摺り比べ 第1回 神奈川沖浪裏——世界一有名な波を、2枚並べる

同じ図柄の浮世絵を2枚並べて、どこが違うかをただ眺める連載です。第1回は、いちばん有名なあの波から始めます。

「摺り比べ」という連載を始めます

やることは単純です。同じ図柄の浮世絵を2枚並べて、どこがどう違うかを具体的に指差していく。それだけの連載です。浮世絵は版画なので、同じ絵が世界中に何枚も存在します(このあたりの話は浮世絵とは何かで書きました)。ところが、同じ版木から生まれたはずの2枚を実際に並べてみると、驚くほど違う顔をしている。この面白さは、文章で百回説明されるより、2枚を一度見るほうが早い。幸い、海外の美術館が所蔵品をCC0(パブリックドメイン)の高解像度画像で公開してくれているおかげで、ニューヨークの1枚とシカゴの1枚を、こうして同じ画面に並べることができます。

第1回は葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。左(スマートフォンでは上)がメトロポリタン美術館の所蔵、右(同・下)がシカゴ美術館の所蔵です。まずは何も言わずに並べますから、しばらく眺めてみてください。第一印象で「色が違う」と感じたら、それで正解です。私も最初にこの2枚を並べたとき、思わず「え」と声が出ました。

メトロポリタン美術館所蔵の神奈川沖浪裏。空は明るい生成り色で、雲の形がはっきり見える。画面の際まで裁ち落とされ余白はほとんどない
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」天保元〜4年(1830〜33)頃 メトロポリタン美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)
シカゴ美術館所蔵の神奈川沖浪裏。空全体が灰褐色に沈み、富士の背後の墨色のぼかしが濃い。紙の四方に広い余白が残る
同「神奈川沖浪裏」1830〜33年頃 シカゴ美術館蔵(クラレンス・バッキンガム・コレクション、CC0 / パブリックドメイン)
1 空——明るさと雲の輪郭 2 波頭——爪の輪郭線の太さ 3 舟——船体に色があるか 4 余白——四辺が残っているか
この先の見比べで指差していく4箇所を、先に地図にしておきます。①空の明るさと雲の見え方、②波頭を縁取る輪郭線の太さ、③舟の船体に色が乗っているか、④紙の四辺に余白が残っているか。この順番で見ていきます。

まず空を見てください

いちばん分かりやすいのは空です。メトロポリタンの1枚は、明るい生成り色の空に、輪郭のやわらかい雲がふんわり浮かんでいるのが見えます。波頭の右上あたりに白っぽい雲のかたまりがあるのが分かるでしょうか。シカゴの1枚は、空全体が灰褐色に沈んでいて、雲の形はほとんど見分けられません。

富士山のまわりも見てください。水平線の上に墨色のぼかし(グラデーション)が入っているのは同じですが、その濃さがまるで違います。メトロポリタンは銀色がかった薄い灰色なのに対し、シカゴは黒に近い濃さで、しかもかなり高い位置まで塗り上がっている。同じ「夜明けの空」のはずが、片方は晴れた朝、片方は嵐の前のような表情です。

波頭の輪郭線と、爪の中の薄藍

この絵の主役、波しぶきの「爪」の部分を拡大して見比べてみてください。爪の一つひとつを縁取る藍色の輪郭線が、メトロポリタンでは細く均一に走っているのに対し、シカゴではひとまわり太く、ぼってりとして見えます。そして爪の内側に置かれた薄い藍色。メトロポリタンではごく淡く、白い泡の中にひっそり混ざる程度ですが、シカゴでははっきり濃く入っていて、波頭全体が青みがかって見えます。

手前の波のうねりも同じ傾向で、シカゴの1枚は中間調の薄藍が画面のあちこちで強く主張しています。輪郭線の太さの違いは、版木の摩耗や彫りの状態、摺るときの絵具の含ませ方などいくつもの要因がありえて、これだけで何かを言い当てることはできません。ただ「線の表情が明らかに違う」ことだけは、誰の目にも見えるはずです。

メトロポリタン本 輪郭線は細く均一、内側の藍はごく淡い シカゴ本 輪郭線は太くぼってり、内側の藍も濃い
波頭の「爪」の輪郭線だけを模式的に拡大した比較です。線の太さと、爪の内側に置かれた薄藍の濃さ、両方が違って見えます。

舟の色が、片方にはない

個人的にいちばん驚いたのがここです。波に翻弄されている3艘の舟——押送船という早舟です——の船体が、メトロポリタンでは黄土色に摺られて木の色をしているのに、シカゴではその色がほとんどなく、ほぼ紙の色のままなのです。右上の舟で見比べると一目瞭然で、漕ぎ手の青い着物は両方にあるのに、彼らが乗っている舟の色だけが違う。色版が1枚、摺られていないか、あるいは退色して消えたか。どちらなのかは画像からは分かりませんが、「同じ絵で使われている色の数が違って見える」というのは、版画ならではの現象です。

余白の有無

絵の外側にも違いがあります。シカゴの1枚は紙の四方にたっぷり余白が残っています。メトロポリタンの1枚は、画面の際ぎりぎりまで裁ち落とされていて、余白がほとんどありません。浮世絵は摺られたあと、額装や貼り込みのために縁を切り詰められることがよくありました。余白が残っているかどうかは絵の出来とは別の話ですが、市場では評価に響く要素です。この話は裁ち落としの回で詳しく書いています。

で、どちらが「早い摺り」なのか

ここまで読んで、「つまりどっちが初摺で、どっちが上等なのか」と聞きたくなったと思います。私も知りたい。でも、あえて答えは出しません。

いま見てきた違いの背景には、摺られた時期の違い(版木は摺るほど摩耗し、色も省略されていきます)があります。そこに、その後の190年間の事情——日光による退色、紙の焼け、保存環境——が全部重なって混ざっています。空の灰褐色は摺りの指定なのか経年の変色なのか。舟の色は最初からなかったのか消えたのか。実物を調査できる専門家でも、1枚だけ見て断定するのは難しい世界です。だから断定はしない。それでも、並べれば違いは誰の目にも見える。この「断定はできないが、違いは見える」という距離感こそ、この連載で持ち帰ってほしいものです。値段の話にどうつながるかは同じ絵なのに値段が違う理由に書きました。

この連載は2枚の優劣を決めるものではなく、掲載順にも意味はありません。摺りの早さ・保存状態・退色はそれぞれ別の要因で、Web用の画像から言えることには限りがあります。ここに書いたのは、公開されている画像を並べて実際に見えた違いだけです。

百数十枚の「違う顔」が世界中にある

神奈川沖浪裏は、当時5千枚とも8千枚ともいわれる枚数が摺られたと推定されています。現存が確認されているのは、百数十枚。ボストンで、ロンドンで、東京で、あなたが次に会う波は、この2枚のどちらとも違います。世界一有名な絵が、実は一枚一枚ぜんぶ違う。版画とはそういうものだと知ってから見る展覧会は、ちょっと別の遊びになります(展示室での見どころは浮世絵展の見方もどうぞ)。

大英博物館の研究者カプシーヌ・コレンバーグ氏が世界中の所蔵記録を追った調査では、現存する神奈川沖浪裏として113枚が確認され、研究の完了後にさらに2枚が見つかったと報告されています。数千枚が百数十枚になるまでの間に、火事や震災や戦争があり、壁に貼られて日に焼けた1枚も、大切に桐箱で眠っていた1枚もあったはずです。

摺り比べ 全記事

1回につき1作品、同じ図柄を並べて違いを眺めるだけの連載です。どの回から読んでも構いません。

取り上げる作品は、ライブラリに同じ図柄の別個体が2点以上あるものから選んでいます。掲載画像はすべてパブリックドメインで公開されているもので、出典は各図版に明記しています。

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