明治の浮世絵 第5回 引札——絵が、枠になっていく
商店が配った広告の紙です。明治10年の一枚には絵師が署名しています。明治24年の一枚は、真ん中が空いたままでした。
引札は「配る札」です
まず名前から。「客を引く札」だと思っていたのですが、東京都立図書館の解説によると、本来は「配る札」の意味だそうです。古語の「引く」に配るという意があった。
江戸では引札と呼び、上方では「ちらし」と呼びました。撒くように配る様子から「チラシ」という言い方が生まれたとされます。今のチラシと折込広告の先祖が、そのまま同じ名前で残っているわけです。
起源としてよく挙げられるのが、三井越後屋が改装開店のときに配った一枚摺りです。ただし日本語の資料は天和3年(1683)とし、英語の資料は1691年としていて、年が合いません。文化・文政期(1804〜30)に盛んになったこと、「ひろめ屋」という配布専門の業者がいたことは、複数の資料が一致しています。
明治10年、蒸気船の広告
これは広告ですが、見た目は錦絵そのものです。
画面の下端は藍が濃く、上へ抜けていく。水面には鱗のような細かい波の型が敷いてある。地平には紅の一文字が走り、右奥に富士が小さく置かれる。第3回の横浜絵や第2回の開化絵で見た手つきと、まるで同じです。
左の題箋は上が紅、下が緑にぼかしてあって、そこに「東京 内國通運會社」と社名が入り、脇に「仮取扱所」「同取扱所」とその所在地が小さく添えてある。上部には巻物のような枠に入った長い広告文。絵と文と社名が、一枚の中で組み上がっています。
そして右下に「年信画」の署名と朱印。絵師が、名前を出して広告を描いている。第1回の錦絵新聞で見たとおり、明治の絵師は仕事の受け皿を次々に変えていきました。ここでは、その受け皿が広告だった、というだけの話です。
明治24年、真ん中が空いている
十四年後です。こちらのほうが、はるかに手が込んでいます。
四辺は鶴と鳳凰と蔓草の帯。右には龍が巻きついた花瓶に、梅と椿と柳が生けてある。手前に白い牡丹が大きく開き、脇には煙草盆らしきものと茶碗。色数も、朱・緑・紫・金茶・藍と多い。
ところが、画面の左三分の二が空いています。文字も絵も無く、細かい網目の地紋が敷いてあるだけ。
つまりこれは、完成品ではありません。商店がこの紙を買って、空いたところに自分の店名と売り文句を刷り込む。枠は既製品で、中身だけが店ごとに違う。
十四年で、何が入れ替わったか
明治10年の通運丸は、この船のためだけに描かれています。船の形も、社名の位置も、広告文の長さも、この一件のためのもの。だから絵師の署名が意味を持ちます。
明治24年の一枚は、どの店にも合うように作られています。鶴も鳳凰も牡丹も、特定の商売を指していない。めでたければ、何の店でもいい。
広告を作る仕事が、絵師の手から印刷屋の手へ移っていく途中の姿だと思います。ただし、後者にも「昌信筆」と読める署名が入っている。絵師が消えたわけではなく、描く対象が「この店の広告」から「どの店にも使える枠」へ変わった。仕事は残って、仕事の中身が入れ替わった。
木版か、石版か
この時期の引札を語るときは、木版から石版への移行が必ず話題になります。印刷博物館は、印刷技術の変遷を知るうえで引札は格好の題材だと書いています。
見分ける手がかりも、同じ印刷博物館が整理しています。木版は馬連でこするので木目が出る。銅版は濃淡に変化がある。石版は絵画的で、筆致がそのまま出る。写真版は拡大すると網点が見える。活版は活字を組む。
年代のほうも押さえておくと、石版印刷は明治7年(1874)に印刷局が始めています。明治10年(1877)ごろまでは木版・銅版・石版・活版が並立していて優劣がつかず、そのあと絵画的な用途は石版へ移っていった、という整理があります。
いま買うと
引札は使い捨ての紙ですが、まとまって残っています。国内の古書店の2020年の販売例では、木版の色摺りが三千円から二万円、石版の色摺りが五、六千円ほど。海外の浮世絵専門店は、状態のよいものでも百ドルを超えることはめったにない、と書いています。
錦絵よりずっと安い。紙が薄く、判型が小さく、そもそも配り物だったぶん、長いこと美術品として扱われてこなかったからでしょう。手を出しやすい浮世絵の観点では、いちばん下の段にある紙です。
次回は、明治の一枚を買う話へ
第6回はこの連載の着地です。錦絵新聞、開化絵、横浜絵、戦争絵、引札——ここまで見てきたものが、今どのくらいの値段で市場に出ているのか。実際に手を出すならどこからか。
つづけて読む
- 連載の目次に戻る
- 第4回 戦争絵——最後の大量生産 — 宣戦布告の8日後に25種類
- なぜ浮世絵は廃れたのか — 木版が印刷に負けていく話
- 手を出しやすい浮世絵 — 現実的に買える価格帯