小林清親——輪郭線を捨てた浮世絵師

北斎も広重も、輪郭線からは逃れられませんでした。ものの形をまず墨の線で囲み、その中を色で塗る。浮世絵は誕生からずっと、その原則の上に立っていました。小林清親は、その原則をまるごと手放した人です。

小林清親(こばやし きよちか、1847-1915)は、明治9年(1876)から数年のあいだだけ、輪郭線のない浮世絵を作り続けました。「光線画(こうせんが)」と呼ばれるこの一群の作品は、東京の夜、夕暮れ、雪の日を、線ではなく光と影の濃淡だけで描いています。名所絵の系譜には北斎も広重もいますが、「形の縁を線で決めない」ところまで踏み込んだ絵師は、清親より前にはいません。

「光線画」とは何なのか——線を捨て、色の境目だけで形を立てる

江戸の浮世絵は、まず絵師が墨一色の版下絵を描くところから始まります。人物の輪郭も、着物の柄も、屋根の線も、すべて墨の線で決めてしまう。彫師はその線をそのまま版木に彫り込み、線で囲まれた面に摺師が色を摺り重ねる。輪郭線は絵の見た目の特徴であると同時に、版木という道具の構造そのものでもありました。線がなければ、どこまでが赤でどこからが藍か、彫師にも摺師にも指示のしようがなかったのです。

清親はここに手を入れました。明治9年、開化期の東京を描く連作「東京名所図」を刊行し始めたとき、彼が試みたのは、輪郭線を彫らず、色面と色面の境目——つまり明暗が切り替わるその場所を、そのまま形の縁として使うという方法でした。夜空を覆う濃い藍色から、提灯の灯りがにじむ橙色へ変わる。その変わり目が、彫らなくても提灯の輪郭になる。線を描いているのではなく、線が結果としてそこに生まれている。この違いが、光線画という言葉の中身です。西洋画・写真の陰影表現の影響も指摘されており、清親は横浜居留地にいた英国人風刺画家チャールズ・ワーグマンに学んだとも伝わります。輪郭線という浮世絵の設計図なしに、それでも人の形や建物の形がちゃんと立ち上がって見える。彫師にとっては、むしろ線がある方が楽だったはずです。

従来の浮世絵——線で囲み、中を塗る 墨の線をまず彫り、線の内側に色を摺る 線を消しても、色面だけでは家と木にならない 光線画——色の境目だけで形が立つ 彫るのは線ではなく、夜空・提灯の灯り・軒の陰の色面 色と色がぶつかる境目が、そのまま家と木の輪郭になる
同じ「家と木」というモチーフを、二つの作り方で描き分けた図解です。左は輪郭線を彫ってから内側に色を摺る従来の浮世絵の方法、右は輪郭線を彫らず、夜空・灯り・陰という色面どうしがぶつかる境目だけで家と木の形を立ち上げる光線画の方法です。実際の彫りでは、この「境目」を寸分違わず彫り分ける必要があり、彫師の技術的な負担はむしろ従来より重くなっています。

代表作を実際に見る

「東京名所図」を中心に、清親が光線画の時期に手がけた作品を4点見てみます。いずれも夜・夕暮れ・雪という、輪郭線なしの表現がいちばん効いてくる場面です。

不忍池のほとりで花火を見上げる観客の群れ。手前は真っ黒なシルエットで塗りつぶされ、赤い提灯が横一列に並び、対岸の灯りが水面に映り込んでいる夜景。
小林清親「池の花火」明治14年(1881)。不忍池(しのばずのいけ)のほとりで花火を見上げる群衆を描いた、連作「東京名所図」の一枚です。 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

手前に並ぶ観客は、輪郭線ゼロの真っ黒いシルエットとして塗りつぶされているだけです。それでも一人ひとりの姿勢や帽子の形、木によじ登る子供の様子まで、ちゃんと個人として見分けがつきます。線を一本も使わずにここまでの情報量を出せること自体が、この絵のいちばんの見どころです。対岸の窓明かりが水面に落ちる縦の光の筋も、縁を囲わずに、にじませた摺りだけで水に落ちる光にしています。

夜空の半分近くを覆う黒煙とその奥でピンクとオレンジに照り返す炎。手前には輪郭のない真っ黒な群衆のシルエットが密集している火事の場面。
小林清親「久松町より出火を見る」明治14年(1881)。同じ年の1月に清親自身の家を焼いた大火から、わずか半月ほど後に起きた火事です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

空の半分近くが黒煙で覆われ、その奥にピンクとオレンジのぼかしで炎の照り返しが表現されています。手前の群衆はやはり輪郭のない黒い塊。恐怖の表情を描き込むのではなく、炎そのものが放つ異様な明るさに画面の主眼が置かれているのが分かります。清親は自身の家が焼けたばかりのこの時期、実際に火事現場へ出向いてスケッチしていたと伝わります。

雪の積もった隅田川岸を大判3枚続で描いた夕景。対岸の家並みと木立が白と薄い藍色のぼかしだけで表され、手前には蓑や傘をつけた船上の人々のシルエットがある。
小林清親「如月 待乳山雪の黄昏」明治29年(1896)、連作「東京名所真景之内」より。雪の積もった隅田川岸を大判3枚続で描いています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

対岸の家並みも木立も、輪郭線を使わずに白と薄い藍のぼかしだけで表現されています。雪は一様な白で済ませず、陰になる部分にわずかな灰色を差してあります。それだけで積もった厚みが出る。手前の船に乗る人々の蓑や笠も、線で縁取らずに色面の重なりだけで立体感を出しています。「東京名所図」の時期からは十数年後の作品ですが、輪郭線を使わないという核の部分は変わっていません。

座敷の中から品川の海を望む縦長の構図。夜空と海の大部分が輪郭線のない滑らかな藍色のグラデーションで表され、丸い月と赤い提灯という二つの光源だけが画面に置かれている。
小林清親「品川見越しの月」明治17年(1884)、連作「武蔵百景之内」より。座敷の中から品川の海を望む構図です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

画面の大半を占める夜空と海は、輪郭線どころか筆致の痕跡すらほとんど感じさせない、なめらかなグラデーションの藍一色です。月と提灯という二つの光源だけが、その中にぽつんと置かれています。手前の障子や提灯には線がありますが、それは建具そのものの実際の線であって、遠景の海と空にはやはり一本の輪郭線もありません。近景と遠景で描き方を切り替えている、その使い分けにも注目してほしい一枚です。

清親の見分け方

展覧会や画集で「これは清親かもしれない」と思ったとき、次の点を確かめてみてください。

暗部が黒に近いところまで沈んでいること。 江戸期の浮世絵の「夜」は、藍一色の平坦なぼかしで表されるのが普通でした。清親の夜は違います。空や水面がほとんど墨に近い黒まで沈み込み、その中に光源だけが強い色で残る。この振れ幅の大きさが、遠目からでも清親を見分ける手がかりになります。

画面のどこかにガス灯か提灯、あるいは窓明かりがあること。 開化期の東京そのものを主題にした連作なので、街灯や提灯、洋館の窓明かりが画面の構図上の要になっていることが多いです。光源が画面の外にある絵よりも、光源そのものを絵の中に置いて、そこから広がる明暗を描くタイプの絵師です。

水面への映り込みが描かれていること。 隅田川や不忍池、東京湾を舞台にした絵が多く、対岸の灯りや月が水面に縦の光の筋として映り込む場面が繰り返し出てきます。この映り込みも輪郭線を使わず、にじみとぼかしだけで表現されています。

人物が影絵のようなシルエットで処理されていること。 顔の表情や着物の柄を描き込むより、群衆や通行人を真っ黒い塊として配置し、光と暗闇のコントラストを際立たせる脇役として使う傾向があります。人物の細部よりも、光そのものが主役という構図です。

西洋画・写真的な構図の気配があること。 手前のものを大きく、奥のものを小さく置く遠近感の付け方や、画面の一部をあえて陰にして光の当たる部分だけ強調する明暗法は、それまでの浮世絵にはあまりなかった感覚です。ワーグマンをはじめとする洋画からの影響が、こうした構図の端々に表れています。

短い絶頂と、そのあとの清親

光線画の期間は驚くほど短いものでした。明治9年(1876)に「東京名所図」を刊行し始めてから、明治14年(1881)頃に描き終えるまで、およそ5年です。この間に清親が手がけた光線画は90数点、版元別に見ると松木平吉版が17点、福田熊次郎版が76点と伝わります。決して長い活動期間ではありません。

その終わり方も、穏やかなものではありませんでした。明治14年1月、両国橋付近から出た大火で清親自身の自宅が焼け、芝源助町へ引っ越しています。その半月ほど後に起きたのが、先ほど見た「久松町より出火を見る」の火事です。この作品が評判を呼んだあと、清親は「東京名所図」の制作を止め、風刺漫画雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』に加わってポンチ絵(風刺画)を手がけるようになります。以後は日清戦争・日露戦争を主題にした戦争絵が仕事の中心となり、光線画の時期に戻ることはありませんでした。

大正から昭和にかけて、清親の原画をもとにした後摺(あとずり)も作られています。シカゴ美術館が所蔵する「羽田沖雲間の月」は、清親の没後14年経った昭和4年(1929)に摺られた版です。原画の構図と持ち味を今に伝える版が、本人が世を去ったあとも作られ続けたということ自体、この人の仕事がどれだけ求められ続けたかを示していると思います。

5年、90数点。数だけ見れば決して多作な絵師ではありません。それでも、輪郭線という浮世絵の大原則そのものを組み替え、東京という土地が持っていた光と影を紙の上に閉じ込めた仕事として、この90数点はまとまった一つの到達点になっています。短命に終わった実験ではなく、やり切って次に進んだ仕事だったと、私は見ています。

手に入るのか

清親は現在、明治の浮世絵師の中でも人気の高い一人です。当時の初摺(しょずり)、とりわけ光線画期の作品は状態の良いものほど値が張りますが、先ほど触れた「羽田沖雲間の月」のように、大正から昭和にかけての後摺や復刻も数多く流通しています。同じ図柄でも摺りの時期によって色の出方や紙質が変わるため、値段の相場観や摺りの見分け方は摺りと真贋の話で、状態の良し悪しや贋作の見分け方は贋作の見分け方で扱っています。人気絵師である分、興味を持ったら焦らずこの二つに目を通しておくと安心です。

どこで見られるか

清親作品はメトロポリタン美術館やシカゴ美術館が数多く所蔵しており、この記事の画像もすべてそこから借りています。国内でも明治期の浮世絵を重点的に扱う美術館で光線画がまとまって展示されることがあります。所蔵の厚い美術館の探し方は美術館で見る、自宅からデジタルで作品を眺める方法はオンラインで見るにまとめていますので、あわせてご覧ください。

清親が活動した明治は、浮世絵という表現そのものが徐々に力を失っていく時代でもありました。その時代背景は明治の浮世絵のページで、浮世絵が衰退していった要因はなぜ浮世絵は衰退したのかのページで扱っています。輪郭線を捨てるという清親の実験が、なぜあの時代にしか生まれなかったのかを考えるヒントになると思います。

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