浮世絵の猫——絵師で見比べる

猫を溺愛した絵師といえば歌川国芳です。工房に何匹も猫を飼い、猫を主役にした絵まで残しています。ただ、猫を描いた絵師は国芳一人ではありません。写生に徹する絵師もいれば、猫を道具立てとして使う絵師もいる。同じ猫でも、誰が描いたかでまるで別の生き物に見えてきます。

江戸の町は、猫だらけだった

浮世絵に犬より猫がよく出てくるのには理由があります。江戸初期、ネズミの害から人々の暮らしと商売を守るため、慶長7年(1602)に京都で猫を放し飼いにするよう命じるお触れが出されました。それまで猫は紐でつないで飼う高価な生き物でしたが、この頃を境に町なかを自由に歩く存在になっていきます。養蚕農家にとっては繭を、書物を扱う商家にとっては大切な蔵書を、ネズミからこの一匹が守ってくれる。つまり猫は最初、可愛がる対象である前に働く益獣でした。

犬は町内で共有される野良に近い存在だったのに対し、猫は屋内で特定の人間になつく生き物です。長屋の一室でも飼える身近さと、鼠除けという実利。この二つがそろって、猫は江戸の暮らしのすぐそばにいる動物になりました。養蚕が盛んな地域では、鼠取りの上手な猫が馬の五倍もの値をつけたという話まで残っています。繭が食い荒らされれば一年分の収入が消えるわけですから、猫一匹に大金を出す判断は誇張とも言い切れません。江戸後期になると、益獣としての実利とは別に、絵や芝居のなかで猫そのものを面白がる「猫ブーム」が起きます。国芳の猫絵が売れたのも、この土壌があってのことです。

絵師によって、猫の描き方はまるで違う

猫という同じ主題でも、絵師の目の使い方が違うと絵はまったく別物になります。まずは湖龍斎の一枚から見てください。

磯田湖龍斎「金魚を狙う猫」。金魚鉢を覗き込み、片足を鉢の縁にかけて金魚に手を伸ばそうとする白地に縞模様の猫
磯田湖龍斎「金魚を狙う猫」明和〜安永期(1770年代前半)頃。前脚をそろりと鉢の縁にかけ、尻を高く上げて金魚を狙う一瞬。頭に結ばれた赤い飾りは飼い猫の証で、鉢の中で逃げ惑う金魚の表情まで描き分けられています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

磯田湖龍斎(1735年生、没年不詳)は、元は常陸土浦藩士だったと伝わる絵師で、鈴木春信の没後、その画風を引き継ぐかたちで美人画の人気絵師になりました。その目が猫に向くと、姿かたちを大づかみにするのではなく、獲物をうかがう一瞬の緊張をそのまま止めてしまう。耳の角度、伸ばした前脚の重心、丸めた背中——猫を飼ったことのある人ほど「これは見たことがある姿勢だ」と感じるはずです。美人画で培った、一瞬の仕草を切り取る技術が、そのまま猫にも生きています。

次は北渓です。魚屋北渓(1780〜1850)は葛飾北斎の門人で、四谷で魚屋を営む家に生まれ、その屋号をそのまま画号にしました。大量に売れる錦絵ではなく、狂歌師や俳人が仲間内で配る摺物を主戦場にした絵師です。

魚屋北渓「三十六禽続 猫」。緑のリボンと鈴をつけた猫が仰向けに近い姿勢で、飛んでいる蝶のおもちゃに前脚を伸ばしている
魚屋北渓「三十六禽続 猫」(おもちゃの蝶と遊ぶ猫)文政11年(1828)頃。上部には狂歌が刷り込まれ、絵と文字が一枚のなかで釣り合うよう配置されています。鈴のついた首紐、宙返りしそうな体のひねりまで、遊び相手として飼われる猫の姿がよく出た一枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この摺物は、限られた数だけ配られる私家版だったぶん、彫りも摺りも贅を尽くしています。猫の毛並みは何色ものぼかしで表され、蝶を目で追う瞬間の体のひねりも決まっています。北渓の猫は、私はこの一枚が一番好きです。玩具の蝶と戯れる無邪気さと、上等な紙と絵具を惜しみなく使った仕上がりの落差が、見るたびに面白く感じられます。

最後は広重です。広重の猫は、湖龍斎や北渓のように猫そのものが主役ではありません。

歌川広重「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」。障子窓の敷居に座る白猫の後ろ姿越しに、田んぼの向こうの富士山と酉の町詣の行列が見える構図
歌川広重「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」安政4年(1857)。手前に猫の後ろ姿、奥に富士山と祭りの人波という二重の遠近法。窓辺に落ちた煙管入れと茶碗が、この部屋の主が留守にしていることをそれとなく語っています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

広重の猫は構図の道具です。この絵は吉原の見世の二階から見た眺めとされ、丸まった背中の丸みが、格子窓の直線と田んぼの奥行きをつなぐ蝶番のように働いています。猫は招いた客を送り出した後の、がらんとした部屋の静けさを体現する存在でもあります。同じ猫を描いても、湖龍斎と北渓が「猫という生き物」を見つめているのに対し、広重は「猫のいる情景」を見つめている。この距離の取り方の違いが、三枚を並べるとはっきり分かります。

猫の描き方、三つの型 写生の猫 湖龍斎・北渓 仕草の一瞬を止める 情景の猫 広重 画面をつなぐ蝶番 擬人化・化け物の猫 国芳 現実の外へ踏み出す
湖龍斎・北渓のように猫そのものの仕草を写す型、広重のように猫を構図の一部として使う型、そして国芳のように猫を二本足で立たせたり妖怪に変えたりする型。同じ主題でも、絵師が猫のどこを見ているかで結果がこれだけ変わります。国芳の猫については歌川国芳のページで詳しく紹介しています。

美人画の中の猫——膝もとの小道具

先ほどの広重の一枚を思い出してください。部屋の主である女性の姿はどこにも描かれていませんが、脱ぎ捨てられた煙管入れと茶碗、それに窓辺で毛づくろいする猫だけで、そこに人がいたことが分かる仕掛けになっています。これは美人画における猫の使われ方の延長線上にあります。遊女や町娘を描いた絵で、猫はしばしば足もとや膝の上に置かれ、抱かれた腕のしどけなさや、部屋にひとりでいる時間の長さを語る小道具になりました。

猫に紐をつけて描く型には、もう一つ元ネタがあります。『源氏物語』の「若菜上」で、女三の宮の飼い猫が御簾を引っかけてめくり上げてしまい、そこに立つ姫の姿を柏木が垣間見てしまう場面です。この一件が二人の道ならぬ恋の発端になるため、後世の絵師たちは紐につながれた猫を、恋愛や色恋を匂わせる記号として使うようになりました。美人画の中の猫は、ただの飼い猫ではなく、こうした古典の記憶を背負っていることがあります。

猫が高価な生き物だった時代の名残もあります。誰もが飼えるわけではない猫を膝に乗せていること自体が、その女性の暮らし向きや部屋の格を示すことにもなったはずです。国芳が「猫飼好五十三疋」で猫を擬人化して主役に据えたのは、この「添え物としての猫」という長い伝統があったからこそ、ひっくり返して見せる面白さが成立したのだと思います。

化け猫・猫又という怪異

猫だけが化けるとされたのはなぜか。江戸中期の有職家・伊勢貞丈は随筆『安斎随筆』に「数歳を経た猫は尾が二股に分かれ、猫又という妖怪になる」と書き残しています。猫又の「また」は、この尾が分かれた見た目、つまり股が分かれることに由来するというのが有力な説です。長く生きた猫を怖れる感覚は各地に広まり、猫を十年、二十年と飼い続けるものではないという俗信まで生まれました。江戸の説話集『耳嚢』には、猫は十年も生きれば言葉をしゃべるようになるという話も載っています。

猫又や化け猫の噂は品川宿でも語られました。ある遊女が夜な夜な猫の正体を現すという「化猫遊女」の噂話が広まり、芝居にも仕立てられています。国芳の「岡崎の猫また騒動」が旅の宿を舞台にした怪異なら、こちらは遊里という別の場所を舞台にした化け猫伝説です。猫又の話がなぜこれほど広く語られたのかは、奇想・ゲテモノ特集でも別の角度から触れています。

怪異とされた理由には、実際の猫の癖もからんでいたようです。当時の行灯には安価なイワシ油が使われ、猫はこれを好んで舐めました。皿に届くよう後ろ足だけで立ち上がる姿勢は、四つ足で歩くはずの生き物が急に人間のように直立する瞬間に見えます。江戸の百科事典『和漢三才図会』も、猫が灯明の油を舐めることを怪異の兆しの一つに数えていました。日中は人になつき、夜は暗闇を音もなく歩く。目が光り、爪を隠して足音を消す。身近な生き物であるほど、その正体の見えなさが恐怖にすり替わりやすかったのだろうと思います。

手に入るのか

猫を描いた浮世絵は、現代でも根強い人気のジャンルです。国芳の猫絵は数が多く残っている分、良い状態の初摺は競り合いになりやすく、後摺や状態違いまで含めれば選択肢は広がります。湖龍斎や北渓のような猫単体の作品は、そもそも制作数や現存数が国芳ほど多くありません。相場の感覚や、価格帯ごとに何を見て選ぶべきかは手が届く価格帯の話にまとめてありますので、猫の絵から浮世絵集めを始めてみたい方は参考にしてください。

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