鳥居清長――日本人離れした八頭身を描いた人

天明年間(1781〜1789)のおよそ十年間だけ、浮世絵の美人はすらりと背が高くなりました。その頭身を作った張本人が、鳥居清長です。

清長という名前は、歌麿や写楽ほど広くは知られていません。それでも天明期の浮世絵を1枚でも目にしたことがあるなら、もう清長の仕事を見ています。頭ひとつぶん、いや二つぶん引き伸ばされたような、すらりとした八頭身の女性たち。あの体型を浮世絵の世界に持ち込んだのが清長で、「江戸のヴィーナス」と呼ばれることさえあります。北斎・広重・歌麿・写楽と並んで六大浮世絵師の一人に数えられる人ですが、その代表的な仕事はわずか十年足らずに集中しています。

八頭身が生まれた十年間

清長は宝暦2年(1752)、江戸本材木町の書物問屋・白子屋市兵衛の子に生まれたと伝わります。俗称は新助、のちに市兵衛。姓は関、一説に関口ともいわれ、細部まで確定しているわけではありません。10代のうちに鳥居派3代目・初代清満に入門し、明和4年(1767)ごろから細判紅摺絵の役者絵で世に出ました。鳥居派は代々、歌舞伎小屋の看板絵と番付絵を家業とする一門で、清長もまず役者絵の修業から絵師人生を始めています。

転機は天明年間、30代に入ってからです。役者絵中心の仕事から離れ、大判の美人画に軸足を移すと、それまでの浮世絵になかった長身のプロポーションで女性を描き始めました。複数の美人を横一列に並べ、背景には実在の名所を描き込む。これが江戸っ子の目に新鮮に映り、清長は一気に浮世絵界の中心に躍り出ます。天明3年(1783)ごろから7年(1787)ごろまでのわずかな期間に集中する仕事ですが、この十年に満たない黄金期だけで、清長は六大浮世絵師の椅子を確保しました。

代表作を実際に見る

見てほしい作品を4点選びました。どれも人物の背が高いだけでなく、構図の作り方そのものが清長らしい絵です。

鳥居清長の二枚続。藤棚の下、亀戸天神の池と橋を背景に、着飾った女性たちが橋のたもとで語らう様子を描く
鳥居清長「亀戸の藤見」天明6年(1786)頃。二枚続の大判で、藤棚の向こうに亀戸天神の実際の池と橋を描き込んでいます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見る:右の画面と左の画面で、女性たちの視線がゆるくつながっている点に注目してください。2枚の紙をまたいでも視線の流れは途切れず、ひと続きの奥行きのある空間に見えてきます。藤棚の垂れ方や池の対岸まで、実在の亀戸天神の風景がかなり具体的に描き込まれている点も見どころです。

鳥居清長の三枚続。隅田川沿いの物干し場で、長い反物を数人がかりで張り、桶で洗濯する女性たちを描く大判の群像図
鳥居清長「洗濯と張り物」天明期(1780年代)後期。三枚続の大判で、洗濯・張り物という庶民の日常労働を、隅田川沿いの実景を背にした群像図に仕立てています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見る:横幅120センチ近い画面に、洗い物をする女性、反物を張る女性、縁側でくつろぐ女性まで、7〜8人が絶妙な間隔で配置されています。全員が同じ方向を向くのではなく、それぞれ違う作業に手を動かしている点が、静止した群像図をぐっと生き生きとさせています。私はこの1枚が清長作品の中でいちばん好きです。美人画なのに、働く人の絵として普通に面白いからです。

鳥居清長の大判。大きな傘をさしかける供を中心に、5人の人物が横に連なって歩く姿を描く
鳥居清長「風俗東之錦」のうち、傘持つ供を連れた娘。天明3〜4年(1783〜84)頃。全20図からなる清長の代表的シリーズの1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見る:5人の人物を横一列に並べた構図そのものが清長の型です。手前と奥で微妙に重なりをずらし、単調な横並びにならないよう工夫しているのが分かります。着物の柄がひとりずつ違うのも、見比べる楽しさを作っています。

鳥居清長の中判。駒形堂の石垣と松の枝を手前に、隅田川の対岸まで見渡す構図で、着物姿の男女3人を描く
鳥居清長「浅草金龍山八境」のうち、駒形堂からの眺め。天明2年(1782)頃。浅草寺周辺の実在の8か所を描いたシリーズの1図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見る:手前の人物と同じくらいの筆致で、対岸の隅田川の家並みや行き交う舟まで描き込まれています。背景の隅田川も、人物と変わらない熱量で描き込まれています。実景そのものが画面の主役級として立ち上がってくるのが、清長らしいところです。

清長の見分け方

八頭身のプロポーション――歌麿より頭ひとつぶん長い

清長を見分ける最大の手がかりは、やはり体の長さです。江戸中期までの浮世絵の美人は、6頭身前後で描かれるのが標準でした。清長はここに8頭身という当時としては極端な引き伸ばしを持ち込みます。頭の大きさ自体は変えず、胴と脚だけを伸ばす。だから余計に「日本人離れ」した印象になるのです。この体型は清長ひとりの発明というより天明期の流行そのものでしたが、その流行を作った震源地が清長でした。

歌麿がよく描いた頭身(六頭身前後) 6 清長が確立した頭身(八頭身) 8
頭の大きさをそろえたまま体の長さだけを比べた概念図です。左が江戸中期までの標準的な体型(六頭身前後)、右が清長の体型(八頭身)。同じ地面に立たせると、清長の人物は頭ひとつぶん以上高い位置に頭が来ます。実際の作品の写しではなく、頭身差を示すための簡略図です。

複数の女性を横に並べて群像にする

清長は美人を1人だけ大きく描くより、3人・4人・5人と横に並べる構図を好みました。先ほどの「風俗東之錦」の1図がその典型です。体の向きや視線をひとりずつ微妙にずらし、重なりに奥行きを持たせているのがポイントです。ただ横一列に並べただけでは、この奥行きは生まれません。歌麿が1人の女性の表情に寄っていくのと対照的に、清長は複数人の関係性そのものを画面に収めようとしています。

背景に実在の風景を入れる

「亀戸の藤見」の藤棚と池、「浅草金龍山八境」の隅田川。清長は美人画の背景に、江戸の実在の名所をかなり具体的に描き込みます。人物の添え物としての風景ではなく、その場所に確かに立っているという実感を作る背景です。この手法は、のちの広重の名所絵にもつながる江戸の「今」を描く感覚を先取りしていたとも言えます。

二枚続・三枚続を横長の一画面として使う

「洗濯と張り物」のような三枚続、「亀戸の藤見」のような二枚続。清長が設計するのは、いつもひと続きの横長パノラマです。3枚・2枚に分かれた画面という発想が、そもそもありません。紙のつなぎ目をまたいで人物の視線や反物が伸びていく構図は、清長のこの時期の作品に繰り返し現れる手法です。

鳥居派四代目を継ぐということ

この黄金の十年間は、清長自身が終わらせたようなところがあります。天明5年(1785)、師の清満が没すると、清長は天明7年(1787)ごろに鳥居家4代目の当主を継ぎました。清満の孫にあたる跡継ぎがまだ幼く、その子が成長するまでの中継ぎという位置づけだったと伝わります。鳥居家は代々、歌舞伎小屋にかける看板絵と番付絵を家業とする一門です。当主を継いだ清長は、この一門の仕事を守る責任を引き受け、寛政期(1789〜)以降は看板絵と番付絵の制作にほとんどの力を注ぐようになりました。一枚絵の美人画は、ここから急速に少なくなっていきます。

同じころ、喜多川歌麿が寛政3年(1791)ごろから顔だけを大きく描く大首絵で新しい人気を得ていました。清長の後退を歌麿の台頭のせいだと単純に語る解説も見かけますが、実際にはそれ以上に、清長自身が一門の当主としての役割を選んだ結果という面が大きいはずです。天明期の清長の仕事は10年に満たない短さで途切れましたが、その短さこそが、この時期の絵をひときわ濃密なものにしています。看板絵の仕事は現存が少なく検証は難しいものの、清長は文化12年(1815)に没するまで、鳥居家当主として一門を支え続けました。

看板絵という仕事そのものは、紙の浮世絵より劣るものではありません。芝居小屋の前に掲げる絵看板は、大勢の江戸っ子が実際に足を止めて眺める、いわば当時のいちばん目立つ広告です。清長はそこに、天明期に磨いた人物描写の力をそのまま持ち込みました。一枚絵の美人画から看板絵へ。描くものは変わっても、一門の屋台骨を支え、次の世代に鳥居派を渡し切った清長の仕事ぶりは変わりません。

手に入るのか

清長の肉筆や初期の摺りは、市場でもかなり上位の価格帯に位置づけられます。ただし天明期の代表作以外にも、清長名義の作品は看板絵の下絵や後年の復刻など幅があり、状態や版の時期によって評価は大きく変わります。値ごろ感の相場観は手を出しやすい浮世絵値段の見方のページで扱っていますので、興味を持った方はあわせて読んでみてください。金額を断定することはできませんが、「知って見る目を持てば、選択肢は思ったより広い」というのは、清長にも当てはまります。

どこで見られるか

清長の天明期の代表作は、国内外の主要な美術館に分散して所蔵されています。まとまった数を見たいなら、企画展のタイミングを狙うのが現実的です。所蔵の厚い美術館のページで国内の所蔵状況を、デジタルで見る方法のページでオンラインコレクションの探し方を紹介しています。今回取り上げた4点も、すべて所蔵館のオンラインコレクションで無料で見られる画像です。

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