改印・年月印 早見表——絵の隅の判子から年代を絞る

押してある判子を数えるだけで、江戸の版画は年代がかなり絞れます。ただし嘉永以降の境目は、資料によって書いてあることが違います。違ったまま並べます。

数えるところから始めます

やることは単純です。絵の隅にある小さな判子を探して、いくつあるか、何が書いてあるかを見る。それだけで、いつ出た絵なのかが数年から十数年の幅に入ります。

判子には大きく三種類あります。丸い枠に「極」の一字が入ったもの。人の名字が彫ってあるもの。干支と月が入ったもの。この三つの組み合わせが、時期によって決まっています。

浮世絵の左上の拡大。丸い枠の中に「極」の一字が入った印と、その下に山形の中へ花を配した版元の印
丸い枠に「極」の一字。歌麿「三婦艶」寛政3年(1791)頃の左上から。下は版元の印です。この形が押してあれば、寛政2年(1790)から天保13年(1842)までの絵ということになります。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

動かないのは、この三つの区分です

資料を突き合わせて、複数が一致していたのが次の三つです。ここは信用してよいと思います。

押されているものと、その時期。小林忠・大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』(至文堂、1994)に基づく立命館大学ARCの区分と、愛好家がまとめた区分とで一致する部分です。
押してあるもの数時期
丸に「極」1つ寛政2年(1790)〜天保13年(1842)
名主(なぬし)の名の印1つ天保14年(1843)〜弘化4年(1847)
名主の名の印2つ弘化4年(1847)〜嘉永5年(1852)

「極」が単独で押される期間は五十年以上あるので、これだけでは年代を絞れません。逆に名主の名前が二つ並んでいたら、五年ほどの幅まで一気に狭まります。検閲と改印で書いたとおり、判子が増えたのは天保の改革で取り締まりが厳しくなったからで、監視の強さがそのまま紙の上に残っている形です。

名主単印の実例は、国芳「金魚づくし」の一図にあります。「玉や玉や」の右下に「村田」と読める角印が一つ押してあり、名主の名を刻んだ印だとすれば表の天保14年(1843)〜弘化4年(1847)に収まる。詳しくは一枚語り 第5回で見ています。

嘉永以降は、資料によって境目が違います

ここから先が厄介です。調べてみると、日本語で読める一覧が複数あって、区分の数も境目の年も揃っていませんでした。どれかを選んで一本の表にすることもできましたが、それでは食い違いが見えなくなります。並べて出します。

嘉永5年(1852)以降。左は小林忠・大久保純一に基づく区分、中と右はそれぞれ別の一覧の区分です。
時期立命館ARC(小林・大久保による)12区分の一覧美術商の一覧
嘉永5〜6年
(1852〜53)
名主双印と年月印の併用名主2つ+年月名主2つ+年月
嘉永6年〜安政4年
(1853〜57)
改印と年月印の併用「改」+月「改」+年月
安政4〜5年
(1857〜58)
年月印のみ年月のみ年月のみ
安政6年〜明治4年
(1859〜71)
年月改印「年月改」が一体の丸印1つ「改」+干支年月(慶応3年まで)
明治5〜8年
(1872〜75)
年月円印年月+十干十二支年月のみ(明治8年まで)

大枠は同じ方向を向いています。名主の名前が消えて「改」の一字になり、そこへ干支と月が加わり、やがて全部が一つの丸印にまとまって、明治の途中で消える。細かい境目は資料によって一年から二年ずれる、と思っておけばよさそうです。

判子は、どこに押してあるか

広重「名所江戸百景」の一図の左下隅の拡大。画面の左端に縦長の枠が置かれ、その中に小さな文字が縦に彫られている。右には赤い題箋と青い水面
広重「名所江戸百景 日本橋雪晴」安政3年(1856)の左下。画面の左端に縦長の枠があり、この中に判子が入っています。Web用の画像では中の字までは読み取れません。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

場所は決まっていません。絵柄の邪魔にならないところ、というのが唯一の原則です。空の隅、地面の隅、画面の左右の端。上の広重のように、絵の縁に縦長の枠を作って収めることもあります。

判子を探す四か所 絵の面 左上のあき 題箋の下 左端の縦枠 落款のそば 大判は縦およそ39cm。 判子は一辺1cm前後です。
押される場所に決まりはありませんが、この四か所を順に見ればだいたい見つかります。

年月印の読み方

年月印は、干支を一字と、月を漢数字で刻んだものです。立命館大学ARCが挙げている例では「酉正九」で文久元年(1861)9月を指します。

注意すべきは、干支が十二年で一周することです。「酉」とだけ書いてあっても、それが文久元年なのか、十二年前なのか、十二年後なのかは判子だけでは決まりません。絵師の活動時期、版元、シリーズの刊行年と突き合わせて絞ります。判子は年代を確定する道具ではなく、候補を減らす道具だと考えるのが正しいと思います。

閏月については、それを示す符号が使われたという記述を英語の資料で見つけましたが、実際の字形までは確認できませんでした。

明治になると、判子は消えます

錦絵の検閲印は明治の途中で終わります。代わりに入るのが、印刷日・発行日・発行者の住所氏名を刷り込んだ刊記です。

背景にあるのは出版条例で、明治2年(1869)に制定され、明治5年(1872)の改正で文部省への検印出願制になり、明治8年(1875)9月3日の改正で届出先が内務省に変わりました。印刷者と発行者の氏名住所を記すよう定めたのはこの改正ではなく、明治20年(1887)12月29日の勅令第76号による出版条例の全部改正です。明治8年から20年までの紙に入るのは「御届」の日付と「画工」「出版人」の住所氏名で、役名が入れ替わるのはその十二年後になります。錦絵の検閲印がいつ止まったかについては明治8年(1875)とする記述と1876年とする記述があり、揃っていません。

明治の戦争絵で取り上げた一枚には、「明治三十七年十月一日印刷」「同年同月六日発行」と版元の住所・電話番号までが赤い字で刷り込まれています。江戸の判子を探す作法は、そこではもう使えません。

この表は、公開されている複数の一覧を突き合わせて作ったものです。この分野の基本文献である石井研堂『錦絵の改印の考証』の原文と、小林忠・大久保純一の該当ページには当たれていません。名主の名前(村田、米良、渡、浜、村松ほか)の読みと活動年も確認が取れていないため、表には入れていません。境目の年が資料によって違う点は本文のとおりです。実物の年代判定に使うときは、必ず原典で確かめてください。

原典に当たりたい人へ

この判子を押していた名主というのは、町の行政を預かる町役人のことです。専門の検閲官ではありません。版画が一枚出るたびに、町役人が二人がかりで中身を確かめて名前の判子を押していた時期が、江戸には五年ほどありました。押された側の紙が、いま美術館のガラスの向こうにあります。

つづけて読む