歌川国貞(三代豊国)——江戸で一番売れた絵師

歌川国貞は、生涯に手がけた作品数が浮世絵師の中で最多とされる人です。1万点を超えるとも言われる仕事量は、単なる記録ではありません。売れっ子だったということは、当時それだけ大量に摺られたということで、大量に摺られたということは、今もそれだけの枚数がどこかに残っているということです。北斎や写楽の名品を手もとに置くのは簡単ではありませんが、国貞なら話が変わってきます。

数えきれないほど描いた、という記録

天明6年(1786)に江戸で生まれた国貞は、初代歌川豊国の門人となり、若いうちから頭角を現しました。文化年間から役者絵と美人画で評判を取り、幕末に向けて工房を大きくしながら、休むことなく版下絵を描き続けます。弘化元年(1844)に歌川豊国の名を継いでからは、さらに生産量が上がりました。研究者の間でも、浮世絵師の中で最も多くの作品を残した1人という評価はほぼ動きません。

この「多さ」を、単なるトリビアで終わらせたくありません。浮世絵は版画です。1つの版木から何百枚も摺れる仕組みだからこそ、多作な絵師の作品は当時の値段も手ごろで、そして200年近く経った今も、世界中の美術館や個人のコレクションに驚くほどの数が眠っています。国貞を知ることは、このサイトが繰り返し言っている「本物は、思ったより手が届く」という話に、いちばん近い場所にいる絵師を知ることでもあります。

豊国の名を継いだ弘化元年(1844)以降は工房もいっそう安定し、そこから幕末まで出版のペースはむしろ上がっていきました。これだけの量を吐き出しながら、晩年まで役者絵の人気が衰えなかったというのは、単に速かっただけでなく、贔屓筋が納得する水準を保ち続けられたということでもあります。数の多さと評価の高さが両立しているところに、この絵師の底力があります。

代表作を実際に見る

まずは実際の作品を見てください。国貞の仕事の幅広さが伝わる4点を選びました。

歌川国貞の役者絵二枚続。左に尾上菊五郎三代目演じる名古屋山三、右に岩井粂三郎二代目演じる傾城葛城。桜の下、二人とも華やかな柄の着物をまとっている
歌川国貞「尾上菊五郎(三代目)の名古屋山三・岩井粂三郎(二代目)の傾城葛城」文政10年(1827)頃。桜の下に立つ男伊達と傾城の二枚続です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

左の名古屋山三は、粋を体現する伊達男として当時大人気だった役どころです。着物の柄をよく見てください。烏の模様に、裾には町並みまで織り込んだ意匠が細かく描き込まれ、右の傾城葛城の打掛は波と桜と貝合わせの模様が幾重にも重なっています。役者の顔よりも先に、この着物の情報量に目を奪われるはずです。国貞という絵師の商売気質がいちばん出ているのがここで、贔屓筋は役者の顔だけでなく、舞台衣装の柄そのものを見に金を払っていました。

歌川国貞の美人画。市松格子の着物をまとった女性が振り返る姿。着物の柄は白黒灰色の大胆な市松模様で、帯や襦袢に朱と緑があしらわれている
歌川国貞「婦女倭姿」天保元〜6年(1830〜35)頃。大胆な市松格子の着物をまとった女性を描いた1枚です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

こちらは美人画。白黒灰色の市松格子が画面のほとんどを占め、着物の柄そのものが主役になっています。右上の落款には「香蝶楼国貞」の署名が見えます。この号を使っていた時期については、この後の「見分け方」の節でもう一度取り上げます。ちなみにこの市松格子、もとは弁慶縞と呼ばれる男物の柄でしたが、こうした大胆な柄を女性にまとわせる遊びも国貞は好んで描いています。

歌川国貞の役者絵二枚続。上に市川団十郎七代目演じる渡辺綱が鬼女の生首を掴む場面、下に鬼女に変じた瀬川菊之丞五代目が険しい顔で身構える場面。稲妻が画面を走る
歌川国貞「市川団十郎(七代目)の渡辺綱・瀬川菊之丞(五代目)の鬼女 『戻橋』」天保4年(1833)。一条戻橋の伝説を舞台化した芝居の一場面です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

戻橋で美しい女に化けて渡辺綱に近づいた鬼女が、正体を見破られて暴れる場面です。稲妻が画面を切り裂き、上下の2枚をまたいで一続きの物語になっている構成が芝居がかっていて派手です。下の鬼女の顔、眉が吊り上がり目尻が鋭く切れ込んでいるのが分かるでしょうか。これが次の節で取り上げる「国貞の顔」の型そのものです。

歌川国貞が描いた歌川広重の死絵(追善肖像画)。剃髪して墨染めの法衣をまとい数珠を手にした老年の広重が座り、周囲に追悼の文章が書き添えられている
歌川国貞「歌川広重死絵」安政5年(1858)。同時代を生きた広重の訃報を受けて描かれた追善の肖像画です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

安政5年、広重が没した年に国貞が描いた死絵(しにえ、故人を悼んで出す追善の肖像画)です。剃髪して僧形になった広重の姿に、生前の友人だった学者が長い追悼文を寄せています。役者絵の派手さとは打って変わった静かな1枚ですが、これを描けたということ自体、国貞が同時代の絵師の中でどれだけ重い立場にいたかを物語っています。右上の署名は「豊国」。国貞が晩年に名乗っていた号で、この署名の変化にも国貞という人の歩みが表れています。

国貞の見分け方

数千枚も残っている国貞の作品には、いくつか共通する癖があります。知っておくと、次に美術館やオークションサイトで国貞の名前を見かけたとき、作品を見る解像度が変わってくるはずです。

顔の型——あごの線と目尻

国貞の役者絵の顔は、あごの先が細く尖り気味に伸び、目尻がやや下がり気味に切れ込むのが特徴です。先ほどの鬼女の顔を思い出してください。感情の起伏を、目と眉と口の角度だけで作っていく描き方で、輪郭そのものを大きく歪めることはあまりありません。派手な見得の場面でも、顔の骨格は一定の型に収まっているのが国貞らしさです。

着物の柄を主役級に描き込む

先ほどの名古屋山三と傾城葛城、市松格子の美人画、どちらも共通しているのは着物の柄への執着です。柄そのものが独立した図案として成立するくらい緻密に描き込まれ、時には人物の顔よりも先に目が行きます。役者絵であれば「この柄は誰それの紋所を崩したもの」と読み解く楽しみもあり、当時の贔屓筋はそこまで読んで喜んでいました。

大判三枚続の使い方

国貞は役者絵・美人画ともに、大判を2枚、3枚とつなげた続き物を得意としました。1枚では収まりきらない場面の広がりや、複数の登場人物の絡みを見せ場にするときに、この判型がよく使われます。先ほどの「戻橋」も上下2枚をまたぐ構成でしたが、三枚続になるとさらに横方向の広がりが出て、舞台の一場面をそのままパノラマにしたような迫力が生まれます。

落款の変遷——「いつ摺られたか」を読む手がかり

国貞は生涯のうちで署名を何度か変えています。これは単なる気まぐれではなく、その1枚がいつ摺られたものかを推定する手がかりになります。

国貞

文化年間、初代豊国の門人として頭角を現した若手時代の署名。

香蝶楼国貞

文政年間から天保年間にかけて用いた号。円熟期の美人画・役者絵の多くにこの署名が見られる。上で見た市松格子の美人画もこの時期。

二代目豊国

弘化元年(1844)、歌川豊国の名を継いで名乗り始めた署名。本人はこう称したが、後世は三代目として数える。

豊国

晩年の署名。上で見た広重の死絵もこの署名で、安政年間以降の作とすぐに分かる。

この署名の変化を年代の目安として使えるのが実践的なところです。ただし注意も要ります。同じ号を10年以上使い続けた時期もあるので、署名だけで年代をピンポイントに絞り込むことはできません。あくまで大まかな時期を絞る手がかりとして、改印や版元印など他の情報と組み合わせて見るのが確実です。摺りの早さや状態まで含めた見方は摺りと真贋の記事で詳しく扱っていますので、実際に1枚を手に取る前にあわせて読んでおくと役に立ちます。

なお、豊国の名跡を巡る話——国貞が自ら「二代目豊国」を名乗ったのに、後世はなぜ三代目と数えるのか、その混乱の経緯そのものは初代豊国のページで詳しく扱っています。ここでは深追いしませんが、気になる方は歌川豊国のページもあわせてどうぞ。

手に入るのか

ここが国貞のいちばんの強みです。生涯の生産量が浮世絵師随一だったということは、200年近く経った今も、現存する枚数が他の絵師よりずっと多いということです。北斎の当時摺りの名品が数百万円規模で取引される一方、国貞の役者絵は状態や摺りの時期にもよりますが、はるかに現実的な価格帯で市場に出てきます。この構図は、弟子筋にあたる豊原国周ら明治の役者絵師にも共通していて、このサイトが繰り返し勧めている「まず1枚を、自分の意思で選んで買う」という体験の、いちばん現実的な入口の1つが国貞だと思っています。

相場観の掴み方や、初摺・後摺の見分け方は摺りと真贋の記事に、実際にどこでどう探すかは手を出しやすい浮世絵の記事最初の1枚の選び方にまとめています。「有名な絵師だから高いはず」と決めつける前に、この3本を読んでから探してみてください。

どこで見られるか

国貞の作品は現存数が多い分、所蔵する美術館も豊富です。メトロポリタン美術館とシカゴ美術館は、この記事で使った画像も含めて役者絵・美人画ともに数百点規模のコレクションをCC0で公開しており、自宅からでも高解像度で着物の柄の1本1本まで確認できます。所蔵機関の探し方やデジタルアーカイブの使い方は海外の浮世絵美術館の記事デジタルアーカイブで見る記事にまとめています。

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