一枚語り 第2回 広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」——鯉が一匹、江戸をふさぐ

名所を描く約束のシリーズで、名所の前に巨大な鯉をぶら下げた一枚です。第2回は、この無茶な画面をゆっくり見ます。

歌川広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」。黒い真鯉の吹き流しが画面の左半分を占めて泳ぎ、その向こうに雪をいただく富士山と江戸の町並み、手前下には神田川に架かる水道橋と渡る人々が小さく描かれている
歌川広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」安政4年(1857)5月。右上に朱の題箋「名所江戸百景」と、藍地の図題「水道橋 駿河台」。左に朱枠の落款「広重画」、その下に版元・下谷新黒門町の魚屋栄吉の印が入ります。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

画面の半分が、鯉の胴体です

まず、絵として何が起きているかを確かめます。黒い真鯉の吹き流しが右上から左下へ、くの字にたわみながら画面を横切る。頭は上端すれすれ、尾は下端で切れている。縦長の紙の左半分は、ほぼこの一匹で埋まっています。そして画面の右寄りには、鯉を吊るした竿が一本、上から下まで通っている。絵を縦にまっぷたつにする線です。

頭のあたりを拡大します。

鯉のぼりの頭の部分拡大。白い輪の中に青い虹彩と黒い瞳という三色でできた大きな目、細い線を並べて陰影をつけた鱗、上端には紫から水色へ抜けるぼかしの空
同図の頭の部分拡大。目だけで白・青・黒の三色を使っています。鱗は輪郭を彫ったうえに細い線を並べて、布の張りと影を出しています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

目に見とれてください。白い輪、青い虹彩、黒い瞳。作り物の吹き流しの、しかも一匹の魚の目玉に、色版を三つ使っています。鱗も一枚ずつ輪郭を彫ったうえに、内側へ細い線を扇状に並べて、布のたわみと影を作っている。彫師の仕事としては、かなり手間のかかる面です。上端の空は紫から水色へ抜ける一文字ぼかしで、鯉の黒がそこに食い込んでいます。

江戸の鯉のぼりは、黒い真鯉が一匹だけ

この絵に緋鯉はいません。省略でも退色でもなく、当時はそれが普通でした。江戸の鯉のぼりは和紙で作った黒い真鯉が一匹、というのが基本の形です。赤い緋鯉が対で揚がるようになるのは明治の後半から大正にかけて、青い子鯉が加わって家族の姿になるのは昭和三十年代以降だと説明されます。今の五月の空とは、まるで違う眺めだったわけです。

同図の中景の部分拡大。雪をいただく富士山、その手前に黒い小さな鯉のぼりが二匹、白地の幟旗が数本、赤い吹き流しが一本、地平には赤い帯状のぼかしと江戸の町並みが広がる
同図の中景。奥に揚がっている鯉のぼりも二匹とも黒です。白い幟旗のうち二本には人物が描かれていて、端午の節句に武者や鍾馗を掲げた幟の名残が読み取れます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

奥の空にも小さな鯉のぼりが二匹揚がっていて、こちらも黒。赤いものは吹き流しが一本だけです。幟旗が何本も立ち、そのうち一本には人物らしき姿が描き込まれている。端午の節句は鯉のぼりだけの行事ではなく、武者絵や鍾馗を刷った幟を立てるものでもありました。武者絵が売れた背景の一つが、この空の下にあります。

本当の名所は、鯉の向こうにあります

ここでタイトルを思い出してください。「水道橋駿河台」です。鯉のぼりの絵ではありません。

絵の中で名所にあたるものは、全部、鯉の脇か向こうにあります。中央奥に富士山。その手前に駿河台の武家屋敷と江戸の町並み。画面のいちばん下、右寄りに神田川と水道橋が架かり、橋の上と土手を、日傘や笠の人が数人歩いている。指の先ほどの大きさです。名所絵として売られた一枚で、名所が全部この扱いになっている。

広重は第1回で見た「大はしあたけの夕立」でも、名所であるはずの新大橋を雨で塗りつぶしていました。近くのものを画面から溢れるほど大きく置き、遠くの名所を豆粒にする——名所江戸百景には、この手つきが繰り返し出てきます。全119図の並びは名所江戸百景 全119図ガイドにまとめました。

一枚の紙に、四つの距離が同居している 目 鯉のぼり すぐ目の先 画面の約半分 水道橋 川ひとつ手前 下端に細く 駿河台の町 川の向こう 帯のように一列 富士 およそ100km先 親指ほど 遠近法なら手前が大きくなるのは当然だが、ここは「当然」の度を越している 目盛りは実際の距離に比例していません
絵の中に置かれた四つのものを、実際の距離の順に並べた模式図です。目の先の吹き流しから、地平の富士まで。この落差を一枚の縦長に押し込むところに、この図の面白さがあります。

「水道」は、画面に描かれていません

水道橋という名は、神田上水を江戸城下へ渡すための懸樋(かけひ)がこのあたりに架かっていたことに由来します。上水を空中で川の上へ渡す、木の樋(とい)です。ところがその肝心の懸樋は、この絵に描かれていません。鯉のぼりの向こう、画面の外にあたる位置だったとされます。橋の名の由来になった構造物を画面から外し、代わりに鯉を吊るした——広重が何を面白がっていたかが、少し見えてきます。

駿河台という地名のほうにも由来があります。家康が亡くなったあと、駿府詰めだった家臣たちがこの高台に屋敷を構えたから、という説が主流です。二代将軍秀忠の次男・徳川忠長(駿河大納言)の屋敷があったからとする説もあります。どちらの説にも「駿河」と「富士がよく見える高台」が絡んでいて、この絵の奥に小さく富士が立っているのは、地名の説明としても筋が通っている。

北斎は、同じ高台をこう描きました

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東都駿河台」。坂道を行き交う旅人や荷を担ぐ人足が十人ほど、大きな木と茅葺きの建物が画面右にあり、富士山は右奥に小さく覗いている
葛飾北斎「冨嶽三十六景 東都駿河台」天保元〜4年(1830〜33)頃。同じ駿河台でも、こちらは坂を行き交う人が主役で、富士は屋根の向こうに小さく見えるだけです。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

北斎の駿河台は、坂道の人の絵です。荷を担ぐ人足、笠をかぶった旅人、茅葺きの屋根。視線の高さも、坂の途中に立った人のものです。富士はちゃんといるのに、屋根の陰から少し覗く程度しかない。広重の鯉ほど極端ではないにせよ、北斎もまた「富士を主役に置かない冨嶽」を平気で作っています。

二枚のあいだには二十数年の開きがあります。同じ高台を、片方は坂の人の目の高さで、もう片方は鯉のぼりに視界をふさがれた高さで描いた。冨嶽三十六景の全46図と名所江戸百景を並べて眺めると、この二人が同じ土地でまるで違う遊びをしていたことが分かります。

第64景、夏の部

この一枚は名所江戸百景の第64景、夏の部に入ります。改印は安政4年(1857)5月。シリーズが安政3年(1856)2月から安政5年(1858)10月まで、二年半かけて出続けたことを思えば、ちょうど折り返しのあたりです。版元は魚屋栄吉。

五月の絵だから鯉のぼりなのですが、季節の風物を描くのに、風物そのものを画面いっぱいに引き伸ばして名所を隠すというのは、他のシリーズではなかなか見ない乱暴さです。それでいて、鯉の腹の白と空の水色、地平に一本引かれた赤の帯、足もとの川の藍は、きちんと落ち着くところに落ち着いている。乱暴な構図を、色でなだめている一枚だと思います。

鯉が滝を登って龍になるという中国の「登竜門」の話が、鯉のぼりの由来です。立身出世を願って揚げるものが、江戸では黒い一匹だけだった。家族を並べて揚げる今の形になるまでに、百年近くかかっています。

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