東海道五拾三次 全55図ガイド——なぜ「五十三次」なのに55図あるのか

広重の代表作といえば「東海道五拾三次」。ところが「五十三次」という名前で数えていくと、途中で数が合わなくなります。実際は55図。名前と数のズレから、全55図の宿場名と副題、代表図の見どころ、そして55図をどう読むと面白いかまで、1枚にまとめました。

なぜ55図あるのか——53の宿場に、旅の両端を足す

「東海道五十三次」というときの「五十三」は、江戸と京都のあいだに置かれた53の宿場の数です。品川から大津まで、江戸幕府が整備した東海道の宿駅がちょうど53ありました。広重のシリーズ「東海道五拾三次之内」は、この53の宿場をそれぞれ1図ずつ描いています。ここまでなら53図で話が合います。

ところが広重は、旅の出発点である江戸・日本橋と、旅の終着点である京都・三条大橋にも、それぞれ1図をあてました。宿場ではない2地点が加わることで、53足す2で55図。シリーズ名は「五十三次」のままなので、実際に全図を並べてみると数が合わない——という食い違いが生まれています。冨嶽三十六景が「三十六」なのに46図あるのとは理由がまったく違いますが、「名前の数字と実際の図数が一致しない」という点では、広重・北斎どちらの代表作にも起きている現象です。日本橋を旅の起点として描き、三条大橋を旅の終点として描く。この構成のおかげで、55図を順番に並べるとそのまま東海道を歩く1本の旅程になります。宿場町の記録であると同時に、江戸から京都までの道のり全体を1つの物語として見せる仕掛けでもあるわけです。

東海道は、江戸幕府が整備した五街道の中でもとりわけ重視され、参勤交代や物流でも利用の多かった道です。江戸と京都という2つの大都市を結ぶ大動脈だったからこそ、その全行程を1つの揃物として売り出すという企画そのものが成立しました。53の宿場のどれかが欠けても、日本橋と三条大橋のどちらかが欠けても、「道のり全体を旅する」という体験は成立しません。55図という数字は、東海道という道の実際の構造をそのまま反映した数字でもあるわけです。

保永堂——広重を一躍有名にした版元

この「東海道五拾三次之内」が売り出されたのは天保4年(1833)頃。版元は保永堂(竹内孫八)と仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)の共同出版として始まり、天保5年(1834)頃までに全55図が刊行されたとみられています。途中から仙鶴堂は版元から外れ、保永堂の単独出版になりました。今このシリーズが「保永堂版」と通称されるのは、このためです。

広重は天保3年(1832)、幕府が朝廷へ馬を献上する行列に随行し、東海道を江戸から京都まで旅したとされます。この旅で得た写生が「東海道五拾三次之内」の下敷きになった、というのが一般に語られる成立事情です。ただし、広重が本当にこの行列に随行したかどうかについては、疑いを持つ研究者もいます。随行を裏づける記録は弟子の証言などにとどまり、確実な一次資料で確認できているわけではありません。旅の実体験があったにせよなかったにせよ、このシリーズが世に出た結果は動きません。空前の大ヒットとなり、広重は一躍、名所絵の第一人者としての地位を固めました。江戸の人々にとって東海道は、いつか歩いてみたい憧れの道でもありました。実際に旅をしなくても宿場の風情を味わえるこのシリーズが、旅行熱の高まりとぴたり重なったことも、ヒットの理由の一つだったろうと思います。

保永堂版 全55図一覧

番号は日本橋を1、京都・三条大橋を55とした通し番号です。副題は各図に添えられた文字をそのまま記しています。

東海道五拾三次之内(保永堂版) 全55図
番号宿場副題
1日本橋朝之景
2品川日之出
3川崎六郷渡舟
4神奈川台之景
5保土ヶ谷新町橋
6戸塚元町別道
7藤沢遊行寺
8平塚縄手道
9大磯虎ヶ雨
10小田原酒匂川
11箱根湖水図
12三島朝霧
13沼津黄昏図
14朝之富士
15吉原左富士
16蒲原夜之雪
17由井薩埵嶺
18興津興津川
19江尻三保遠望
20府中安倍川
21鞠子名物茶店
22岡部宇津之山
23藤枝人馬継立
24島田大井川駿岸
25金谷大井川遠岸
26日坂佐夜ノ中山
27掛川秋葉山遠望
28袋井出茶屋ノ図
29見附天竜川図
30浜松冬枯ノ図
31舞坂今切真景
32荒井渡舟ノ図
33白須賀汐見坂図
34二川猿ヶ馬場
35吉田豊川橋
36御油旅人留女
37赤坂旅舎招婦ノ図
38藤川棒鼻ノ図
39岡崎矢矧之橋
40池鯉鮒首夏馬市
41鳴海名物有松絞
42熱田神事
43桑名七里渡口
44四日市三重川
45石薬師石薬師寺
46庄野白雨
47亀山雪晴
48本陣早立
49坂之下筆捨嶺
50土山春之雨
51水口名物干瓢
52石部目川ノ里
53草津名物立場
54大津走井茶店
55京師三条大橋

天候と時刻で55図を読む

広重が天気と時刻にこだわる絵師だったという話は歌川広重の記事で書きました。その傾向は、実はこの東海道五拾三次にすでに出そろっています。副題だけを目で追ってみてください。「朝之景」「日之出」「朝霧」「朝之富士」と朝が並んだかと思えば、「黄昏図」で夕方に差しかかり、「夜之雪」で夜が来る。「白雨」は夏の夕立、「雪晴」は雪あがりの朝、「春之雨」は春の通り雨。晴れた日中を淡々と描いた図もありますが、55図全体を順に見ていくと、旅程には朝・昼・夕・夜と雨・雪・霧という気象の起伏がかなり計画的に配分されていることに気づきます。

これは偶然ではなく、55図をひとつの旅として見せるための組み立てだったはずです。同じ宿場でも晴天の日中に描けば単なる記録に終わりますが、霧や夕立、雪晴れという一瞬の天候を選ぶことで、その場所に「いつ」という時間の座標が生まれます。江戸から京都までの道のりを、広重は距離だけでなく時間の流れとしても描こうとした——そう考えると、55図をまとめて眺める楽しみ方が1つ増えます。

試しに55の副題を数えてみると、「朝」の字を含むものが3つ(日本橋・三島・原)、「雪」を含むものが2つ(蒲原・亀山)、「雨」を含むものが2つ(庄野・土山)、ほかに「日之出」「黄昏図」がそれぞれ1つ。全体の1割前後が、天候か時刻を名指しした副題ということになります。残りの大半は宿場の名物や地形を主題にしているので、割合としては多くありません。それでも、名物や地形を描いた図の中にも、空の色や光の向きで時間を語っているものが少なくない。副題に出てこない天候や時刻まで数えれば、実際の比率はもっと高くなるはずです。

代表図をじっくり見る

55図から4点、じっくり見ていきます。もし3枚だけ選ぶならと聞かれたら、私は「日本橋 朝之景」「三島 朝霧」「亀山 雪晴」を挙げます。旅の始まりと、朝の霧に包まれた道中と、雪あがりの峠。この3枚を並べるだけで、東海道五拾三次が単なる名所案内ではなく、天候と時刻をたどる1本の旅になっていることが分かるはずです。もう1枚、構図の大胆さで外せない「箱根 湖水図」も合わせて見ておきます。

日本橋 朝之景——旅がここから始まる

歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」。日本橋の上を大名行列が渡っていき、橋の下では魚河岸の舟が行き交う。朝焼けの空の下に江戸城と富士山が小さく見える
歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」天保8〜13年(1837〜42)頃の摺りとみられる1枚。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

55図の1番、旅の出発点です。空の下端をほんのりと紅色に染めているのが、夜明けの合図。橋の上では大名行列とみられる一団が粛々と渡っていく一方、橋の下では魚河岸へ向かう舟がすでに忙しく働いています。遠景には江戸城の櫓と、そのさらに奥にごく小さな富士山。近景の橋の賑わいと、遠景の静かな朝の空気が、1枚の中に同居しています。この構図が示しているのは「これから旅が始まる」という時間そのものです。55図をまとめて見るときは、ぜひこの1枚を最初に置いて眺めてみてください。ここから京都までの道のりが、朝という時刻を起点にして始まります。

三島 朝霧——霧の中の東海道

歌川広重「東海道五拾三次之内 三島 朝霧」。深い朝霧の中、鳥居や松の木、旅籠の屋根がぼんやりと霞み、駕籠を担ぐ人々と馬に乗った旅人のシルエットが浮かび上がる
歌川広重「東海道五拾三次之内 三島 朝霧」天保4〜5年(1833〜34)頃。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

画面のほとんどが灰色の靄に沈んでいます。三島大社の鳥居も、松の木も、旅籠の屋根も、輪郭だけがぼんやりと残る程度。手前の駕籠を担ぐ人足たちと馬上の旅人だけが、かろうじてそれと分かる濃さで描かれています。何も描かないことで霧の深さを表す、という逆説的なやり方です。同じ道でも晴れた日中に描けば、松並木や旅籠の意匠まで丁寧に見せることもできたはずですが、広重はあえてそれを霧の向こうに隠しました。見えないものを見せる、という広重らしい仕事がよく出ている1枚です。

亀山 雪晴——峠を上る小さな行列

歌川広重「東海道五拾三次之内 亀山 雪晴」。雪の積もった急な峠道を、荷を背負った小さな人物と馬の一団が上っていく。左手には夜明けのピンク色の空が広がり、右手の丘の上に雪をかぶった屋敷が見える
歌川広重「東海道五拾三次之内 亀山 雪晴」天保4〜5年(1833〜34)頃。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

画面の左半分を占めるのは、何も描かれていない紙の余白と、そこにうっすら差す朝焼けのピンク。右半分には雪をかぶった急斜面が大きく傾き、その斜面をたどるように小さな人馬の一団が峠を上っていきます。人物は米粒ほどの大きさしかありませんが、その小ささがかえって峠の急峻さと雪の深さを物語っています。「雪晴」という副題どおり、降り止んだばかりの澄んだ空気まで伝わってくるようです。斜面の傾斜と余白の使い方だけで奥行きと寒さを表現する、広重の構図の腕が凝縮された1枚だと思います。

箱根 湖水図——山を畳んで見せる

歌川広重「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」。折り重なるような角ばった山並みの間に芦ノ湖の水面がわずかに覗き、険しい山道を大名行列の一団が槍を掲げて進んでいく
歌川広重「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」天保8〜13年(1837〜42)頃の摺りとみられる1枚。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

「湖水図」という副題からすると主役は芦ノ湖のはずですが、実際に画面に見えている水面はごくわずかな三角の切れ端だけです。それより目を引くのは、屏風を折り畳んだような角ばった山並み。実際の箱根の山はここまで直線的ではありませんが、広重は険しさを強調するために稜線をあえて図形的にデフォルメしています。山道を進む一団が掲げる赤い槍の飾りが、灰色一色になりがちな画面に効いています。地図的な正確さより、峠を越える緊張感を優先した1枚です。名所図というより、山という障害物そのものを描いた図に近いと感じます。

保永堂版だけではない——広重の「東海道」は複数ある

ここまで見てきた保永堂版は、広重が最初に手がけた東海道五十三次です。ですが広重は、その後も何度も東海道を画題に選んでいます。天保末期に売り出された「行書東海道」は、シリーズ名が行書体で記されていることからそう呼ばれ、間判という保永堂版より小さめの画面に、大名行列の武士や商人、駕籠かき、旅籠の給仕といった東海道を行き交う人々を数多く描き込んだシリーズです。嘉永4年(1851)頃には「隷書東海道」も売り出されました。こちらはシリーズ名が隷書体で記されていることに由来する通称で、大判の画面いっぱいに宿場周辺の風光を広々と描き、雪景や雨景を織り交ぜて単調にならない工夫がされています。

つまり「広重の東海道五十三次」と一口に言っても、保永堂版・行書東海道・隷書東海道と、少なくとも3つの異なるシリーズが存在します。市場で「広重の東海道」という図柄を見かけたときは、まずどのシリーズなのかを確かめる必要があります。同じ宿場名でも版が違えば図柄も構図もまったく別物で、当然、評価も値段も変わってきます。このあたりの見極め方は同じ絵なのに値段が違う理由にまとめてあるので、東海道シリーズを探すときはあわせて読んでみてください。

全55図を見るには

保永堂版55図が状態のよい揃いのまま1組で市場に出ることはまれです。単図であっても、初摺と後摺、あるいは後の版元による後版とでは、線の鋭さや色数がまるで違います。この記事に載せた4点のうち、日本橋と箱根は天保8〜13年(1837〜42)頃、三島と亀山は天保4〜5年(1833〜34)頃と、シカゴ美術館の目録上でも摺りの時期がそれぞれ異なると判断されています。同じ図柄でも、どの時期の摺りかによって表情が変わってくるのは、広重のどのシリーズにも共通する話です。

気軽に全55図を見比べたいなら、デジタルアーカイブが近道です。シカゴ美術館は保永堂版のコレクションを70点近くCC0で公開しており、この記事で使った4点もそこから選んでいます。海外の美術館の公開状況やアクセス方法は海外の浮世絵美術館の記事にまとめました。国内で実物を見る機会を探すなら浮世絵を所蔵する美術館もあわせてどうぞ。

個人的に、55図を最初から順番に眺めるときにいちばん好きな瞬間は、日本橋の朝焼けから三島の霧へ移るところです。江戸の賑わいから一歩離れただけで、視界がここまで奪われるのかという落差に、旅の実感がぐっと近づいてきます。53の宿場と2つの起終点、あわせて55図。数え間違えそうな数字の向こうに、江戸から京都までの1本の道が、天候と時刻ごと畳み込まれています。

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