初代歌川豊国――歌川派を日本一の一門にした人
写楽と同じ寛政6年(1794)に役者絵でデビューし、写楽が10か月で姿を消したあとも描き続けた人です。その差が、のちに歌川派を江戸最大の一門に育てました。
豊国の絵そのものより先に、「歌川派」という名前を聞いたことがある方は多いはずです。国芳、広重、国貞。幕末の浮世絵界を席巻したこの一門の実質的な創業者が、初代歌川豊国です。派手な逸話や劇的な最期があるわけではありません。それでも役者絵の描き方、弟子の育て方、そして一門としての生き残り方まで、江戸後期の浮世絵の姿を決めた人だと言っていいと思います。
写楽と同じ年に、まったく違うやり方で役者を描いた
豊国は明和6年(1769)、江戸の人形師・倉橋五郎兵衛の子に生まれました。本名は倉橋熊吉、のちに熊右衛門。歌川派の創始者・歌川豊春に幼くして入門し、天明5年(1785)、16歳のころから絵師としての仕事が確認できます。天明6年(1786)には絵暦や黄表紙の挿絵で活動を始めていますが、大きな転機は寛政6年(1794)、和泉屋市兵衛から刊行した「役者舞台之姿絵(やくしゃぶたいのすがたえ)」シリーズです。
同じ寛政6年、蔦屋重三郎の店から東洲斎写楽が大首絵でデビューしています。写楽が役者の癖や凄みを誇張してつかみにいったのに対し、豊国は役者の顔立ちを美しく整え、舞台写真のような全身の決めポーズで見せました。写楽はわずか10か月ほどで活動を止めましたが、豊国のこの路線は江戸っ子に長く支持され続けます。「役者舞台之姿絵」は寛政8年(1796)までに40点を超え、豊国は役者絵師としての地位を確立しました。
代表作を実際に見る
見てほしい作品を4点選びました。役者絵が中心ですが、美人画も手がけていたことが分かる1点も入れています。
ここを見る:振り返る首の角度と、開いた扇の先まで一続きの曲線でつながる構図が決めポーズになっています。顔立ちは崩さず、目鼻をきれいに整えて描いているのが分かります。この「整える」姿勢こそ、同じ年にデビューした写楽との最大の違いです。
ここを見る:不破伴左衛門といえば稲妻模様の着物が役柄の記号です。片足に重心を寄せ、刀の柄に手をかけた姿勢がそのまま舞台の一場面の記録になっています。役者の「今、この一瞬」を切り取る全身像が、このシリーズの型です。
ここを見る:役者絵の印象が強い豊国ですが、役者絵で名を上げる前後にはこうした美人画も手がけています。孔雀の羽の一枚一枚まで丁寧に彫らせている点に、版元も含めた制作側の力の入れようが見えます。役者絵一本ではなく手を広げられる器用さが、のちの一門経営にもつながっていくのだと思います。
ここを見る:デビューから20年以上たった晩年に近い作品ですが、目鼻立ちを整えて描く姿勢は変わっていません。次の見分け方の節で、この1枚を写楽と並べて見比べてみます。
豊国の見分け方
役者の似顔を美しく整える――写楽と正反対
豊国の役者絵でいちばん分かりやすい特徴は、役の癖よりも役者の魅力を優先して描く姿勢です。写楽と並べると、その違いがはっきりします。
写楽の鰕蔵は、鉤鼻と吊り上がった眉、必要以上に大きく描かれた手が、役の凄みをそのまま観客に突きつけてきます。豊国の團十郎は、目鼻立ちを整え、表情に品を残したまま役の緊張感を伝えています。どちらが優れているという話ではありません。写楽は10か月で姿を消し、豊国は30年以上描き続けました。役者を美化して描くという豊国のやり方のほうが、贔屓の役者を美しい姿で手もとに残したい観客の欲求に、長い目で見れば合っていたのだと思います。
決めのポーズと「役者舞台之姿絵」の型
豊国の役者絵は、舞台上の一瞬の見得(みえ)を切り取るような、決めポーズの全身像が基本です。背景はほとんど描き込まず、無地か淡い色でぼかす程度にとどめ、役者の姿勢と衣装の柄だけに視線を集中させます。「役者舞台之姿絵」というシリーズ名そのものが、この型を表しています。舞台の上に立つ役者の「姿」を写し取る絵、という意味です。
この型が優れていたのは、贔屓の役者を1枚買って手もとに置きたいという観客の欲求に、素直に応えられたことです。写楽の絵は美術として評価が高くても、当時の観客の全員が心地よく感じたわけではありません。豊国の絵は、役者を悪く描かない。見得の瞬間を、実物より少し美しく切り取ってくれる。派手さでは写楽に及ばなくても、長く売れ続ける絵とはどういうものかを、豊国はこのシリーズで証明したのだと思います。
「豊国を継ぐ」ということ――ややこしい襲名の系図
浮世絵の世界では、人気の高い名前ほど弟子や縁者が継いでいきます。「歌川豊国」はその中でも特にややこしい名跡です。当人たちの自称と、後世の研究者が整理した世代番号がずれているためです。
初代 歌川豊国
1769〜1825 / 歌川豊春の門人
寛政6年(1794)「役者舞台之姿絵」で人気を確立。歌川派を一大流派に育てた本人。
実質的な歌川派の創業者
二代 歌川豊国(豊重)
初代の養子
初代の没後、名跡を正式に継承。ただし現存する作品は少なく、存在感は限定的だった。
名跡としては正統だが目立たない
三代 歌川豊国(国貞)
初代の弟子
弘化元年(1844)、自ら「二代目豊国」を名乗って改名。実力・人気とも初代に迫った絵師。
本人は「二代目」を自称、現在は三代目と整理される
四代 歌川豊国(国政)
国貞の門人・養子
明治3年(1870)、自ら「三代目豊国」を名乗る。現在の数え方では四代目にあたる。
世代番号は今なお研究者の間で議論
ポイントは、当人が名乗った番号と、後世が整理した世代番号が一致しないことです。国貞は生涯「二代目豊国」を名乗り続けましたが、豊重という正統な二代目がすでにいたため、現在の美術史では国貞は三代目として扱われます。作品や図録で「二代豊国」の表記を見かけたら、それが豊重(正統な二代目)なのか国貞(自称の二代目)なのか、時代を確かめる必要があります。国貞についてはあらためて歌川国貞のページで詳しく取り上げます。
弟子の広さが、そのまま一門の広さになった
初代豊国のもとには、国政・国長・国貞・国安・国丸・国直・国芳・国虎など、多くの弟子が育ちました。役者絵、美人画、武者絵、風景画と得意分野もそれぞれ違います。歌川派がのちに江戸最大の一門になったのは、豊国が自分の作風だけを弟子に押しつけず、それぞれの得意分野を伸ばす育て方をしたからだと思います。豪快な武者絵で人気を集めた歌川国芳も、美人画と役者絵で幕末を席巻した歌川国貞(三代豊国)も、もとをたどれば全員この人の弟子です。1人の絵師の仕事としてだけでなく、一門を残した人として見ると、豊国の評価はもう一段変わってくるはずです。
手に入るのか
初代豊国の役者絵は現存数が比較的多く、国内外の市場に定期的に出てきます。「役者舞台之姿絵」のような初期の代表シリーズは状態の良いものほど評価が高くなりますが、後年の作や後摺りまで含めれば、選択肢の幅は決して狭くありません。相場観や状態の見方は手を出しやすい浮世絵と値段の見方のページにまとめています。金額を約束することはできませんが、歌川派の入口として現実的な選択肢になり得る絵師です。
どこで見られるか
初代豊国の作品は、国内外の主要美術館にまとまった数が収蔵されています。写楽と同時代の作品として一緒に展示されることも多く、見比べる機会は比較的作りやすいはずです。所蔵の厚い美術館のページで所蔵状況を、デジタルで見る方法のページでオンラインコレクションの探し方を紹介しています。今回取り上げた作品も含め、すべて所蔵館のオンラインコレクションで無料で見られます。
つづけて読む
- 歌川国貞(三代豊国) — 「二代目」を自称した、豊国門下随一の売れっ子
- 歌川国芳 — 武者絵で幕末を席巻した、もう一人の弟子
- 鳥居清長 — 豊国と入れ替わるように役者絵の主流を退いた絵師