写楽は誰だったのか——正体より先に、確かなことを並べる

候補に挙がった名前は二十人を超えます。誰が誰を推したのか、その根拠は何で、どこが弱いのか。答えは出しませんが、材料は全部そろえます。

東洲斎写楽「谷村虎蔵の鷲塚八平次」。灰色の雲母摺の背景に、剃り上げた青灰色の月代、吊り上がった太い眉、朱の隈を入れた目、曲がった鼻、への字に結んだ口、たるんだ二重顎の男の上半身。胸の前で握った拳の関節まで描き込まれている
東洲斎写楽「谷村虎蔵の鷲塚八平次」寛政6年(1794)。左に「東洲斎写楽画」の落款、その下に版元・蔦屋重三郎の蔦の印と改印。背景は灰色の雲母摺です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

確かなのは、この三つだけ

正体の話に入る前に、動かない事実を確認しておきます。三つしかありません。

ひとつ、活動期間は寛政6年(1794)5月から寛政7年(1795)正月まで。およそ十か月です。ふたつ、確認されている作品は百四十五点あまり。役者絵が百三十四、追善絵が二、相撲絵が七、武者絵が二、恵比寿絵が一という内訳を示す資料があります。みっつ、版元はすべて蔦屋重三郎。蔦重の回で書いたとおり、歌麿を世に出したあの版元です。

この三つ以外は、程度の差はあれ全部が推測です。生没年も、本名も、なぜ始めてなぜ終わったのかも。

いきなり、二十八枚の大首絵で始まった

東洲斎写楽「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどりぎ」。暗い灰色の雲母摺の背景に、生成りの頭巾をかぶった女方の上半身。眉は細く、輪郭は丸みを帯びていて、顔の誇張は控えめ
東洲斎写楽「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどりぎ」寛政6年(1794)。背景の暗い灰色に細かなひび割れが走っているのが、雲母摺の面です。同じ第一期でも、女方の顔はここまで穏やかに描かれます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

寛政6年5月、写楽は大判の大首絵二十八枚を、一度に世に出しました。背景は黒雲母摺。雲母の粉を撒いてきらめかせる、金のかかる仕上げです。

これが異常です。名前も経歴も知られていない絵師に、蔦屋がいきなり二十八枚、しかも雲母摺で出させている。版元列伝で書いたとおり、版元にとって新人は賭けです。その賭け方が大きすぎる。「正体は業界の誰かだったのではないか」という疑いが消えないのは、絵そのものよりまず、この売り出し方のせいだと思います。

作風の変化は四期に分けて語られます。点数は資料により幅があります。
期時期判型と作風点数
第一期寛政6年(1794)5月大判・黒雲母摺の大首絵28
第二期同年7〜8月全身像へ。大判の二人立ちと細判約30〜38
第三期同年11月〜閏11月細判の全身像、相撲絵58〜64
第四期寛政7年(1795)1〜2月細判、相撲絵・武者絵10〜12

点数は増えていくのに、雲母摺は最初の一度きりで終わります。作風の移り変わりそのものは東洲斎写楽のページに図で置きました。

名前が挙がった人は、二十人を超えます

ここからが本題です。主だった説を、根拠と弱点を並べて表にします。

候補は二十人以上いるとされます。提唱者や根拠まで辿れるものだけを挙げました。
説唱えた人根拠弱いところ
斎藤十郎兵衛
(阿波徳島藩の能役者)
『増補浮世絵類考』(天保15年/1844)以来。中野三敏、内田千鶴子、浅野秀剛ら類考の記述に加え、能役者の名簿・伝記、蜂須賀家の分限帳、菩提寺の過去帳が次々に見つかったこの人物が絵を描いたと示す史料が、一点も無い
葛飾北斎田中英道写楽の活動期と、北斎の画業が途切れる時期が重なる裏づける一次史料が無い。勝川派を破門された北斎が芝居の楽屋に出入りできたか
喜多川歌麿提唱者を特定できず版元が同じ蔦屋重三郎線の質がまるで違う。歌麿はふくらみのある線、写楽は張りつめた線
複数人の合作・工房鈴木敏夫(1980)十か月で百四十五点は一人には多すぎる。前期と後期で作風が違いすぎる具体的な反論の記事に行き着けなかった
そのほか円山応挙、谷文晁、司馬江漢、山東京伝、十返舎一九ほか—候補として名が挙がるだけで、誰がいつ何を根拠に唱えたのかまで辿れないものが多い

推した側に、浮世絵の研究者だけでなく作家や漫画家や哲学者が並んでいるのも、この論争の特徴です。松本清張、高橋克彦、梅原猛。謎そのものが人を呼ぶ題材になっている。

斎藤十郎兵衛という人は、実在しました

いちばん有力とされる説を、資料の順に追います。

出発点は斎藤月岑『増補浮世絵類考』、天保15年(1844)です。写楽斎の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」とある。俗称は斎藤十郎兵衛、八丁堀住まい、阿波侯お抱えの能役者。ただしこれは写楽が消えてから五十年後の編纂物で、一次史料ではありません。

長らくその一行しか無かったのですが、昭和56年(1981)、内田千鶴子が能役者の名簿『猿楽分限帖』と伝記『重修猿楽伝記』に喜多流の能役者・斎藤十郎兵衛を見つけます。阿波蜂須賀家の分限帳の「御役者」の項にも名前がある。そして平成9年(1997)、埼玉県越谷市の法光寺の過去帳から、文政3年(1820)3月7日に五十八歳で没した記録が出てきました。

四十年ほどのあいだに、この人物の実在は動かないところまで固まったわけです。それでも研究者は断定しません。理由は主にこの四つです。

浮世絵の年代を判じるとき、私たちは改印のような物証を見ます。あれは紙の上に押されているから動かない。写楽の正体には、それに当たるものがまだ無い、ということです。

「レンブラント、ベラスケス、写楽」は、たぶん誰も言っていません

写楽の話には、必ずと言っていいほど付いてくる一節があります。ドイツの研究者ユリウス・クルトが1910年の著書『SHARAKU』で、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と評した——というものです。

ところが、原著に当たった日本の研究者が、そろって「その文言は無い」と言っています。岸文和は初版(1910)と改訂増補版(1922)の双方を確認したうえで「クルトのテクストに見当たらないことは確実」とし、定村忠士は「『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない」、及川茂は「こういう文章はクルトの著作には存在せず、後世の粉飾の気配がある」と述べています。1994年に出た日本語訳にも、この一節はありません。

ではどこから来たのか。有力なのは、大正9年(1920)に仲田勝之助が雑誌『美術画報』で、自分の見解として「レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家」と紹介した、その言葉がいつのまにかクルトの評価として流通したという説です。

史料は増えた。話は、別に育った 見つかった史料 寛政10年(1798)頃 大田南畝が書き留める 天保15年(1844) 増補浮世絵類考「阿州侯の能役者」 昭和56年(1981) 猿楽分限帖に斎藤十郎兵衛 平成9年(1997) 法光寺の過去帳 大きくなった話 1910年 クルト『SHARAKU』(ドイツ) 大正9年(1920) 仲田勝之助が自分の見解として 「レムブランドやベラスケス」と書く その後 クルトの評価として流通する
左は物として出てきたもの、右は語られ方の変化です。左が増えても正体は決まらず、右は左と関係なく大きくなっていきました。

この誤伝はまだ生きています。英語版のウィキペディアは今も、クルトが写楽の肖像をレンブラントやベラスケスと同列に置いた、と書いている。東京国立博物館の2011年の特別展図録にも、出典を示さないまま同趣旨の記述があります。

誤りだから面白い、と言いたいのではありません。謎が大きい対象では、事実の確認より先に評価の言葉が独り歩きする——写楽をめぐる百年が、そのいい標本になっているということです。

十か月で消えた理由も、分かっていません

東洲斎写楽の大判。無地の背景に二人の役者。奥に立つ人物は白い着物に鼠色の袴で裸足、眉を寄せて目を剥いている。手前に片膝をつく人物は雲の文様の厚い衣裳をまとい、朱鞘の刀を立てて握っている
東洲斎写楽、寛政6年(1794)。第一期の雲母摺の大首絵とは打って変わって、背景は無地、人物は全身になります。奥に立つ男は眉を寄せて目を剥き、手前で刀を立てる男はどこか呆けた顔で、同じ画面のなかで表情の振れ幅が大きい。右に「東洲斎写楽画」の落款と蔦の印。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

同時代にいちばん近い証言は、大田南畝が寛政10年(1798)頃に書いた『浮世絵類考』の一節です。

「これまた歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム」——役者の似顔を写したが、あまりに本当を描こうとしてあられもない姿に描いたので、長くは世に受け入れられず、一、二年でやめた。

写楽が消えてわずか三年後の記述で、これが唯一に近い同時代の手がかりです。売れなかった、という説の根拠はここにあります。ほかに寛政の改革による出版統制の空気を挙げる説、本業に戻ったとする説、病死説もありますが、いずれも状況からの推測で、裏づけの史料は見つかっていません。

南畝の言い方には、少し含みがあります。「あまりに真を画かんとて」——描こうとしたのは真だった、と認めている。そのうえで、あられもない姿になったから受けなかった、と続く。褒めているのか貶しているのか、決めかねている書きぶりです。同時代の人にとって写楽が扱いにくい存在だったことが、この一文からは伝わってきます。

値段のほうは、はっきりしています

正体は決まらないのに、市場の評価は数字で出ます。2009年10月16日、パリのオークション会社ピアザで、写楽の「二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉」が39万6千ユーロ、当時のレートで約5,360万円で落札されました。事前の予想は5万から6万ユーロですから、六倍以上です。写楽の版画としては最高額と報じられています。

その一方、木版の技術で摺り直された復刻版は数千円から数万円で流通していて、江戸期のものとは市場がまったく別です。ネットオークションで数千円の写楽が並んでいるのは、そのほとんどが復刻版か印刷物と考えたほうがいい。この見分けの話は贋作と印刷レプリカに書きました。億の世界の話は歴代浮世絵価格ランキングにあります。

上の落札額は報道された記録から拾ったものです。円換算は当時のレートによる概算で、落札額には手数料が含まれる場合があります。復刻版と江戸期の摺りの区別は、写真だけでは判定できません。

謎より先に、絵を

ここまで並べておいて言うのもなんですが、私は正体が分かってほしいとはあまり思っていません。

冒頭の鷲塚八平次をもう一度見てください。吊り上がった眉、白目がちの目に差した朱、曲がった鼻、への字の口、たるんだ二重顎。役者を演じている人間の顔として、これは容赦がない。誰が描いたかが判明しても、この顔の怖さは一ミリも増えません。逆に、正体が永遠に分からなくても、一ミリも減らない。

東洲斎写楽のページは、そういう考えで「謎より先に、絵を」という順番で書きました。この記事はその裏返しで、謎のほうを一度きちんと棚に並べたものです。並べてみると、材料が意外と少ないことが分かる。分からないことを、分からないまま面白がるための材料としては、これで十分だと思います。

確認されている百四十五点あまりのうち、役者絵は百三十四点。残りは追善絵が二点、相撲絵が七点、武者絵が二点、恵比寿絵が一点です。十か月のあいだに相撲絵や武者絵にも手を出している。役者絵だけの絵師ではなかったところも、正体の議論をややこしくしています。

つづけて読む