浮世絵は当時いくらだったのか——大錦一枚、二十文
江戸の人が絵草紙屋で払った額の話です。文化2年(1805)の黄表紙に、値段が九九の言葉遊びのまま刷り込まれていました。
文化2年の本に、値段が書いてあります
山東京伝が書き、歌川豊国が絵を描いた黄表紙『荏土自慢名産杖(えどじまんめいさんづえ)』、文化2年(1805)の刊行です。この本の中に、こんな一節があります。
二八十六文でやくしやゑ二まい、二九の十八文でさうしが二さつ、四五の廿なら大にしき一まい。
九九をそのまま値段に使った言葉遊びです。二八(にはち)十六で役者絵が二枚、二九(にく)十八で草紙が二冊、四五(しご)の二十で大錦が一枚。読み替えると、役者絵は一枚八文、草紙は一冊九文、そして大判の錦絵は一枚二十文ということになります。
後世の推定ではなく、売っていた時代に刷られた紙の上の数字です。私がこの記事を書こうと思ったのも、この一節を見つけたからでした。
二十文で、ほかに何が買えたか
数字は、単独では意味を持ちません。同じ江戸で、ほかのものがいくらだったかを並べます。
| もの | 値段 | いつごろの数字か |
|---|---|---|
| 大判の錦絵 1枚 | 20文 | 文化2年(1805) |
| 役者絵 1枚 | 8文 | 同上 |
| 草紙 1冊 | 9文 | 同上 |
| 湯屋(銭湯) | 6〜8文 | 文化文政期(1820年頃) |
| 歌舞伎の大向う(立見) | 10文ほど | 江戸後期 |
| かけそば | 12文/14文/16文と動く | 明和/寛政3年以降/一般に言われる額 |
| 寄席 | 36文 | 安政年間より前 |
| 歌舞伎の桝席(平土間) | 100〜120文 | 江戸後期 |
| 米 1升 | 約125文 | 文化文政期(1820年頃) |
| 大工の日当 | 銀3〜5匁 | 文化文政期(1820年頃) |
| 錦絵 1枚(幕末) | 24文ほど、高いもので30文超 | 幕末 |
文化文政期の相場では銀1匁がおよそ銭108文なので、大工の日当は三百二十文から五百四十文ほどになります。錦絵一枚は、その十六分の一から二十七分の一。銭湯三回ぶん。歌舞伎の立見なら二回ぶんです。
安い、と言い切っていいかは微妙なところだと思います。日当の二十分の一というのは、日給一万五千円の人が七百円ちょっと払う感覚に近い。缶コーヒー一本ではなく、ちょっといい菓子パンとコーヒーくらい。毎日は買わないけれど、月に何枚かなら買える。そのくらいの位置です。
「そば一杯と同じ」は、少しずれています
浮世絵の値段の話には、たいてい「かけそば一杯と同じ十六文」がついてきます。調べてみて、これは二重にずれていると思いました。
ひとつは、そばの値段が動くことです。享保年間(1716〜36)には七、八文だったものが、明和年間(1764〜74)には十二文になっている。寛政3年(1791)には、十六文だったものを十四文に値下げして、店の看板の「二八」を「二七」に書き換えたという記録まで残っています。「そば十六文」は、そば屋の値段の一時期の姿にすぎません。
もうひとつは、京伝の一節そのものです。あそこで十六文と釣り合っているのは役者絵二枚であって、大錦一枚ではない。大錦は二十文と書いてある。そば一杯より、四文高いのです。
ただ、専門家の言い方も揺れています。日野原健司自身、雑誌『水の文化』のインタビューでは「そば一杯と同じ、二八の十六文程度、今の値段でいえば四百から五百円」と語っている。一方で大英博物館で日本美術を担当していたティモシー・クラークは、役者絵などの値段を「かけそば大盛り二杯分より少し高い程度」と表現しています。同じ対象に、一杯と二杯強の二通りの言い方が並んでいるわけです。
一方で、2023年にクリスティーズで「神奈川沖浪裏」が276万ドルで落札されたときの報道では、この版画は元々そば一杯程度の安い食事と同じ値段だった、という説明が落札額と並べて紹介されました。落差を際立たせるには「一杯」のほうが効きます。単純な言い換えを最初に誰が言い出したのかは辿れませんでしたが、広まる理由のほうは分かる気がします。
三枚続は、単純に三倍ではありません
三枚続がいくらだったかは、曲亭馬琴の日記に残っています。天保11年(1840)、国芳の大判三枚続「八犬伝之内芳流閣」を、一枚三十八文、三枚揃いで百十八文で買った。三十八の三倍は百十四ですから、揃いで買うと四文高い。
馬琴はこれを割高だと感じたようです。ただ、色版を多く使っていて手間がかかっていると聞いて、結局買っている。値段に文句を言いながら買った記録が残っているところが、なんとも人間くさい。
この三十八文という数字も見逃せません。京伝の二十文から三十五年で、倍近くになっている。錦絵の値段は、時期によって動きます。
幕府が値段を決めた時期があります
寛政7年(1795)の町触では、二十文以上の錦絵は在庫のぶんだけ売ってよいが、新しく作るものは十六文から十八文にせよ、と決められています。天保の改革では色摺りの回数を七、八回までに制限したうえで、値段は一枚十六文以下。
この十六文が、作る側には厳しかったらしい。『藤岡屋日記』の天保14年(1843)春の記事に、紅をたっぷり使った神田祭の錦絵が、売れても十六文では売るほど赤字になった、という話が出てきます。役所が決めた上限が、原価を割っていたということです。
この二つは、値段の上限を役所が決めたということです。検閲と改印で書いたのは何を描いてよいかの規制でしたが、いくらで売ってよいかまで決められていた。改印の早見表で見た判子の数が増えていく時期と、値段に口が出される時期は重なっています。
同じ絵でも、摺りで値段が違いました
同じ日野原の解説に、歌川国貞の作品について、極上摺が二百文、中が百五十文、並が百文という例が挙げられています。同じ版木から出た同じ絵で、二倍の開きがある。二十文の絵と二百文の絵が、同じ図柄で並んでいたわけです。
摺る側の単位も見ておきます。江戸東京博物館の説明では、摺師が一度に摺る単位を「一杯」と呼び、これがおよそ二百枚。売れれば二杯、三杯と摺り増して、十杯(二千枚)売れれば評判の部類。広重「東海道五拾三次」は図によって五十杯、一万枚以上摺られたと伝わります。
判型と時代で幅を取ると、もっと開きます。宝暦年間(1751〜61)の細判の紅摺絵は一枚四文だったと『塵塚談』にあり、鈴木春信の中判は六十五文ほど、春信の「座舗八景」は八枚揃いを桐箱に入れて金一分——銭にして千文——だったと伝わります。一枚四文から千文まで、同じ「浮世絵」の中にあります。
摺り比べの連載で毎回眺めている摺りの差は、当時は値札の差でもあったわけです。今の私たちは、たまたま残ったほうを見ている。同じ図柄でも並と極上ではまるで違う顔になる、というあの感覚には、江戸の時点ですでに値段がついていました。
現代の円に直すと、いくらか
ここは慎重にいきます。日本銀行金融研究所の貨幣博物館は、一両が今のいくらかという問いに対して、比較の対象によって答えが大きく変わるので単一の正解はない、とはっきり書いています。
実際、基準を変えると数字はこう動きます。
| 換算の基準 | 1文 | 錦絵1枚(20文) |
|---|---|---|
| 米の値段で揃える | 8.8〜10円 | 約180〜200円 |
| 働いて得る賃金で揃える | 47.6円 | 約950円 |
| 太田記念美術館の解説(1両=10万円と置く) | 25円 | 約500円 |
一枚二百円と言えば駄菓子、九百五十円と言えば文庫本です。どちらを採るかで、江戸の人にとっての浮世絵の位置づけが変わってしまう。私はこういうとき、幅のまま覚えておくのがいちばん正直だと思っています。二百円から千円のあいだ、というのが今の私の理解です。
そして今は
二十文だった紙が、いくらになっているか。歴代浮世絵価格ランキングに公開された落札記録だけを並べてあります。版画の単図では、北斎「神奈川沖浪裏」が2025年11月にサザビーズ香港で280万ドル、日本円で約4億3,000万円。
四億三千万円を二十文で割ると、二千万倍を超えます。もっとも、当時二十文で買われた同じ図が四億で売れているわけではありません。二百年のあいだに大半が失われ、状態のよいものだけが残り、そこへ世界中の需要が乗った結果です。数字の落差そのものより、絵草紙屋の店先で二十文を払った人がいた、という事実のほうが私には面白い。
その人は、四億になるとは思っていません。壁に貼って、色が飛んだら捨てるつもりで買っている。浮世絵とは何かで書いたとおり、これは元々そういう紙でした。
つづけて読む
- 歴代浮世絵価格ランキング — 一枚の紙が家より高くなるまで
- 手を出しやすい浮世絵 — 今の値段で現実的に買える範囲
- 版元列伝 — 値段を決めていた側の話
- 改印・年月印 早見表 — 値段と一緒に規制されていた判子