版元列伝 第1回 蔦屋重三郎——写楽と歌麿を世に出した男
蔦屋重三郎という名前を、絵の分かる目利きだったからだと思って見ていると、たぶん取りこぼします。彼が本当にうまかったのは、誰の絵が優れているかを見抜くことではなく、誰と誰を組ませ、どんな紙面と価格で世に出すかを設計することでした。歌麿や写楽の仕事の裏側には、いつもこの設計者の手が入っています。大河ドラマの主人公として名前だけは知っている、という方も多いと思いますが、ここではドラマの筋には触れません。追いたいのは、一人の版元が具体的に何を仕掛けたか、その中身です。
情報誌の版元として始まった、という原点
蔦重が最初に手がけた商品は、錦絵ではありません。遊女屋ごとに源氏名・位付け・揚げ代を並べた案内書「吉原細見」でした。これがどういう本だったかは、意外と知られていません。単なる名簿ではなく、正月と秋の年2回、遊女の入れ替わりや格付けの変動に合わせて中身をまるごと更新する定期刊行物で、享保年間から数えると明治期まで160年近く出続けた、日本の出版史でも指折りの長寿シリーズです。古い版を持っていても意味がない——この「毎回買い替えないと使えない」構造こそが、細見を安定した収益源に変えていました。情報が生鮮食品のように傷むからこそ、客は繰り返し財布を開きます。
細見を出す版元は蔦重ひとりではありませんでした。何軒もの書肆が競って似たような細見を出す中、勝敗を分けたのは中身の正確さと更新の速さです。遊女の抱え替えや廃業は日々起きますから、情報が古い細見はすぐに使い物にならなくなります。吉原の大門のすぐそばに店を構え、茶屋や妓楼と日常的に付き合いのあった蔦重は、そうした最新の内輪の動きを人づてに拾える立場にいました。江戸の中心部から遠く離れた版元には、この土地勘と人脈の差はなかなか埋められません。情報の鮮度そのものが商品の強みになる、という構造を、蔦重は錦絵に手を出すよりずっと前に、細見の商売を通じて体で覚えていたことになります。
蔦重の仕掛け人ぶりは、この細見の段階からすでに顔を出しています。安永3年(1774)、彼は当時の博学者・平賀源内に序文を書かせました。源内は戯作者としても知られる当代随一の有名人で、無名の一書肆が出す遊郭ガイドに著名人の序文をつけるというのは、今でいえば著名なライターに前書きを依頼して本の格を上げるようなものです。翌年にはさらに判型を縦長に改め、持ち歩きやすい今のガイドブックに近い形に作り替えてもいます。中身の情報そのものより先に、誰に書かせるか、どう装丁するかという「体裁の設計」に手を出しているところに、のちの歌麿・写楽の仕事につながる発想の芽があります。
歌麿を大首絵に仕立てる——体裁そのものが企画だった
喜多川歌麿を美人画の第一人者に押し上げた仕事でよく語られるのは「歌麿の腕」ですが、それだけでは説明のつかない部分があります。それまでの美人画は全身像が主流で、遊女は背景の中の一人として描かれていました。蔦重のもとで歌麿が打ち出したのは、上半身だけを大きく切り取り、背景を省いて雲母を摺り込んだ「大首絵」という新しい体裁です。顔と表情だけに視線を集中させるこの構図は、絵師の筆の力だけでなく、判型・背景処理・余白の使い方までを含めた設計そのものが商品でした。
寛政の改革が進むと、遊女以外の女性の実名を絵に書き込むことが幕府によって厳しく制限されます。評判の看板娘を描いた美人画は、名前を書けなければ誰だか分からず、商品として成り立ちません。ここで歌麿と蔦重が選んだのが、名前をそのまま文字にせず、扇・花・矢といった絵を並べて読ませる「判じ絵」でした。規制の網をかいくぐりながら、分かる客には分かる仕掛けを絵の隅に仕込む——検閲への対応そのものを、遊び心のある企画に転じさせています。
ここまでの流れを、一度年表として整理しておきます。
安永2〜3年(1773〜74)
吉原細見の版元に
小売から出発し、翌年には自分の名で細見を出す版元へ転じる。
出発点: 情報誌
天明3年(1783)
日本橋・通油町へ
耕書堂を移し、黄表紙・洒落本を扱う地本問屋として版元界の中心地に進出。
拡張: 戯作の版元
寛政3年(1791)
山東京伝、処罰される
京伝の洒落本3作が絶版処分。版元の蔦重は身代半分を没収される。
痛手: 身代半減
寛政4年(1792)頃
歌麿の大首絵
処罰の直後、美人大首絵という新しい体裁を次々に打ち出す。
再起: 錦絵へ本腰
寛政6年(1794)
写楽、デビュー
無名の新人を黒雲母摺の役者大首絵28点で、いきなり売り出す。
賭け: 28点同時
身代を半分持っていかれてから、わずか1年ほどで打った次の手が歌麿の大首絵、その2年後が写楽です。この人は、罰を受けても出版という商売そのものをやめませんでした。
処罰の直後に、なぜ写楽という博打を打てたのか
寛政3年(1791)の処分は軽いものではありません。「身代半分」とは罰金ではなく、店の資産そのものを幕府に没収される闕所の一種で、江戸の商人にとっては商売の継続そのものが危うくなる重さです。それでも蔦重は看板を降ろさず、むしろ数年のうちに、経歴も本名も分からない新人絵師・東洲斎写楽を、当時もっとも贅沢な体裁で売り出すという博打に出ます。
この博打がどれほど異常だったかは、当時の商慣習に照らすとよく分かります。無名の新人がまず任されるのは、細判の小さな一枚か、地味な色数の抑えた仕事です。実績を積んで評判が固まって初めて、大判の役者絵や贅沢な摺りが許されるのが順序でした。ところが写楽は寛政6年(1794)5月、その順序を丸ごと飛ばし、大判・黒雲母摺という当時もっとも高価な仕上げの役者大首絵を、いきなり28点同時に世に出しています。雲母の粉を吹き付ける摺りは手間も材料費もかさむ贅沢な技法で、これを実績ゼロの新人にまとめて注ぎ込むのは、今なら新人作家のデビュー作をいきなり豪華装丁の全集として書店に並べるようなものです。外れれば損失は蔦重が丸ごとかぶります。
写楽の絵は、役者を持ち上げる従来の役者絵とは違い、贔屓の目には不都合な特徴までも容赦なく描きました。同時代の評判は芳しくなかったとも伝わりますが、それでも蔦重はこの路線を追加で押し通しています。売れ行きより先に「これを世に問う」という判断が先に立っていた——版元自身の好みや意地に近いものが動いていたようにも感じます。
28点の中で私が一番見入ってしまうのは、次に挙げる中島和田右衛門と中村此蔵の二人立ちです。一枚の絵の中に痩せ形と肥満形、下がり眉と上がり眉という正反対の顔を並べて対比させる構成は、単に二人の役者を描いたというより、顔の違いそのものを見せるための企画に近いつくりです。似顔絵としての写楽の腕はもちろんですが、この対比を1枚の中でやろうと決めた段階に、すでに企画者の目が入っているように思えます。
版元印を探す——絵師の落款だけが署名ではない
浮世絵を見るとき、多くの人はまず絵師の落款を探します。もう一つ、絵の余白に必ず刻まれているのが版元の印です。蔦屋耕書堂の印は、山なりの富士山の形の中に蔦の葉をあしらった意匠で知られます。この印を手がかりに追いかけると、面白いことに気づきます。吉原細見、山東京伝の洒落本、歌麿の大首絵、写楽の役者絵——絵柄も客層もまるで違うこれらの仕事すべてに、同じ印が押されているのです。一見ばらばらな仕事の背後に、同じ一人の判断が通っていた証拠が、この小さな印です。
蔦重が寛政9年(1797)に没したあとも、この印は消えませんでした。番頭を務めていた勇助が身代を継いで二代目蔦屋重三郎を名乗り、耕書堂の看板と印をそのまま引き継いでいます。版元という屋号は、個人の才覚を超えて続くブランドでもあったわけです。
47歳、脚気で急逝するまで
蔦重は寛政9年(1797)、47歳で世を去りました。死因は脚気、当時「江戸わずらい」とも呼ばれた病です。白米を好んで食べられる裕福な江戸の住人ほどかかりやすかったとされ、皮肉にも成功者の病でもありました。前年の秋から体調を崩し、床に伏せる日々が続いたと伝わります。
蔦重自身は、絵師でも彫師でも摺師でもありません。歌麿の線を一本も引いていませんし、写楽の版木を一枚も彫っていません。それでも歌麿の大首絵がいつ、どんな体裁で出るか、写楽という賭けを打つかどうかを最終的に決めていたのは、いつもこの人でした。絵師の名前だけを追っていると見えてこない、もう一つの意思決定の線がそこにあります。
吉原の細見を売り歩いていた貸本屋あがりの版元が、数十年のうちに歌麿と写楽という、方向性のまるで違う二人の絵師を世に送り出す。しかもその間には、身代を半分持っていかれる処分まで挟まっている。これを単なる幸運の連続と見るのは、ちょっと惜しい気がします。情報の鮮度で客をつかむ商売から出発した人だからこそ、次に何が来ればまた客の目を引けるかという勘が、人一倍研ぎ澄まされていたのではないかと思います。
絵師の名前で浮世絵を見るのは、間違いなく良い入口です。ただ、その絵がどんな版元から、どんな企画として世に出たのかまで目を向けると、江戸の出版という産業の輪郭が急に立ち上がってきます。歌麿・写楽をもっと知りたくなった方は、それぞれの絵師個別ページも合わせてどうぞ。分業の仕組みや、検閲と改印についても、続けて読んでみてください。
つづけて読む
- 喜多川歌麿——絵師個別ページ — 大首絵という表現そのものを掘り下げます
- 東洲斎写楽——絵師個別ページ — 10か月で姿を消した謎の絵師の仕事
- 版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み — 版元が動かしていたチームの全体像
- 検閲と改印 — 判じ絵の裏にあった出版統制の実際
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