葛飾北斎——90年、まだ足りないと思っていた人

北斎は、90年生きて、最後まで自分をまだ未熟だと思っていた人です。数え90歳で没する直前まで筆を握り続け、73歳のときにようやく鳥や獣の骨格、草木の生え方が分かってきたと自分で書き残しています。「神奈川沖浪裏」の1枚を覚えて満足するには、あまりにもったいない画業です。

「神奈川沖浪裏」「赤富士」だけが北斎ではない

冨嶽三十六景といえば、まず思い浮かぶのは大波の向こうに富士が見える「神奈川沖浪裏」と、山肌が赤く染まる「凱風快晴」でしょう。この2図はあまりに有名なので、当サイトでもすでに別の記事で扱っています。全46図の一覧と代表2図の見どころは冨嶽三十六景 全46図ガイドにまとめましたので、シリーズ全体を俯瞰したい方はそちらを先にどうぞ。

このページでは主役を変えます。北斎という絵師の凄みは、あの2枚だけでは測れません。三十六景の中でも地味な扱いを受けがちな図、そして富士とはまったく関係のない花鳥画や版本にこそ、90年かけて絵を描き続けた人の手つきがよく表れています。メトロポリタン美術館とシカゴ美術館のデジタル公開分をのぞくだけでも、三十六景の別図、旅の版本、花や鳥を描いた揃物、読み物の挿絵と、北斎の仕事は数えるのが嫌になるほど出てきます。しかもそれで、生涯の一部でしかありません。

冨嶽三十六景、波と赤富士のほかの4図

三十六景は全46図中、表富士36図の大半が同じ発想で作られています。富士の頂を画面の主役に据えず、江戸や東海道沿いで働く人々の日常の向こうに、小さく静かに置く。ここに挙げる4図は、いずれも富士そのものより手前の人間の営みが主役に見えるほど、富士を控えめに置いた作品です。まずは実物を見てください。

尾州不二見原——桶の中に富士を落とし込む

葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」。巨大な桶の枠の中で職人がかがんで作業をしており、桶の丸い開口部の奥に小さな富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」天保元〜4年(1830〜33)頃。桶職人自身がすっぽり入ってしまうほど巨大な桶を、輪の内側から見た構図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

尾張国(現在の名古屋)の桶屋を描いた1枚です。画面の大半を占めるのは、職人が組み上げている途中の巨大な桶。その丸い枠の奥、隙間からのぞくようにして富士が小さく顔を出しています。桶の円と富士の三角形、まったく違う形をわざと重ねて見せる遊び心が北斎らしいところです。主役の座を桶職人に譲り、富士を額縁の奥に押し込めてしまう思い切りのよさは、名所絵としては相当に大胆な選択です。

甲州石班沢——網と岩と富士、三つの三角形

葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州石班沢」。岩の上に立つ漁師が両手で網を引き、その足元にしゃがむ子どもが魚籠をのぞき込んでいる。奥には大きな富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州石班沢」天保元〜4年(1830〜33)頃。甲斐国(現・山梨県)鰍沢の川漁の場面です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この図では富士がほかの3図ほど小さくありません。画面右上にどっしりと構えています。それでも見てほしいのは、突き出た岩の斜面、漁師が両手で引く網の線、そして富士の裾野の傾き——この3つが、互いに似た角度の斜線として響き合っていることです。父親らしい漁師が網を絞り、足元で子どもが魚籠をのぞき込む生活の一場面と、悠然とした富士とを、幾何学の相似形でひとつの画面に縫い留めている。柄杓で水をすくうような単純な仕草の絵に見えて、構図の設計は驚くほど緻密です。私はこの1枚が三十六景の中で一番好きです。

駿州江尻——風だけを描くために富士を添える

葛飾北斎「冨嶽三十六景 駿州江尻」。強風の中、笠や紙が宙に舞い、旅人たちが体を折り曲げて風に耐えている。左奥に輪郭線だけの富士山が見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 駿州江尻」天保元〜4年(1830〜33)頃。駿河国江尻(現・静岡市清水区)の街道が舞台です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

主役は富士ではなく、目に見えない「風」です。飛ばされる紙、あおられる笠、木の葉のように舞う手拭い。旅人たちは体をくの字に折り、荷物を抱え込んで踏ん張っています。誰もが風と格闘しているのに、左奥の富士だけは輪郭線一本で涼しい顔をしている。この対比のために、北斎は富士をわざと目立たない存在に落としました。描けないはずの風を描くための舞台装置として富士を使う——名所絵でありながら、主題は名所そのものではないという逆転が起きています。

江戸日本橋——江戸の喧騒の奥に、遠慮がちな富士

葛飾北斎「冨嶽三十六景 江戸日本橋」。日本橋の上を魚河岸の商人たちが行き交い、川には荷船が並ぶ。奥に江戸城の天守と小さな富士山が霞んで見える
葛飾北斎「冨嶽三十六景 江戸日本橋」天保元〜4年(1830〜33)頃。日本橋の橋上から江戸城方面を見た構図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

橋の上は天秤棒を担いだ魚河岸の若い衆でぎゅうぎゅう詰めです。早朝、魚を運ぶ人と荷を積んだ舟でごった返す江戸のど真ん中の活気を、北斎は画面の下半分に押し込みました。その先、霞の向こうに江戸城の天守と、さらに小さな富士が並んで見えます。江戸っ子の日常があまりに騒がしいので、富士も城も遠い書割のように静かに佇む——同じ江戸に富士があることを忘れかけている人に、思い出させるような1枚です。

北斎の見分け方——富士の置き方と幾何学

ここまでの4図を並べると、北斎の富士の描き方には共通の癖が見えてきます。富士を画面の主役として画面いっぱいに置く「赤富士」型はむしろ例外で、多くの図では富士を小さく、遠くに、人間の営みの向こうにそっと添えています。そしてその置き方には、単なる遠近法ではない幾何学的な仕掛けが仕込まれていることが多いのです。

型1 丸で切り取る 尾州不二見原——桶の枠の奥に富士 型2 手前が主役 江戸日本橋・駿州江尻——人が大きく富士は点景 型3 三角の相似 甲州石班沢——富士・岩・網が同じ角度
三十六景に繰り返し現れる、富士の置き方の型を簡略化した図解です。円で切り取る/富士を点景にする/斜線を相似にそろえる、いずれも富士を単なる背景にしない工夫です。

人物の描き方にも型があります。北斎は主役級の人物であっても、輪郭を数本の線で済ませる戯画的な小ささで描くことが多く、顔の表情まで作り込むことはほとんどありません。それでも桶職人のかがんだ背中や、風に抗う旅人の前傾姿勢だけで、その人物が今どんな力を使っているかが一目で伝わります。細部を描き込むより、体の傾きひとつで動きを語らせる。これは役者絵からキャリアを始め、人体の骨格を生涯研究し続けた北斎ならではの省略の技術です。

色にも触れておきます。三十六景の空や海の濃淡は、当時輸入されたばかりの化学顔料ベロ藍(プルシアンブルー)によるものです。この藍がなければ、あの澄んだグラデーションは生まれませんでした。ベロ藍がどう摺られているかの詳しい話は版木・紙・顔料の記事に譲りますが、見分け方としてひとつだけ言えるのは、輪郭線までベロ藍に置き換えられている図が多いということです。墨の黒い輪郭に慣れた目には、線そのものが青みを帯びて見えるはずです。

展示室で北斎かどうか判断に迷ったら、まず富士か、あるいは富士に相当する自然物(滝・波・崖)を探し、それが画面の中心に堂々と据えられているか、それとも隅に追いやられているかを見てください。中心に堂々と据えられていれば「赤富士」寄りの直球型、隅に追いやられ、手前の人間や動物の営みが主役になっていれば、ここで見てきた北斎らしい変化球型です。同じ絵師の中にこの2種類が同居していることこそ、北斎を北斎たらしめている幅の広さだと思います。

富士だけではない——花鳥画と版本の北斎

三十六景を手がけていた70代前半、北斎は同時に花鳥画のシリーズにも取り組んでいました。風景画の合間に描いた片手間仕事ではありません。

葛飾北斎「鷽 垂桜」。深い藍色の背景に、垂れ下がった桜の枝と満開の花。枝に一羽の鷽が逆さまにとまっている
葛飾北斎「鷽(うそ)垂桜」天保5年(1834)頃。花鳥を主題にした大判揃物の1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

画面いっぱいの藍色を背景に、垂桜の枝が弧を描き、鷽(うそ、スズメ大の小鳥)が枝に逆さまにぶら下がっています。海の波を描くときと同じ、うねる曲線への執着がここにも表れていて、桜の枝の一本一本が風景画の波頭と同じ筆致で描かれているのが分かります。花鳥画というジャンルの中でも、静止した美しさより、風にしなる枝の動きそのものを捉えようとする姿勢が北斎らしいところです。この揃物には、こうした「動」の1枚と、羽を休めた鳥を淡々と写生した「静」の1枚とが並んでいて、両方の呼吸を描き分けられることが北斎の花鳥画の強みでもあります。

北斎はさらに古い時代、文化3年(1806)頃にも独自の「東海道五十三次」を版本の形で手がけています。三十六景のおよそ四半世紀前、歌川広重があの有名な「東海道五拾三次之内」を発表するさらに27年ほど前のことです。同じ東海道という主題に、若い時分と老いてからと、何十年も間を置いて向き合い直せる。それができるのは、長く生き、長く描き続けた画家だけの特権です。

北斎写真画譜の1丁。装束をまとった人物が寝椅子にもたれて空を見上げ、頭上を舞う2羽の蝶を眺めている。傍らに扇と香炉が置かれている
葛飾北斎「北斎写真画譜」文化11年(1814)刊、見開きの1丁。装束の人物が寝椅子にもたれ、頭上を舞う蝶を見上げています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

こちらは絵手本、つまり誰でも真似て描けるお手本として出版された版本の1丁です。数本の線だけで人物の姿勢と視線の先を成立させてしまう筆の速さと正確さが、北斎の絵手本の見どころです。北斎は生涯、こうした版本を数十種類も手がけました。中でも「北斎漫画」は森羅万象をスケッチし尽くす代表作として知られていますが、その画号にまつわる話は北斎、名前を30回変えた男で詳しく扱っていますので、ここでは深追いしません。

三十六景が世に出た直後の天保4〜5年(1833〜34)、数え74歳を迎えた北斎は立ち止まりませんでした。全国の滝を描いた「諸国瀧廻り」全8図、実在と伝説の橋を描いた「諸国名橋奇覧」全11図と、富士を離れた新シリーズを立て続けに発表しています。

葛飾北斎「諸国瀧廻り 美濃国養老の滝」。岩の間から一直線に流れ落ちる滝を見上げる旅人たちが、滝つぼの手前で休んでいる
葛飾北斎「諸国瀧廻り 美濃国養老の滝」天保4〜5年(1833〜34)頃。三十六景を完成させた直後に手がけたシリーズの1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

富士の代わりに、ここでは滝そのものが定規で引いたような直線で落ちてきます。「駿州江尻」で風を無数の斜線として描いた同じ手が、今度は水を無数の縦線として描いている。旅人たちは滝の飛沫を屋根のように受けながら休憩していて、自然の力の大きさに対して人間を小さく配置する構図の癖は、富士の絵から一歩も変わっていません。主題を富士から滝に切り替えても、北斎という絵師の見方そのものは同じだということがよく分かる1枚です。

同じ頃にまとめた画帖「富嶽百景」の跋文には、こう記されています。

「六歳より物の形状を写す癖があり、五十歳のころまでに数々の作品を発表してきたが、七十歳より前に描いたものは実に取るに足りない。七十三歳にしてようやく禽獣虫魚の骨格、草木の生い立ちが分かってきた。だから八十六歳ではさらに進み、九十歳でその奥義を極め、百歳になれば真に神妙の域に達するだろう。百十歳になれば、一点一格が生きているようになるに違いない」

数え75歳の絵師が書いた言葉です。冨嶽三十六景という頂点を極めたはずの直後に、自分はまだ道半ばだと言い切っている。これが北斎という人の実像だと思います。

手に入るのか

北斎の当時摺り(初摺・江戸期の摺り)は、オークションでも高額帯の常連です。冨嶽三十六景の名品が数百万円から、状態のよい揃いともなればさらに桁が上がることもあります。誰でも気軽に手が届く価格帯ではありません。

ただし北斎の仕事は錦絵だけではありません。版本・絵手本は元々が大量に刷られた実用書で、バラして1丁単位で流通することも多く、錦絵1枚よりずっと現実的な価格で見かけます。今回取り上げた「北斎写真画譜」のような絵手本も、もとは何十丁もある折本です。全丁揃いでなくても、1丁ごとに手もとに置いている愛好家は少なくありません。また明治以降の後摺や、近代以降の技術で摺り直された復刻版という入口もあります。当時摺りの1枚をいきなり最初の目標にするのではなく、まず版本の1丁や復刻から北斎の線に触れてみる。金額の相場観や、初摺・後摺・復刻の見分け方は現実的に手が届く浮世絵の記事価値の見方の記事にまとめていますので、興味を持った方はあわせてご覧ください。

どこで見られるか

北斎の作品を厚く所蔵する美術館は国内外に多くあります。海外ではメトロポリタン美術館とシカゴ美術館が、この記事で使った画像も含めて数百点規模のコレクションをCC0で公開しており、自宅からでも高解像度で線の1本まで確認できます。国内ではすみだ北斎美術館が北斎専門館として通期で作品を展示しており、生まれ育った本所の土地で見る北斎は格別です。同じ図柄でも所蔵館や摺りの時期によって色の出方が変わってくるので、1枚を見て満足せず、できれば複数の所蔵先を見比べてみてください。各館の特徴やデジタルアーカイブの使い方は海外の浮世絵美術館の記事デジタルアーカイブで見る記事にまとめています。

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