明治の浮世絵 第1回 錦絵新聞——新聞が絵だった10年

明治7年(1874)、新聞に載った事件を一枚の錦絵に仕立てて売る商売が始まります。値段は1銭6厘から2銭ほど。字が読めなくても、絵を見ればおおよそ分かるようにできていました。

事件を、一枚の錦絵で売る

錦絵新聞「東京日々新聞」第三号。上部に扇形の題字を左右から翼のある童子が支え、その下に事件のあらましを記した文章が縦書きで組まれ、下半分に紫の着物の女性と座り込む男性が描かれている
「東京日々新聞」第三号、明治7年(1874)7月。絵は落合芳幾、彫師は渡辺彫栄、版元は人形町の具足屋。画面右下に「一蕙齋芳幾」の落款、右端に登場人物の名を記した札が入ります。 国立国会図書館蔵(パブリックドメイン)を部分拡大

上端の扇形をした題字を、翼の生えた裸の童子が左右から支えています。西洋の天使です。その隣に「第三號」の札。文章は縦書きでびっしりと詰め込まれ、下半分に絵がある。大判一枚、つまりふつうの錦絵とまったく同じ紙です。

ここで一つ、勘違いしやすい点があります。これを出したのは新聞社ではありません。日本橋人形町の地本問屋・具足屋嘉兵衛、つまり浮世絵の版元です。東京日々新聞に載った記事を題材にして、版元が絵師と彫師と摺師を動かし、錦絵として売った。新聞という新しい商売の外側に、江戸から続く錦絵の商売がくっついた形になります。版元という職業が何をする人たちだったかは版元列伝にまとめてあります。

値段は、東京で1銭6厘から2銭ほどだったと東京大学総合研究博物館の資料にあります。大阪ではもっと安く、6厘。江戸の錦絵が一枚16文から20文あたりだったことを思えば、感覚としては地続きの商品です。要は「気軽に買える一枚」の枠から出ていません。

呼び名すら、まだ決まっていません

このジャンル、研究者によって呼び方が割れています。宮武外骨は「錦絵新聞」で通し、小野秀雄は東京で出たものを「新聞錦絵」、大阪のものを「錦絵新聞」と呼び分けました。土屋礼子はニュースメディアとしての働きを重く見て「錦絵新聞」に統一し、佐藤健二は錦絵としての出自を重く見て「新聞錦絵」に統一しています。名前が定まらないのは、この一枚が新聞なのか錦絵なのか、見る角度で答えが変わるからです。

小野秀雄の呼び分けには根拠があります。東京のものは題字に既存の新聞名をそのまま掲げ、号数もその新聞の号数を借りる。上の一枚が「東京日々新聞 第三號」を名乗っているのはそのためです。対して大阪のものは独自の題名と独自の連番を持ち、取材まで自前で行いました。同じ「絵入りのニュース」でも、東京は既存メディアの二次利用、大阪は独立した媒体、という違いになります。

版面が、二通りあります

錦絵新聞「郵便報知新聞」第五百五十一号。紫の枠の内側、上部に桃色地の文章欄と赤い飾り枠の題字が横に並び、その下の絵では川べりの岩場で男が一人さかさまに水へ投げ落とされている
「郵便報知新聞」第五百五十一号、明治8〜9年(1875〜76)頃。絵は月岡芳年、文は落語家の三遊亭円朝。文章は上部の桃色の欄に独立して収まり、絵はその下に一枚の画面として置かれます。 国立国会図書館蔵(パブリックドメイン)を部分拡大

並べると、作りが違うことがすぐ分かります。東京日々新聞のほうは、文章が絵の中に置かれています。壁だか衝立だかの上に文字が乗っているように見えて、絵と文が同じ平面で溶けている。江戸の摺物や画賛の作法をそのまま持ち込んだ形です。一方の郵便報知新聞は、上部に桃色地の欄を独立して構え、そこに文章を流し込み、絵は下に別の画面として置く。文章と絵が線できっぱり分かれています。

同じ錦絵新聞でも、紙の使い方が違う 東京日々新聞(絵=落合芳幾) 題字 文章 絵 文章が絵の中に重なる 題字を天使が支える 郵便報知新聞(絵=月岡芳年) 文章 題字 絵 文章と絵が上下に分かれる 枠は紫、題字の札は朱
版面の作りだけを取り出した模式図です。左は絵と文が同じ平面に同居し、右は上下に切り分けられている。右の作りのほうが、このあと出てくる活版の新聞の紙面に近づいていきます。

描いたのは、歌川国芳門下の兄弟弟子ふたりです。東京日々新聞を落合芳幾、郵便報知新聞を月岡芳年。芳幾のほうが兄弟子で、幕末には二人で凄惨な場面を競い合うように描いていた時期もあります。芳年は明治6年(1873)頃から「大蘇芳年」と号すようになり、その2年後にこの仕事が始まりました。同門のふたりが別々の新聞について、隣り合う商売で腕を競った——芳年のページで書いた「最後の浮世絵師」の、これはまだ途中の姿です。

彫師の名が、刷り込んであります

上の郵便報知新聞、画面の左下をよく見てください。「彫工 銀」とあります。東京日々新聞のほうには「渡辺彫栄(わたなべほりえい)」の名が繰り返し出てきます。上の第三号も彫りはこの人です。

これは、なかなか珍しいことです。江戸の錦絵では、絵師の落款と版元の印は入っても、彫師と摺師の名が画面に出ることはめったにありません。摺師の仕事で書いたとおり、浮世絵は分業でできあがる商品で、そのうち名前が残るのは絵師だけ、というのが長いあいだの相場でした。それが明治の錦絵新聞では、彫師の名が小さく、しかし堂々と刷り込まれている。仕事の速さが売りの商売だったからか、腕の宣伝になったからか、理由までは分かりません。ただ、名前の残らなかった側の職人の名が読める例として、この一枚は貴重です。

何が載っていたのか

錦絵新聞「東京日々新聞」第一号。僧形の男が刃物を振り上げ、床に倒れた女性に覆いかぶさっている。画面の右に「姦僧慶山」、左に「貞婦せん」と登場人物の名を記した札がある
「東京日々新聞」第一号、明治7年(1874)7月。記念すべき創刊号の題材が、信州で貞婦が悪僧に襲われたという事件でした。右の札に「姦僧慶山」、左に「貞婦せん」と二人の名が刷られ、画面の隅には文章を書いた「山々亭有人」の印も見えます。 国立国会図書館蔵(パブリックドメイン)を部分拡大

創刊号がこれです。殺人、心中、密通、詐欺、怪異、それに孝行話。並べていくと、後年の写真週刊誌に近い品揃えになります。土屋礼子は錦絵新聞を、字を読み慣れない層に向けた「小新聞に連なるニュース媒体」と位置づけました。報道と呼ぶには扇情に寄りすぎ、読み物と呼ぶには実在の事件に寄りすぎている。その中間にあるものだった、ということだと思います。

文章を書いたのは、戯作者や新聞記者たちです。上に挙げた郵便報知新聞の第五百五十一号は、文を落語家の三遊亭円朝が担当しています。事件を語って聞かせるという意味では、たしかに人選として筋が通っている。絵師・彫師・摺師・戯作者・落語家が一枚の紙の上に同居しているのが、この10年間の面白さです。

10年もちませんでした

錦絵新聞が始まった明治7年(1874)の11月、読売新聞が創刊します。総ルビの平易な文章で書かれた、いわゆる小新聞です。錦絵新聞と読者層はほぼ同じ。ところがこちらは活版で刷り、挿絵は単色。速くて、安くて、毎日出ます。

木版の多色摺りは、この勝負に構造的に勝てません。彫って、摺って、乾かして、色数だけ版を重ねる。工程を思い出せば、一日で世に出すのは無理だと分かります。東京日々新聞の錦絵版は明治9年(1876)9月に発行を止めたとされ、ジャンル全体としても明治7年から14年(1881)あたりに集中したまま、10年たたずにほぼ消えました。

この負け方は、そのあと浮世絵全体が石版と写真に負けていく筋道を、そのまま先取りしています。なぜ浮世絵は廃れたのかで書いたのは産業としての終わり方でしたが、錦絵新聞はその最初の一敗にあたる。ただ、負けた側が残した100枚あまりは、活版の新聞が伝えられなかったものを一つ持っています。事件が起きた部屋の色です。

今も1万円前後で出てきます

錦絵新聞は、市場でそれほど高い部類には入りません。浮世絵専門店の販売記録では、東京日々新聞の一号が13,000円、郵便報知新聞が8,000円といった掲示が並びます。国内のネットオークションの落札履歴を集計したページでは、4,000円から24,900円、平均で1万円ほどという数字が出ています。江戸期の名品と比べれば、桁が二つ三つ違う世界です。

安い理由は現存数の多さと、美術品としての評価軸に乗りにくいことでしょう。逆に言えば、明治の東京で実際に売られ、実際に読まれた一枚が、その値段で手に入るということでもあります。明治ものが狙いやすい理由は手を出しやすい浮世絵にまとめました。

この記事の図版は国立国会図書館デジタルコレクションの画像です。撮影時のカラーチャートと定規、請求記号の帯が写り込んでいるため、絵の部分だけを切り出して載せています。原本の余白の状態はこの画像からは読み取れません。
錦絵新聞をまとめて見たい場合、千葉市美術館編『文明開化の錦絵新聞——東京日日新聞・郵便報知新聞全作品』(国書刊行会、2008年)が全作品を高精細図版と翻刻付きで収めています。研究としては土屋礼子『大衆紙の源流——明治期小新聞の研究』(世界思想社、2002年)の第4章が、錦絵新聞から絵入り小新聞への移り変わりを追っています。

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