武者絵の名作を追う 第3回 太平記と楠木正成——なぜこの時代だけ実名で描けたのか

江戸の絵師は、信長も秀吉も実名では描けませんでした。ところが楠木正成なら描ける。線がどこに引かれていたのかを、一枚の町触から辿ります。

いきなり、城が崩れている

大判三枚続の合戦図。中央に二層の櫓を持つ城、その足もとで石垣と塀が崩れ落ち、鎧武者が川へ転落していく。各武者のそばに名前を記した札が付き、三枚それぞれの上部に同じ題箋が入る
「楠公赤坂籠城之図」文化6年(1809)頃、大判三枚続。落款は入っていますが崩し字で、所蔵館の記録にも絵師名は入っていません。三枚それぞれの上部に同じ題箋が刷られています。 米国議会図書館蔵(制限なし)

楠木正成が赤坂城に籠もり、幕府の大軍を迎え撃つ場面です。中央の櫓の下で石垣が崩れ、寄せ手の武者が丸太や塀ごと川へ落ちていく。攻める側が転落するところを主役にした、なかなか意地の悪い構図です。

細かいところを見てください。武者の一人ひとりに、名前を書いた小さな札が付いています。第1回の通俗水滸伝でも第2回の天狗でも見た、あの札です。武者絵はいつもこれをやる。誰が誰かを教えることが、絵の仕事の半分でした。

もうひとつ、三枚それぞれの上部に、同じ「楠公赤坂籠城之図」の題箋が刷られています。三枚続なのに三回も題を入れるのは、一枚ずつばらして売られることを前提にしているからです。三枚分の値段を出せない客も、一枚だけなら買える。判型早見表に三枚続の実寸を載せましたが、あの横幅を全部買える人ばかりではありませんでした。

天正より前なら、実名で描いてよかった

ここからが本題です。

文化元年(1804)5月、読本『絵本太閤記』が絶版処分を受けました。豊臣秀吉の一代記を絵入りで語った、当たっていた本です。その翌日に出た町触に、こうあります。

「天正の頃以来の武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義も決て致間敷候」——天正の頃から後の武者を実名で描くのはもちろん駄目、紛らわしい紋所や合印や名前で描くのも駄目。

天正年間は1573年から1592年。信長・秀吉・家康が動いた時代です。ここに線が引かれた。線より後の武将は、名前を出せない。線より前なら、出せる。

線は、天正年間に引かれていた 実名で描いてよい 実名では描けない 源平・南北朝・太平記の世界 信長・秀吉・家康、そのあとの大名家 建武3年(1336) 湊川で正成が死ぬ 天正元年(1573) 文化元年(1804) 町触で明文化 明治5年(1872) 湊川神社
楠木正成が死んだのは建武3年(1336)。天正の線より二百数十年も手前です。だから江戸の絵師は、正成を名前のまま、堂々と描くことができました。線が文章になったのは、はるかあとの文化元年(1804)です。

この線引きは、検閲と改印で書いた改印の制度とは別の話です。あちらは「いつ出版を許されたか」を示す判子の話でした。こちらは「何を描いてよいか」の中身の規制です。絵師にとっては、後者のほうが日々の仕事に効きます。

楠木正成という人

大判三枚続の籠城図。石垣で囲まれた山城に寄せ手が取りつき、騎馬武者が坂を駆け上がる。画面に「金剛山」の文字が読める
勝川春好とされる籠城図。文化元年(1804)頃、大判三枚続。画面に「金剛山」の文字があり、金剛山にあった千早城の戦いを描いたものと見られます。所蔵館の記録は「楠籠城の図」とのみ記しています。 米国議会図書館蔵(制限なし)

正成の経歴は、驚くほど短い期間に凝縮されています。元弘元年(1331)に河内の赤坂城で挙兵し、一か月あまりで落城。翌年に城を奪い返し、元弘3年(1333)には金剛山の千早城に籠もって、幕府の大軍を百日ほど食い止めた。そして建武3年(1336)5月25日、湊川で足利方に敗れて自害します。挙兵から死まで、五年に足りません。生年は永仁2年(1294)とする説が広く行われていますが、確かな史料があるわけではありません。

絵師の側から見ると、この五年には描きたい場面が詰まっています。少ない兵で大軍を防ぐ籠城戦、崩れ落ちる城、そして負けると分かっている最後の戦い。第2回で義経について書いたのと同じ構図です。江戸の武者絵は、勝ち続ける武将よりも、追い詰められた武将のほうを好みました。

桜井の別れは、『太平記』にしかありません

鎧をまとった武将が床几のそばに立ち、その前で幼い少年が地面に座って見上げている。背景に松と流れ。動きのない、静かな対話の場面
勝川派の絵師による、楠木正成が子・正行に別れを告げる図。天明年間(1780年代)頃。落款は崩し字で最後の一字が判読しづらく、所蔵館は Katsukawa Shunsei と記載しています。合戦の場面ではなく、父と子が向かい合うだけの一枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

湊川へ向かう途中、正成が幼い息子の正行を桜井の駅で帰らせ、遺言を残して別れる——「桜井の別れ」と呼ばれる場面です。江戸から戦前まで、修身や国語の教科書に載る定番でした。

ところがこの話、『太平記』の巻十六にしか出てきません。他のどの史料にもない。今日の歴史学では、太平記の作者による創作とみるのが定説です。舞台とされる桜井駅跡の発掘調査も、その見方を後押ししています。

史実でないと分かっても、絵としての強さは減りません。むしろ、作られた話だからこそ、絵にしたときに過不足がない。鎧の父と、まだ小さい息子。それだけで画面が持つ。上の一枚も、戦っている場面ではなく、二人が向かい合っているだけです。動きの頂点を選ぶのが武者絵の作法だと前回書きましたが、この画題に限っては、動かないことが選ばれています。

「太平記」という看板の使われ方

線が引かれれば、抜け道も生まれます。

歌川国芳に「太平記英勇伝」という大判五十図の揃物があります。弘化4〜嘉永3年(1847〜50)頃の刊行で、題は太平記。ところが中身は、天正以降の戦国武将です。豊臣秀吉は「羽柴久吉」、加藤清正は「佐藤正清」、真田昌幸は「佐名田昌幸」。名前を一字か二字ずらして、太平記の看板を掲げて出す。読み手には誰のことか丸わかりで、検閲の理屈の上では別人です。

この手つきは、国芳が天保14年(1843)に出した「源頼光公館土蜘作妖怪図」——古典の武者絵の体裁で当時の幕政を風刺したとされる一枚——と地続きです。詳しくは検閲と改印と奇想の浮世絵に書きました。禁じられた側が工夫を凝らすほど、絵が面白くなっていく。武者絵というジャンルは、そういう栄養で太った面があります。

明治になって、意味が変わった

江戸の絵師にとって、楠木正成は「規制の外にある古い武将」でした。ところが明治に入ると、同じ人物の位置づけが一変します。

明治元年(1868)、明治天皇が正成を祀る神社を建てるよう沙汰を下し、明治5年(1872)に神戸の湊川神社が創建されました。神社の格としては別格官幣社の第一号です。明治33年(1900)には皇居前に騎馬像が立ちます。住友家が別子銅山の開坑二百年を記念して東京美術学校に依頼したもので、高村光雲が顔、山田鬼斎と石川光明が体、後藤貞行が馬を担当し、十年がかりで完成しました。

負けた武将が、国の掲げる象徴になった。月岡芳年も明治18年から22年(1885〜89)にかけて桜井の別れを描いていますが、その頃には同じ画題の意味がすっかり変わっています。江戸の版元が「検閲を通る古い話」として選んだ題材を、明治の国家が別の理由で必要とした。同じ絵柄が、二度、別の理由で売れたわけです。

『太平記』は十四世紀後半に今の四十巻の形になったと見られていますが、作者は特定されていません。江戸時代には「太平記読み」と呼ばれる講釈師が、神社の境内や盛り場で原作にない裏話まで足して語りました。絵師が描いたのは活字の『太平記』ではなく、この講釈で膨らんだほうの太平記です。

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