選びました。すでに他の記事で扱った「蒲原 夜之雪」は外し、道中の異なる場面を選んでいます。

歌川広重「東海道五拾三次之内 亀山 雪晴」。雪の積もった急な坂道を、荷を背負った旅人たちの一行が斜めに列をなして下っていく。朝焼けの空がピンクに染まっている
歌川広重「東海道五拾三次之内 亀山 雪晴」天保4〜5年(1833〜34)頃、保永堂版。雪の坂道を斜めに貫く構図と、地平線に差す朝焼けのぼかしが印象的な1枚です。坂の上下に配された小さな旅人の列が、道のりの長さをそのまま伝えてきます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)
歌川広重「東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧の橋」。菅笠をかぶった大名行列の一団が、川に架かる長い木橋を渡っていく。橋は画面の左下から右上へと大きく弧を描く
歌川広重「東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧の橋」天保4〜5年(1833〜34)頃、保永堂版。当時、東海道随一の長さを誇ったとされる矢矧橋を、大名行列がゆっくりと渡っていきます。橋という一本の線に沿って画面全体を組み立てる、大胆な構図の1枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)
歌川広重「東海道五拾三次之内 三島 朝霧」。朝霧に包まれた鳥居と松並木の下を、駕籠かきや馬を連れた旅人の一行が足早に進んでいく
歌川広重「東海道五拾三次之内 三島 朝霧」天保4〜5年(1833〜34)頃、保永堂版。三嶋大社の鳥居がうっすらと霧の奥に沈み、輪郭のはっきりしない松と人影だけが手前に残ります。同じ道でも天気ひとつで表情がまるで違うことを教えてくれる1枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

雪の坂、長い橋、朝霧——3枚とも道の途中の一場面にすぎませんが、並べてみると「旅そのものを売る」という企画の狙いがよく伝わってきます。広重という絵師の仕事をもっと知りたくなった方は歌川広重——絵師個別ページでどうぞ。

天保8年、看板を下ろす

「東海道五拾三次之内」の成功にもかかわらず、版元としての保永堂は長続きしませんでした。天保7年(1836)には湊橋西詰にもう一つ店売り場を設けるなど手を広げた形跡もありますが、翌天保8年(1837)には出版業そのものをたたんでいます。竹内孫八が版元を名乗ってから、わずか4年ほどの出来事です。

けれど、それで保永堂の名が消えたわけではありません。今も「東海道五拾三次」といえば、多くの場合この保永堂版が指されます。他の版元から出た異版と区別するときも「保永堂版」という言い方がそのまま使われ続けています。店としての保永堂はとうに存在しませんが、屋号だけは作品の代名詞として、200年近く経った今も生き続けているわけです。一発だけを当てて姿を消した版元は珍しくありませんが、その一発の名前が今もこれほど頻繁に呼ばれ続ける例は、そう多くありません。版元にとって、これは十分すぎるほどの結末だったのではないかと思います。

版元印は、屋号ではなく名前そのもの

保永堂の版元印は、蔦屋の富士山形に蔦の葉や、永寿堂の山型に三つ巴のような凝った意匠ではなく、「竹孫」——竹内孫八の略——という文字そのものを刻んだ、実務的な印でした。共同出版だった初期の摺りでは、この保永堂の印と並んで仙鶴堂の「鶴」の印も押されており、両方が並んでいるかどうかを見れば、その1枚が共同出版の時期に摺られたものか、保永堂単独になってからの摺りかがおおよそ見分けられます。絵の隅の小さな印に、版元同士の力関係の移り変わりまでが刻まれているわけです。版元印の探し方や、他の版元との見分け方は版元列伝の各回で扱っています。

意匠に凝る余裕のない実務的な印を押していた新興版元が、結果として江戸の出版史に残る一世一代の企画を世に出す。屋号のデザインに込められた自負の大きさと、その版元が実際に残した仕事の大きさとは、必ずしも比例しないものなのだと、保永堂の印を見るたびに思わされます。

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