浮世絵の富士山——見るだけでなく、登るために作った山もありました

富士山を描いた浮世絵といえば、北斎の「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」を思い浮かべる方が多いと思います。ここではあえて北斎を主役から外し、江戸から本物の富士がどう見えていたか、そして見るだけでは飽き足らず、江戸っ子がミニチュアの富士まで作ってしまった話——広重をはじめとする他の絵師たちが残した富士を、実物で見ていきます。

江戸から、本物の富士は見えていた

今の東京で富士山を見ようとすると、条件のいい日を選んで、開けた場所を探す必要があります。江戸時代はもっと単純でした。日本橋の通りの先、駿河町の三井越後屋の店先からは、正面に富士がまっすぐ見えたと伝わります。この町名自体、富士のある駿河国の方角を向いていることに由来するとされ、当時の川柳には「一に富士、二には越後屋を褒めて行き」という一句まで残っています。富士と大店、どちらも江戸の自慢だったわけです。目黒や品川の高台、隅田川の橋の上、あちこちから同じように富士が望めました。名所絵に富士が繰り返し登場するのは、絵師の都合というより、単純に江戸の日常の視界にいつも富士があったからだと思います。今のように高層ビルが視界を遮ることもなく、空気の澄んだ冬の朝ならなおのこと、くっきりと大きく見えたはずです。

富士は信仰の対象でもあった——富士講と富士塚

江戸の人にとって富士は、ただの借景ではありませんでした。富士山そのものを神体とする山岳信仰が江戸中期に急速に広まり、「富士講」と呼ばれる信仰の集まりが町ごとに作られています。当時を伝える言い回しに「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講、講中八万人」というものがあり、誇張は含むにしても、それだけ広く根づいていたことがうかがえます。講のメンバーは毎月わずかずつ金を積み立て、毎年その中の一部の人だけが実際の富士登山に旅立つ、という仕組みで運営されました。全員がその年に登れるわけではありません。

そこで生まれたのが「富士塚」です。土を盛り、富士山から運んだ溶岩(黒ボク石)を表面に配して、ミニチュアの富士山をこしらえてしまう。実際に登拝できない人でも、この人工の山に登れば富士に登ったのと同じご利益があるとされました。目黒には有名な富士塚が2つあり、どちらも広重が描いています。「元富士」は文化9年(1812)、目黒の富士講の人々が上目黒の切通し坂の上に築いた塚で、高さは12メートルほど。頂上には浅間社が祀られました。「新富士」はその7年後、文政2年(1819)、探検家として択捉・国後を踏査したことで知られる幕臣・近藤重蔵が、中目黒にあった自分の別邸の敷地内に築いたものです。本物を拝むための代わりの山を、庭に作ってしまう発想の大きさに驚きます。

富士塚が重宝された理由は、費用の面だけではありません。江戸時代の富士山は女人禁制で、女性は登拝そのものができませんでした。近所の富士塚なら、性別も体力も関係なく誰でも登れます。山開きの日には、白装束に金剛杖という本物の富士登山と同じいでたちで塚に登り、「六根清浄」と唱えながら頂上を目指す人たちで賑わったといいます。ミニチュアとはいえ、そこで交わされていた祈りは本物の登拝と変わらない本気のものでした。

富士の置き方、四つの型

北斎以外の絵師たちが富士をどこに置いたか、型別に整理すると見えてくるものがあります。画面いっぱいに主役として据える描き方は北斎の「赤富士」が有名ですが、それ以外の絵師は違う戦略を取ることのほうが多いのです。富士をどこまで大きく、どこまで画面の隅に追いやるか。その匙加減ひとつで、同じ山を描いていても絵の性格はまったく変わってきます。

型1 遠景の点景 人の営みの奥に、豆粒ほど小さく 型2 人が作った富士 富士塚の奥に、本物の富士も小さく 型3 主役として大きく 画面のふちを突き破るほど大きく
浮世絵の中で富士がどこに置かれるかを単純化した図です。北斎の「赤富士」に代表される型3は例外的で、広重をはじめ多くの絵師は富士を人の営みの奥に控えめに置くか、あるいは富士塚という代わりの山を主役に立てました。

実際に見る、四つの富士

型を並べただけでは実感が薄いので、ここからは広重の実作で見ていきます。すべて北斎以外の富士です。

歌川広重「名所江戸百景 目黒新富士」。桜が満開の公園に、緑の富士塚が築かれ、人々がその頂上に登っている。塚の奥、赤く染まった空の下に本物の富士山が小さく見える
歌川広重「名所江戸百景 目黒新富士」安政4年(1857)。文政2年(1819)、近藤重蔵が自邸の庭に築いた富士塚を描いた一図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

ここを見てほしいのは、塚の上に立つ人と、その奥にかすむ本物の富士の大きさの関係です。手前の緑の塚は画面の中央に堂々と大きく描かれ、本物の富士はその向こうに、驚くほど控えめな大きさで添えられています。塚に登った人たちが見ているのは、まさにこの本物の富士だったはずです。手前の桜と行楽客の賑わいも合わせて、信仰の場である以上に、江戸の人々の行楽地でもあったことが伝わってきます。

歌川広重「名所江戸百景 目黒元不二」。手前に大きな松の木がそびえ、その下の緑の斜面を人が歩いている。画面左奥、はるか遠くに小さく灰色の富士山が見える
歌川広重「名所江戸百景 目黒元不二」安政4年(1857)。文化9年(1812)築造、目黒に2つある富士塚のうち古いほうを描いた一図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

先の新富士とは対照的に、こちらは塚そのものの斜面に立って遠くを見晴らす構図です。画面を占領するのは塚の上に立つ一本の大きな松で、本物の富士は左奥に、ほとんど添え物のような小ささで置かれています。新富士より7年早く築かれた元富士は、この絵が描かれた安政年間にはすでに40年以上の歴史を持つ塚でした。同じ目黒の2つの富士塚を、広重がまったく違う構図で描き分けている点も見比べる楽しみです。

歌川広重「東海道五拾三次之内 原 朝之富士」。画面の大部分を占める巨大な富士山が、山頂を画面の外にはみ出させるほど大きく描かれている。手前の田んぼの畦道を、笠をかぶった旅人たちが歩き、鶴が2羽降り立っている
歌川広重「東海道五拾三次之内 原 朝之富士」天保4〜5年(1833〜34)頃、保永堂版。東海道の宿場「原」から見上げた朝の富士です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

広重は普段、富士を人の営みの奥に小さく控えさせる絵師です。この一枚はその広重が例外的に富士を主役に据えた、数少ない図のひとつだと思います。山頂は画面の上端で切れてしまうほど大きく、雪をかぶった裾野が画面のほとんどを占領します。手前を歩く旅人と鶴は、その大きさを測るための物差しのように小さく配置されている。北斎でなくても、絵師が本気を出せば富士は画面いっぱいに膨れ上がる——そのことを教えてくれる図です。

歌川広重「不二三十六景 駿河薩埵之海上」。松の木々が茂る崖の細い山道を旅人たちが行き、右手には帆をあげた船が浮かぶ海が広がる。奥に黄色く色づいた富士山がそびえる
歌川広重「不二三十六景 駿河薩埵之海上」嘉永5年(1852)頃。東海道の難所として知られた薩埵峠から、富士と駿河湾を見渡す一図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

北斎の「冨嶽三十六景」が評判を呼んだ十数年後、広重も自分の名で富士三十六景というシリーズを手がけています。北斎への対抗心なのか、単に富士という画題への興味なのか、真相はわかりません。ただこの一枚を見る限り、広重はやはり広重でした。富士を画面の主役に据えながらも、崖道を行く旅人、帆を張った船、松の枝ぶりと、富士以外の要素を丁寧に描き込む手を緩めていません。富士だけを見せる北斎と、富士のある風景を見せる広重。同じ主題でも、二人の視線の向け方は最後まで違ったままです。薩埵峠は東海道随一の難所としても知られ、切り立った崖に沿う細道を、波打ち際すれすれで越えていく区間でした。眼下に富士と駿河湾を一望できるごほうびがあったからこそ、旅人はこの危うい道のりを我慢できたのだろうと思います。

今も同じ場所から富士は見えるか

江戸の富士見の名所は、そのほとんどが今では見えなくなっています。高層ビルが建ち並び、大気の状態も変わりました。目黒の新富士・元富士も、現在は跡地に碑が残るのみで、塚そのものは失われています。それでも都内には、条件が揃えば今も富士を望める場所がいくつか残っていて、江戸の名所絵とほぼ同じ構図で写真に収める人もいます。ビルの谷間から一瞬だけ頂が覗く場所もあれば、橋の上から正面に見通せる場所もあり、江戸の絵師たちが選んだ構図の理由が、実際に立ってみるとよくわかったりします。どこからどう見えるかは今も富士山が見えるスポットにまとめました。江戸の人が毎日の暮らしの中で見上げ、時には自分たちの手でも作ってしまった山を、今の東京から探してみるのも一興だと思います。北斎の富士については冨嶽三十六景 全46図ガイド葛飾北斎のページに、広重の全体像は歌川広重のページにまとめてありますので、あわせてどうぞ。

つづけて読む