明治の浮世絵 第4回 戦争絵——最後の大量生産

宣戦布告の八日後には、絵草紙屋にもう二十五種類が並んでいました。しかも絵師は誰も戦地を見ていません。浮世絵が最後にいちばん忙しかった時期の話です。

宣戦布告の八日後に、二十五種類

「朝鮮電報」大判三枚続。白い軍服に赤い帽子の将校が茶色の馬にまたがりサーベルを振りかざし、白衣に赤や黄の上着を着た兵が槍を構えて群がる。地面には倒れた人物、右奥に朱塗りの門と松
「朝鮮電報」明治27年(1894)。大判三枚続。左下の奥付に「明治廿七年八月」の印刷・発行と、発行者「山本与市」の名があります。宣戦布告と同じ月です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

日清戦争の宣戦布告は明治27年(1894)8月1日です。その八日後、8月9日付の読売新聞が、すでに二十五種類の錦絵が出版され、摺り上がるそばから絵草紙屋で争って持ち去られている、と報じています。

上の一枚の題は「朝鮮電報」。戦地の様子ではなく、戦地から届いた電報が題になっている。この題のつけ方が、戦争絵という商品の正体をよく表していると思います。

絵師は、戦地に行っていません

アジア歴史資料センターの日清戦争錦絵の解説は、これらの絵は絵師が実際に見聞したものではなく、当時の新聞をもとにしている、と明記しています。西南戦争(明治10年/1877)の錦絵についても同じで、絵師は現地へ行かず、記者経由の情報から想像で描いたとされます。

例外がなかったわけではありません。京都出身の日本画家・久保田米僊は明治23年(1890)に国民新聞社へ入り、日清戦争には画報記者として従軍しました。息子の久保田金僊も日清・日露の両方に従軍しています。ただしこの二人は新聞の挿絵と報道画の描き手で、版元が抱える錦絵の絵師ではありません。小林清親、水野年方、右田年英といった戦争絵の主力が自分で戦場を見たという記録には、行き着けませんでした。

第1回の錦絵新聞と比べると、速度が違います。錦絵新聞は事件から数か月遅れて出るものでした。戦争絵は数日です。同じ「絵で報じる」でも、間に合わせる相手が変わっています。

三枚続を、一枚の海として使う

右田年英「大孤山沖海軍の激戦」大判三枚続。暗い緑の波の上に巨大な軍艦の舳先が斜めに突き出し、船腹の下半分が朱色。中央で赤い炎が噴き出し、青と白の軍服の兵が海へ落ちていく。右に白い爆煙と黒煙、遠くに日章旗を掲げた艦
右田年英「大孤山沖海軍の激戦」明治27年(1894)。大判三枚続。軍艦の船体が三枚をまたいで一つの画面を占めています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

戦争絵はほとんどが大判三枚続でした。大きな戦闘の場面には、事実上この形式しか使われていません。

そして年英は、三枚を三枚として使っていません。軍艦の舳先が左の紙から中央へ突き抜け、船腹が右の紙まで伸びる。武者絵の第4回で見た国芳の骸骨と同じ使い方です。奇想の絵で発明された画面の使い方が、五十年後に軍艦を載せるために使われている。

波の描き方も、江戸から地続きです。手前の暗緑の波は、輪郭を白く抜いて重ねる、あの描き方をそのまま踏襲している。その上に鋼鉄の船が乗っているだけです。

もう一つ、構図がそのまま立場になっている点も見ておきます。手前で燃えて傾いているのは清国の艦で、青い軍服の兵が海へ落ちていく。日本の艦は右奥に小さく、無傷で浮かんでいます。誰の側から見た絵なのかは、説明を読む前に分かります。

赤が変わりました

戦争絵を並べていて目につくのは、赤の強さです。上の海戦図でいえば、船腹の朱と、噴き上がる炎の赤。

国立国会図書館の解説によれば、明治に入ると、それまで紅花などの植物染料で高価だった赤が、安価な輸入化学染料——アニリン系の赤——に置き換わり、大量に使われるようになりました。この鮮烈な赤や赤紫の色使いは「赤絵」と呼ばれ、文明開化を象徴する色として扱われます。第2回の開化絵で見た赤も、同じ流れの上にあります。

十年後、絵は笑いに変わりました

小林清親「日本万歳 百撰百笑」の一枚。白い軍服のロシア兵が渦巻き模様の目をして石橋の上でよろめいている。周囲は上半分いっぱいに細かい文字が刷られ、左端に赤い字で刊記が入る
小林清親「日本万歳 百撰百笑」明治37年(1904)。左端の赤い刊記に「明治三十七年十月一日印刷」「同年同月六日発行」、印刷兼発行者として日本橋区吉川町二番地の松木平吉、そして電話番号まで刷り込まれています。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

日露戦争(明治37〜38年/1904〜05)の時期になると、戦争絵の様子が変わります。上の一枚は戦闘の場面ではありません。目を渦巻きにしたロシア兵が石橋の上でよろめいているだけの戯画で、画面の上半分は骨皮道人という人物が書いた文章で埋まっています。

この一枚から読み取れることが二つあります。ひとつは速度。10月1日に印刷、10月6日に発行。五日です。もうひとつは、そこに電話番号が刷ってあること。江戸の版元の印とは別の世界の商売になっています。

戦況を伝える仕事は、このころにはもう錦絵の手を離れていました。写真報道が当たり前になり、発行の速さでも写実性でも値段でも、木版は印刷に勝てなくなっている。残ったのは、写真では作れないもの——つまり笑いと悪口でした。

そして、終わりました

点数の話をしておきます。日清戦争期の戦争絵がどれだけ出たかについては、三百点を超えると見る記述と、三千枚ほどと見る記述の両方があります。十倍近い開きがあるので、図柄の種類を数えているのか、摺られた枚数を数えているのか、母集団の定義が違うのだと思います。どちらも算出した研究者の名前までは辿れませんでした。

いずれにせよ日露戦争期には五十点に満たないと見られていて、激減したことは複数の資料が一致しています。日露戦争を境に、木版の戦争絵はほぼ途絶えました。次に人々が買ったのは、写真を使った絵葉書です。

浮世絵という商売が終わっていく話はなぜ浮世絵は廃れたのかに書きました。戦争絵はその最後の山です。いちばん売れて、いちばん速く作られて、そのすぐあとに市場ごと消えました。

いま買うとしたら

戦争絵は現存数が多く、値段も落ち着いています。海外の浮世絵専門店の解説では、オンラインでの典型的な価格帯は二百から四百ドル、五百ドルを超えるのは稀少なものに限られるとされます。右田年英の日露戦争の三枚続で八百五十ドルの落札例が挙げられている程度です。

国内の古書店でも、日清戦争ものの三枚続が二万円前後で並ぶことがあります。三枚続でこの価格帯というのは、浮世絵の中ではかなり手が届く部類です。手を出しやすい浮世絵にも書いたとおり、大量に摺られて残っているジャンルは、そのぶん買いやすい。

日清・日露の出版点数は、出典によって数え方が違い、算出した研究者名まで辿れませんでした。本文の数字は幅のまま示しています。価格は海外の専門店の解説と国内の在庫例から拾ったもので、相場そのものではありません。なお、清国兵を旧式に、あるいは醜く描く傾向については英語圏の解説が指摘していますが、日本語の学術的な論証にはこの記事の準備の範囲では当たれませんでした。ここでは絵に見えることだけを書いています。
松木平吉は屋号を大黒屋といい、小林清親の日清戦争の錦絵も手がけた版元です。上の一枚には、その松木平吉の住所と電話番号が赤い字で刷り込まれています。版元が刻んだ印を絵の隅に探す、という江戸の楽しみ方は、ここではもう成立しません。

次回は、商店の配りものへ

第5回は引札です。店が配った広告の紙で、木版から石版へ移っていく様子が一枚ずつの上に残っています。戦争絵が消えたあと、木版の職人がどこへ行ったのかという話でもあります。

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