浮世絵の幽霊と妖怪

浮世絵の幽霊は、たいてい何かが足りません。足がない。輪郭がぼやけている。画面の隅にいて、こちらをまっすぐ見ていない。全部を描き込んで驚かせる絵師もいる中で、幽霊絵の絵師たちは逆をやります。何を描かないかで、見る者の想像を働かせる。恐怖は、絵師が引き算をした場所に生まれます。

見せないことで、怖がらせる

妖怪絵は、たいてい全部を見せます。骸骨は骨の形のまま大きく、化け猫は牙をむいた顔まではっきりと。ところが幽霊絵は違います。輪郭は霧の中に溶けるようにぼかされ、下半身は描かれずに消え、髪は顔の半分を覆い隠す。この「引き算」こそが、幽霊絵という様式の核心だと思います。全部を見せられると、見る側は絵師が用意した恐怖をそのまま受け取るだけです。でも足りない部分があると、見る側は自分の想像でその空白を埋めようとする。埋めた瞬間に、恐怖は絵の外にいる自分自身のものになります。浮世絵の幽霊が長く怖がられ続けてきた理由は、案外このあたりにあるのではないかと思っています。

幽霊絵の定型——何が描かれ、何が描かれないか 胴から下は輪郭が薄れ、足は描かれない 描かれるもの ・青白くぼかされた顔 ・垂れた黒髪 ・見開いた、あるいは伏せた目 描かれないもの ・足、下半身の輪郭 ・背景の細部(暗く沈める) ・体の輪郭線そのもの
幽霊絵に繰り返し現れる型を簡略化した図解です。妖怪絵が姿かたちをはっきり描き込むのに対し、幽霊絵は輪郭をぼかし、下半身や足を描かないことで、見る者の想像に恐怖を委ねます。

幽霊に足がない、はいつから

「幽霊に足がない」という表現がいつ定着したのかは、はっきりと断定できていません。江戸中期の画家・円山応挙が足のない幽霊を描いたことがきっかけだ、という説がよく知られていて、応挙の夢枕に亡き妻が足のない姿で現れた、あるいは行徳で見た幽霊をとっさに描いたら足を描き忘れた、といった逸話も伝わっています。ただしこの応挙起源説には異論もあり、応挙が生まれるよりも前の時代に、すでに足のない幽霊の表現が存在していたという指摘もされています。誰が最初に描いたかを一人の絵師に絞り込むのは難しく、複数の絵師が似た表現にたどり着いた、と考えるほうが実情に近いのだろうと思います。

勝川春章の二枚続。左に白い着物姿の女の幽霊が輪郭を下方に向けて細くすぼめながら立ち、足元は描かれていない。右では男が驚いて仰向けに転倒している
勝川春章、川の上に立つ女の幽霊に驚いてのけぞる男を描いた二枚続。天明2年(1782)頃。定まった邦題は伝わっておらず、所蔵館は "Man Falling Backward, Startled by a Woman's Ghost over a River" と記載しています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見てほしいのは、左側の幽霊の輪郭です。着物の裾に向かうにつれて体の幅がすぼまり、足元ははっきりした形を持たないまま宙に消えています。18世紀後半という早い時期の作品ですが、この「下にいくほど輪郭が細くなって消える」という描き方は、後の幽霊絵にも繰り返し現れる型です。右側の男が仰向けにひっくり返る驚きようと、左側の幽霊の静かな佇まいの落差も見どころです。動と静を対比させることで、幽霊側の不気味な静けさがより際立って見えます。

役者絵になった幽霊——お岩、四谷怪談

浮世絵の幽霊を語るうえで欠かせないのが、四谷怪談のお岩です。四世鶴屋南北が書いた歌舞伎「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)、江戸・中村座で初演されました。夫の伊右衛門に裏切られ、毒によって顔を醜く崩されて死んだお岩が、幽霊となって夫に祟る物語です。この芝居が大当たりを取ると、浮世絵師たちはお岩を演じる役者の姿を次々と役者絵に仕立てました。歌川国貞や三代歌川豊国が、伊右衛門役やお岩役の役者を描いた作品を残しています。幽霊が単なる怪異の記号ではなく、「あの役者が演じたあの場面」として消費される。芝居の人気がそのまま浮世絵の題材になっていく、この回路が幽霊絵というジャンルを大きく育てました。

歌川国貞「お岩の亡霊」。長い黒髪を乱した青白い顔の女の幽霊が、竹藪を背に立つ。着物の裾は輪郭がぼやけて溶けるように消え、足元は描かれていない
歌川国貞(三代豊国)「お岩の亡霊」1860年代(万延・文久年間)頃。四谷怪談のお岩を、役者絵の形式で幽霊として描いた作品です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この絵で見てほしいのは、着物の裾です。上半身はしっかりした輪郭で描かれているのに、腰から下にかけて着物の線が徐々に崩れ、最後は輪郭のない白い塊になって消えています。足がないというより、足のあるべき場所そのものが描かれていない。青白い顔と乱れた黒髪という幽霊の定型がここにも表れていますが、それ以上に、この「消え方」の設計にこそ絵師の腕が出ていると思います。

妖怪と幽霊、何が違うのか

幽霊と妖怪は、混同されがちですがもとは別のものです。幽霊は、人が死んだのちにその恨みや未練が形になって現れるもので、多くの場合、特定の相手の前にしか姿を見せません。お岩が伊右衛門の前に現れるのはこのためです。一方の妖怪は、動物や器物が変化したもので、場所に結びついて現れ、誰の前にでも姿を見せます。骸骨や化け猫、土蜘蛛といった妖怪は、この「場所に出る、相手を選ばない」という性質を持っています。骸骨や化け猫を描いた作品は当サイトの奇想の浮世絵の記事で詳しく扱っているので、ここでは幽霊との違いを押さえるにとどめます。

この違いを踏まえて見ると、幽霊絵と妖怪絵とでは怖がらせ方の設計そのものが違うことに気づきます。妖怪絵は姿の異形さで驚かせる一方向の恐怖ですが、幽霊絵は「この人はなぜここにいるのか」という因縁を知っていて初めて怖さが増す、双方向の恐怖です。お岩の絵が怖いのは、姿の異様さだけでなく、見る側が四谷怪談の筋書きを知っているからでもあります。

皿を数える幽霊——見せないことの極限

浮世絵師の中でも、この「見せない」技術をもっとも極端な形で試したのが葛飾北斎です。天保2〜3年(1831〜32)頃に手がけた「百物語」というシリーズは、江戸で流行した怪談会「百物語」にちなんで、5枚だけ制作されました。そのうちの1枚「さらやしき」は、皿屋敷の怪談に登場するお菊を描いたものです。

葛飾北斎「百物語 さらやしき」。長い黒髪の女の首だけが宙に浮かび、髪が下方に長く伸びて何枚もの皿が連なった蛇のような形に変わっている。口から白い煙のようなものが立ちのぼる
葛飾北斎「百物語 さらやしき」天保2〜3年(1831〜32)頃。皿屋敷の怪談に登場するお菊を描いています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

この絵に、体はありません。首から下は、長い髪がそのまま皿の連なりに変わっていくという奇抜な発想で処理されていて、胴も手も足も一切描かれていません。口元からは白い煙のようなものがひとすじ立ちのぼっていて、これが「一枚、二枚……」と皿を数える声そのものに見えてきます。井戸に投げ込まれ、夜な夜な皿を数えるという物語の核心だけを、髪と皿という2つのモチーフに凝縮している。妖怪画で培った奇抜な造形力を、ここでは「何も足さない」方向にとことん振り切っています。私はこの記事で取り上げた作品の中で、この1枚がいちばん怖いと思っています。体がないという欠落そのものが、そのまま怪談の筋を語ってしまっているからです。

なぜ夏に怪談が流行ったのか

夏になると怪談が語られる、という習慣は江戸時代にできあがったものです。理由はひとつではありません。まず、冷房設備のない芝居小屋では夏場に客足が落ち込みがちで、看板役者が地方巡業や休暇に出てしまう時期でもありました。そこで若手の役者たちが、大掛かりな仕掛けを使った怪談芝居を「涼み芝居」として上演したところ評判を呼び、夏の演目として定着していったといわれます。加えて、お盆という先祖の霊を迎える行事が夏にあることも、この時期を「あの世が近く感じられる季節」にしていました。冷房のない時代、怖い話を聞いてぞっとする感覚そのものが、暑さをしのぐ娯楽でもあったのでしょう。芝居興行の都合、信仰、涼をとる遊び。この3つが重なって、夏は怪談の季節になりました。

ぼかしが作る青白さ

幽霊の顔の青白さは、絵の具の色だけで作られているわけではありません。摺師が版木の上で顔料と水の量を調整しながら一方向に刷り込む「ぼかし」という技法によって、輪郭のはっきりしない、じわりと滲むような肌の色が生まれます。北斎の「さらやしき」を見ると、背景は上部の藍が下にいくほど淡くなり、地の色に溶けていくグラデーションになっています。輪郭を描き切らずに色を沈ませていくこの摺りの技術が、幽霊絵の不気味さを支える土台になっています。線で描き切る妖怪絵と、ぼかしで沈める幽霊絵。同じ版元・同じ絵師の仕事でも、題材によって摺りの狙いそのものが変わってくるのは興味深いところです。

足を描かない、輪郭を溶かす、体を髪と皿に置き換える。浮世絵の幽霊たちは、驚かせる情報を増やすのではなく、減らすことで恐怖を作ってきました。国芳の骸骨や化け猫が全身をくっきり描き切っていたことを思うと、この引き算は不器用さではなく、意図して選び取った方法だったのだと分かります。次に幽霊絵を目にしたときは、描かれている部分だけでなく、描かれていない部分にも目を向けてみてください。そこにこそ、絵師が仕掛けた恐怖の設計図があります。

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