版元列伝 第2回 西村屋与八——売れ行きを見て、シリーズを継ぎ足した男

「冨嶽三十六景」は、三十六と名乗りながら46図あります。この食い違いをただの豆知識として済ませるのは、正直もったいないと思っています。企画というものは、世に出た瞬間に完成形が決まっているわけではありません。売れ行きを見ながら、あとから形を変えていく。その生々しい現場に立っていたのが、版元・西村屋与八でした。図の中身は全46図ガイドに譲り、ここでは「売り方」の話をします。

馬喰町の老舗、永寿堂——北斎より先にあった実績

西村屋与八は、江戸・馬喰町二丁目に店を構えた地本問屋です。屋号は永寿堂、家業を継いだ主人は代々「与八」を名乗り、家の姓は日比野といいました。宝暦の頃から慶応まで、三代にわたって同じ場所で商いを続けたとみられ、北斎の「冨嶽三十六景」が出る天保2年(1831)ごろには、すでに数十年選手の老舗です。鈴木春信、鳥居清長といった絵師たちの仕事もこの店から出ており、北斎に賭けた時点で、永寿堂はすでに版元として一定の格を持っていました。ぽっと出の新参が一発逆転を狙った企画ではなく、地に足のついた老舗が満を持して打った企画だったという点は、覚えておいて損はありません。

この対比は、のちに触れる別の版元——「東海道五拾三次」を出した保永堂——と並べるとよく見えてきます。保永堂は質屋あがりの主人が出版に手を出したばかりの新興店でした。同じ天保年間に名所絵の傑作シリーズを世に出した版元でも、片や老舗の余裕、片や新参の一発勝負。江戸の出版界の懐の広さが、この対比だけでも伝わってきます。

70歳を超えた絵師に、なぜ賭けたのか

「冨嶽三十六景」の企画が動き出したとき、葛飾北斎はすでに70歳を超えていました。当時の平均的な感覚からすれば、とうに隠居していてもおかしくない年齢です。それでも西村屋与八は、この老絵師に富士山だけを主題にした揃物という、当時としては挑戦的な企画を任せています。名所を1枚ずつ売るのが当たり前だった時代に、同じ富士山を全国さまざまな場所から描き分けるという構成そのものが新機軸でした。加えて、当時輸入されたばかりの化学顔料ベロ藍(プルシアンブルー)を惜しみなく使い、主版(輪郭線を彫る版)まで藍一色で摺るという、コストのかかる摺り方を採用しています。売り文句は「藍摺絵」。それまでの錦絵にはなかった、青一色の澄んだ発色を前面に押し出した企画でした。

老いた絵師と、新しい顔料と、新しい構成。どれも単体では当たり外れの読みにくい賭けです。それを重ねて一つの商品に仕立てたところに、西村屋与八という版元の目算があったのだろうと思います。もっとも、この時点で与八が「あとで10図足すことになる」とまで見通していたとは考えにくく、それはあくまで結果です。

36図で完結するはずだった、その後

「冨嶽三十六景」は、その名のとおり36図で完結する企画として売り出されました。ところが蓋を開けてみると、この藍摺絵の評判は予想を上回ります。西村屋与八が打った次の一手は、単純です。当初の36図に、追加で10図を足しました。増えた10図は、のちに「裏富士」と呼ばれるようになります。合わせて全46図。シリーズ名の「三十六景」はそのまま据え置かれたので、今も数字と実物が食い違ったまま残っているというわけです。

この経緯を、年表ふうに整理しておきます。

天保2年(1831)頃

藍摺絵、36図で売り出す

ベロ藍を主版にも使う新機軸の企画。あくまで36図で完結する揃物として発売。

出発点: 表富士36図

天保2〜3年頃

評判が広がる

「神奈川沖浪裏」をはじめ、想定を超える売れ行きを見せる。

判断材料: 売れ行き

天保3〜5年頃

追加10図を摺り増す

当初の企画になかった10図を新たに彫らせ、追加販売する。主版は藍ではなく墨に切り替える。

増補: 裏富士10図

結果

「三十六景」のまま46図に

シリーズ名は据え置き。名前と実物の数がずれたまま定着する。

最終形: 全46図

最初の36図が出た時点で、この企画はすでに一度「完成」していました。追加の10図は、その完成形を売れ行きが押し広げた結果です。企画書どおりに進んだのではなく、店頭の反応を見ながら版元が舵を切った——このことのほうが、46図という数字そのものより興味深いと思っています。

※刊行の開始年は資料によって天保元年(1830)とも天保2年(1831)とも記され、完結年も天保4年から5年のあいだで揺れます。当サイトの他のページではシリーズ全体を「天保元〜4年(1830〜33)頃」と表記していますが、ここでは表富士と裏富士の前後関係を追う都合上、両者を分けて書いています。押さえておきたいのは年号そのものではなく、36図が先に出て、あとから10図が足されたという順序のほうです。

摺りの中に残った、判断の跡

「あとから足した」という判断は、実物の摺りの中にはっきり痕跡を残しています。逸話として伝わっているだけの話ではありません。最初の36図は、輪郭線を彫った主版までベロ藍で摺るという徹底ぶりでした。ところが追加された10図では、主版が藍ではなく墨に変わっています。同じシリーズ、同じ絵師でありながら、輪郭線の色という根本のところで作り方が違うのです。

これは単なる気まぐれではないはずです。全体を藍一色でまとめる「藍摺絵」という企画の売り文句は、最初の36図で完結させる前提で立てられたものでした。追加分は、いわば当初のコンセプトの外側に生まれた増補です。輪郭線まで藍で通す贅沢な摺り方を追加10図でも踏襲するか、通常どおり墨で彫るかは、コストとスピードの兼ね合いで版元が判断したことだったと考えられます。評判が出ているうちに早く追加を店頭に並べたい、という商売の事情が、絵の一番奥にある輪郭線の色にまで表れている。版元の意思決定が、絵師の筆致とはまた別のところで絵そのものに刻まれた例だと思います。

普段、私たちが浮世絵を見るときに追いかけるのは、たいてい絵師の筆の運びや構図の妙です。輪郭線の色が藍か墨かというのは、放っておけば見過ごしてしまうくらい地味な違いにすぎません。それでも、この地味な違いの奥に「追加分は当初の企画になかった」という版元の事情が透けて見えるのだとすれば、話は変わってきます。絵を見る目に、版元の懐事情まで含めて見るという視点が一つ増えるからです。

実際に見る——表富士と裏富士、線の違いを追う

ここからは実物で確かめます。「神奈川沖浪裏」「凱風快晴(赤富士)」「山下白雨」の3図はすでに他の記事で扱っているので、ここでは別の3図を選びました。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州石班澤」。岩場の先端に立つ漁師が投網の縄を手繰り、荒波の向こうに雪をかぶった富士がそびえる
葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州石班澤」天保2〜4年(1831〜33)頃。表富士36図の1点。岩の先端で網を打つ漁師の姿を、波を表す藍の細い線が幾重にも取り囲んでいます。主版の輪郭線も藍一色で摺られた、最初の36図らしい1枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

見てほしいのは、波を描く線の数です。手前の岩を洗う波、遠くにうねる波、どちらも一本一本が独立した線として彫られていて、濃淡のぼかしだけに頼っていません。この線の多さと精度こそ、藍摺絵という贅沢な企画にふさわしい手間のかけ方です。追加10図と見比べるときの基準として、まずこの1枚を覚えておくと違いに気づきやすくなります。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう」。栄螺堂の物見台に集まった見物客たちが、手すり越しに遠くの富士山を眺めている
葛飾北斎「冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう」天保2〜4年(1831〜33)頃。表富士36図の1点。本所の五百羅漢寺にあった栄螺堂という物見の塔からの眺めを描いた1図で、富士そのものより、富士を眺める見物客たちの後ろ姿が主役です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この絵がおもしろいのは、描かれているのが「富士山を見るために出かけていく人々」だということです。名所を見物して回るという娯楽そのものが当時すでに一つの市場になっていて、その市場に向けて売られたのが「冨嶽三十六景」でした。絵の中の見物客と、絵を買った江戸の客とが、同じ欲求でつながっている構図になっています。西村屋与八がこの企画を当てられた背景には、名所見物というブームをすでに肌で理解していたことも大きかったのではないかと思います。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 身延川裏不二」。旅人と荷を積んだ馬の一行が山道を進み、雲の切れ間に赤茶色と紺色に塗り分けられた山肌、その奥に雪をかぶった富士がのぞく
葛飾北斎「冨嶽三十六景 身延川裏不二」天保3〜5年(1832〜34)頃。好評を受けて追加された裏富士10図のうちの1点。「裏」の字を含むこの図名が、追加10図全体の呼び名「裏富士」の由来とみられています。手前の岩山の輪郭は、表富士の藍とは違い、墨の線で彫られています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「甲州石班澤」と並べてみると、線の色が違うことに気づくと思います。表富士の2図では波や岩の輪郭が藍色の線でしたが、この裏富士の1枚では手前の岩山の輪郭が墨、つまり黒に近い色で彫られています。同じシリーズ名を掲げていても、生まれた順番によって作り方の芯が違う——それが、この1枚を見るだけで分かります。甲斐国(現在の山梨県)を流れる身延川沿いからの眺めで、江戸の人々にとってはなじみの薄い角度の富士が含まれているのも、追加分らしい特徴です。表富士36図の多くが江戸や東海道筋という「よく知られた側」からの富士だったのに対し、裏富士10図には内陸側からの、いわば通の視点の富士が混じっています。

版元印は「山型に三つ巴」

永寿堂の版元印は、山なりの形の中に三つ巴を配した意匠で、店先の日除け暖簾にも大きく染め抜かれていたと伝わります。蔦屋耕書堂の富士山形に蔦の葉、あとで触れる保永堂の「竹孫」の字そのものを刻んだだけの印と並べてみると、店ごとに印のデザインへのこだわり方がまるで違うことが分かります。永寿堂の場合は、屋号を看板として大きく掲げる商売のスタイルだったのだろうと思います。絵の余白でこの印を見つけたら、それは老舗・永寿堂が世に送り出した1枚だという証です。版元印そのものの探し方や、絵師の落款との位置関係は版元列伝の他の回でも扱っています。

36図で完結するはずだった企画が、売れ行きひとつで46図に膨らむ。今の連載コンテンツや続編商法と、発想としてはそう遠くありません。西村屋与八という版元の仕事を通して見えてくるのは、絵師の才能だけでは説明のつかない、もう一つの現場です。図の中身をもっと見たい方は全46図ガイドへ、北斎という絵師そのものをもっと知りたい方は葛飾北斎——絵師個別ページへ、続けてどうぞ。

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