武者絵の名作を追う 第2回 源平——義経と弁慶、どの一瞬を選ぶか
義経の一代記は、鞍馬の山から衣川まで三十年あります。それなのに、江戸の絵師が繰り返し描いた場面は三つしかありません。
天狗に、一人ずつ名前がついている
中央の紙に浮かんでいる白い衣の連中を見てください。鼻の高いのも、鳥のくちばしを持つのも、白髭の老人も、みんな天狗です。そして一人ずつ、赤い札に名前が刷ってある。鞍馬僧正坊、愛宕山太郎坊、比良次郎坊、彦山豊前坊、飯綱三郎、大峯前鬼。ここに右の紙の大山伯耆坊、左の紙の白峯相模坊を合わせると八人。諸国の霊山に住むとされた大天狗たちで、まとめて八大天狗と呼ばれます。
牛若丸が鞍馬山の僧正ヶ谷で天狗に兵法を習ったという話は、軍記物語『義経記』の巻一に出てきます。室町時代の能『鞍馬天狗』でも、大天狗が牛若に剣を教えます。江戸の買い手はこの筋を知っている。だから国芳は説明をしません。代わりに、天狗を一人ずつ名指しで並べました。第1回の通俗水滸伝で豪傑の綽名と本名を札に刷ったのと、同じ手つきです。名前を貼れば、絵が名鑑になる。
三枚続の使い方も国芳らしい。右で弁慶が軍扇を構え、左で牛若丸が欄干に立ち、そのあいだの一枚まるごとを天狗が占領しています。真ん中の紙だけを買った人は、天狗の群れだけを手にすることになる。国芳のページで書いた「三枚並べて初めて完成する画面」の、これは分かりやすい例です。
五条橋は、たぶん史実ではありません
弁慶が千本の太刀を集め、九百九十九本目で牛若丸に負けた——という話が、五条大橋の上での出来事として広まっています。ところが『義経記』の本文では、二人が渡り合うのは五条天神社のあたりや清水観音で、橋の上ではありません。橋での対決という形は、御伽草子や謡曲『橋弁慶』を経て固まったもので、「五条大橋」という名前まで含めて定着したのは、かなり後だと指摘されています。
ついでに言うと、橋そのものの場所も違います。平安末期に五条大路に架かっていた橋は、今の松原通のあたりでした。現在「五条大橋」と呼ばれている橋は、豊臣秀吉が方広寺の造営に合わせて架け替えたもので、義経の時代には存在しません。
だからといって、江戸の絵師がでたらめを描いたわけではない。買う側も売る側も、これが「本当にあったこと」かどうかで買っていません。話としてよくできている。それだけで武者絵の題材としては十分でした。
三十年の一代記から、三つだけ選ばれた
三つに共通するのは、大軍の動きではなく、人と人が向かい合う一瞬だということです。橋の上で刀を抜く二人。船から船へ跳ぶ男と、それを追う男。関所で杖を振り上げる家来と、打たれる主君。合戦絵として最も派手なのは壇ノ浦ですが、その壇ノ浦ですら、絵師が選ぶのは義経が跳ぶ一瞬でした。
国芳が壇ノ浦を三枚続で描いた「長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家一門悉く亡びる図」は、国芳のページに載せています。左の紙で刀を構えたまま宙にいるのが義経、中央の御座船に二位の尼と安徳天皇。壇ノ浦は元暦2年(1185)3月24日、長門国赤間関——今の山口県下関市の沖です。
四十年前は、ただ立っていた
国芳の三枚続より四十年ほど前の一枚です。義経と弁慶が同じ画面にいて、しかし何も起きていない。背景に橋も関所も海もなく、二人はただ立っています。武者絵がこういうものだった時期は、確かにありました。人物を紹介する絵、と言ってもいい。
国芳のあとの武者絵を見慣れた目には物足りなく映るかもしれませんが、この静かさには別の効き目があります。動きがないぶん、鎧の縅(おどし)や長刀の拵え、頭巾の畳み方といった装束の細部が、じっくり見られる。ジャンル案内で書いたとおり、武者絵はもともと「英雄の姿かたちを知る」ための絵でもありました。
色が入る前の、勧進帳
これは退色ではありません。輪郭を彫った主版だけを摺った紙です。よく見ると、着物の各所に小さな字が書き込まれている。ここは藍、ここは紫、ここは紅——絵師と版元が色を決めるために回した一枚だと考えられます。工程のいちばん途中にあたる紙で、仕事が終われば普通は残りません。それが百七十年ものあいだ生き延びて、今こうして見られている。
描かれているのは安宅の関です。手前で金剛杖を握り、兜巾(ときん)を締めて見得を切っているのが弁慶。その奥、立烏帽子に鶴の文様の衣で扇を持つのが関守の富樫左衛門です。義経は画面にいません。三人の対決のうち、二人だけを切り取っています。
能『安宅』を歌舞伎に仕立てた『勧進帳』は、天保11年(1840)3月、江戸・河原崎座で初演されました。初演で弁慶を勤めたのは五代目市川海老蔵。天保3年(1832)に團十郎の名を息子へ譲り、自分は海老蔵を名乗った七代目團十郎その人です。そしてこの図で弁慶を勤めているのは八代目市川團十郎、名を譲られたその息子でした。父が創った役を息子が継ぎ、父は関守にまわっている。札に刷られた二つの名前だけで、そこまで読めます。
打つほうが、泣く
勧進帳の山場は、変装を見破られかけた弁慶が、疑いを晴らすために主君の義経を金剛杖で打ちすえる場面です。家来が主君を打つ。当時の芝居として、これはかなり際どい見せ場でした。富樫はそれを見て、弁慶の忠義に感じ入り、正体を承知のうえで関を通します。
義経は負ける側の人です。兄・頼朝に追われ、都から落ち、最後は衣川で死ぬ。それでも江戸の庶民は義経を好みました。判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉は、義経が就いていた検非違使尉、通称「判官」という官職から来ています。江戸初期の俳諧集『毛吹草』(寛永15年/1638)にはすでにこの語が見えます。強い者ではなく、追われる者に肩入れする。武者絵が売れ続けた理由の半分は、たぶんここにあります。
物語から、役者の顔へ
明治まで下ると、こうなります。三枚続を使いながら、描かれているのは合戦でも関所でもなく、弁慶を演じる九代目市川團十郎の顔です。胸元に並ぶ白い房飾りは山伏装束のしるしで、勧進帳の弁慶だと分かる。けれど画面にあるのは、演技の瞬間ではなく、その顔つきです。
義経と弁慶の話は、まず語り物になり、能になり、歌舞伎になり、そして役者の顔として売られるところまで来ました。同じ題材が四百年かけて姿を変えていく、その最後のほうの一枚が芳年のこれです。芳年がどこへ向かったのかは月岡芳年のページに書きました。
つづけて読む
- 武者絵の名作を追う(連載の目次) — 全7回の見取り図
- 第3回 太平記と楠木正成 — 実名で描いてよい時代と、駄目な時代
- 第1回 国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」 — 札で名前を貼るという武者絵の作法
- 浮世絵ができるまで — 校合摺が工程のどこに来るか
- 歌川国芳 — 三枚続を一枚の画面として使う人