喜多川歌麿——美人の顔を、大きくした人
歌麿は、美人画から体を切り捨てた人です。着物の柄も、すらりとした立ち姿も、それまでの絵師が競って描き込んできた要素をばっさり削り、胸から上だけを画面いっぱいに残した。この思い切りひとつで、寛政期の美人画の見え方が変わりました。
全身像が当たり前だった時代に
歌麿より少し前、鳥居清長らが描く美人画の主流は、八頭身近い均整のとれた全身像でした。着物の裾がすっと伸び、複数の女性が横並びに立つ群像構図が好まれ、顔はあくまで全体のバランスの一部です。誰の顔かを見分けるより、着物の柄や立ち姿の優雅さを味わう絵でした。
歌麿はここに割って入り、顔だけを大きく残すという発想を持ち込みます。役者絵の世界ではすでに、役者の表情を大きく見せる大首絵という手法がありましたが、歌麿はこれを遊女や町娘の美人画に応用しました。体を切り落として顔と上半身だけを残す。背景には、キラキラと光を反射する雲母(きら)の粉を刷り込む。遠目に見ても誰だか分かる着物の柄より、間近で見ないと分からない目もとの表情に賭けたわけです。この賭けは当たりました。寛政期を通じて歌麿は美人画の第一人者としての地位を固めていきます。
面白いのは、視線の外し方です。歌麿の美人画に描かれる女性の多くは、こちらをまっすぐ見つめてきません。顔はやや斜めに傾き、視線は画面の外か、手もとの小道具に落ちている。見る側は正面から見返されないまま、横顔越しにこっそり覗き見るような距離感に置かれます。全身像の時代には気にならなかったこの視線の角度が、顔が大きくなったことで急に意味を持ち始めた。大首絵という形式そのものが、見る・見られるの関係を作り替えたとも言えます。
代表作を実際に見る
まずは実物を見てください。歌麿の大首絵が、それぞれどこを見せようとしているかに注目します。
中央の遊女の顔だけがひときわ大きく、手前の二人は菅笠に半分隠れて小さく描かれています。奥行きを丁寧に描くより「誰の顔をいちばん見せたいか」を優先した配置です。まだ全身が残っている過渡期の作品ですが、顔の大きさに差をつけるという発想そのものが、この後の大首絵にまっすぐつながっています。
右上の升目に扇と矢と花が並んでいるのは、絵の謎かけ(判じ絵)です。「扇」「矢」「花」「扇」で「おうぎやはなおうぎ」、つまり扇屋の花扇と読ませています。当時は実在の女性の名を絵に書き込むこと自体が取り締まりの対象になっていて、歌麿と版元はこの遊びで名前を隠しながら、むしろ見る側の謎解きの楽しみに変えてしまいました。首をかしげ、煙管をくわえたまま視線を落とす表情のけだるさは、全身像では絶対に伝わらない距離感です。
見てほしいのは手つきです。頬のあたりに軽く添えられた指先が、力を入れずにふわりと浮いている。団扇に描かれた朝顔は夏の季節感を添える小道具で、遊女の視線はその団扇よりさらに先、画面の外に向けられています。顔と手だけで人物の気だるい色気を成立させる、この省略の効きぐあいが歌麿の腕の見せどころです。
4点の中でいちばん顔が大きく、画面のほぼ全部を占めています。額から鼻筋までが1本の線でほぼまっすぐにつながり、目は横に細く引かれ、唇は小さく高い位置にちょこんと置かれている。次の章で説明する歌麿の顔の型が、この1枚にいちばん凝縮されています。私はこの雛鶴の、何かをやり過ごすような伏し目がいちばん好きです。
歌麿の見分け方——切り取られた顔のつくり
歌麿の美人画には、繰り返し現れる顔の型があります。面長の輪郭に、横一文字に近い細い目。鼻筋は額からほぼ段差なく伸び、唇は小さく、輪郭の中でかなり高い位置に置かれます。首は長く、着物の後ろ襟を大きく抜いてうなじを見せる描き方も歌麿の得意技です。着物の生地も、単色べったりではなく、下の肌や重ね着が透けて見えるような薄い墨のぼかしで質感を出すことがあります。そして背景には、光の角度によってきらりと光る雲母摺。これが揃うと、遠目にも歌麿だと分かるようになってきます。
もうひとつ、布の描き方にも歌麿らしさが出ます。襟もとや袖口の重なりを、輪郭線だけで割り切らず、下に重なる生地がうっすら透けて見えるような淡い墨のぼかしで描き込むことがあるのです。「扇屋花扇」の襟もとをよく見ると、白い布の下に別の色がにじむように沈んでいるのが分かります。厚みのある紙の上に、布の薄さそのものを表現しようとする、地味だけれど手間のかかる仕事です。
版元・蔦屋重三郎という相棒
歌麿の大首絵は、一人で世に出たわけではありません。版元の蔦屋重三郎が企画から売り出し方まで深く関わり、歌麿を看板絵師として育てました。歌麿はもとは「北川」姓を名乗っていましたが、蔦屋との関係が深まった時期に「喜多川」へと改めたとも言われています。名前の由来ひとつとっても、この版元との結びつきの強さがうかがえます。版元がどこまで作品の企画に関わっていたのか、彫師・摺師を含めた分業の全体像は版元の仕事の記事にまとめていますので、興味のある方はあわせてご覧ください。
寛政の改革、手鎖の刑、それでも歌麿は歌麿だった
寛政の改革のもとでは、遊女の実名を絵に書き込むこと自体が取り締まりの対象になり、歌麿たちは判じ絵で名前を隠す工夫を強いられました。先ほどの「扇屋花扇」の升目はその一例です。規制はのちにも歌麿を追いかけ、文化元年(1804)には豊臣秀吉の花見を題材にした作品が咎められ、手鎖50日の処分を受けています。この一件のあと、歌麿は政策に逆らうような絵をほとんど描かなくなり、2年後の文化3年(1806)、54歳で亡くなりました。
ただ、規制にすり減らされただけの晩年だったと片づけたくはありません。名前を隠すために生まれた判じ絵の遊びは、見る側にとっては謎解きの楽しみになり、絵そのものの魅力の一部になりました。追い詰められた条件のなかでも工夫を絞り出す、その粘りこそが歌麿らしさだったと私は思っています。
手に入るのか
「青楼三美人」や「高名美人六家撰」のような代表作の当時摺りは、オークションでも高値がつく世界です。誰でも気軽に手が出る価格帯ではありません。ただ歌麿は生涯にわたって膨大な数の作品を手がけており、代表作以外の美人画や、後年の摺り、状態の異なる1枚まで含めれば、選択肢の幅はぐっと広がります。美人画以外にも、虫や貝を写生した絵本のような仕事も残していて、こうした版本は錦絵1枚よりずっと現実的な価格帯で見かけることがあります。相場観や状態の見方は現実的に手が届く浮世絵の記事と価値の見方の記事にまとめていますので、興味を持った方はあわせてご覧ください。
どこで見られるか
歌麿の美人画は、メトロポリタン美術館とシカゴ美術館がそろって厚いコレクションを持ち、この記事で使った4点を含む多くの作品をCC0で公開しています。高解像度の画像なら、雲母の粒立ちや目もとの一筆の角度まで自宅の画面で確認できます。国内でも江戸東京博物館などが折々に歌麿を含む美人画の展示を組んでいます。各館の特徴やデジタルアーカイブの使い方は美術館で見る記事とデジタルアーカイブで見る記事にまとめています。
つづけて読む
- 最初の10人——この順で、この作品から — 北斎から清親まで、まず押さえたい絵師のキュレーション
- 版元・絵師・彫師・摺師——分業の仕組み — 蔦屋重三郎のような版元が果たした役割
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